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「そう言ったのは、誰です?」




「……ギー!」


 肩で息をしながら立っているのは、紛れもなくラクイラの王子です。

 ですが――それにもかかわらず、とっさに私まで身を竦めてしまいました。

 あまりにも平素と様子が違います。ピリピリと痛いのに重苦しい、殺気のような気配を纏って、彼は中央通路を歩いてきました。

 マヒト卿がうろたえ、私を抱えたままじりじりと後退ります。


「だ……誰か! 誰かいないのか! こいつをつまみ出――」


 皆まで言わせず、ギーが床を蹴りました。

 ひっと喉を引きつらせたマヒト卿が、応戦すべく儀礼用の剣を抜きます。重いばかりで実用性のない剣を一撃で弾くと、マヒト卿の胸倉を掴んで会衆席に叩きつけました。

 抜き身の剣が、不穏に光を弾きます。


「……面白い冗談だな。俺が一人で来たとでも思っているのか?」


 ぞっとするような声でした。

 蒼白になったマヒト卿に、彼は笑みすら浮かべないまま刃を突きつけていました。


「ラクイラでの件、外部の人間が絡んでいることはわかっていた。俺は囮だ。お前に決定的な証拠を吐き出させるために、猊下の許しを得て動いていた」

「まさか……猊下が……」

「これで終わりだ。お前には、報いを受けてもらう」


 肌をさすような殺気を放ちながら、彼の声は恐ろしく冷静でした。

 彼はいつだって鷹揚で、いつもしれっとした顔で、とんでもないことをやってのける人間だと思っていました。怒ることも悲しむことも、一定以上の振り幅はないように思えていたのです。


 想像もしていなかった顔。 

 ――それが誰のためのものかなんて、考えたくはない。


 うっかり気圧されている場合ではありません。

 したたかに打ち付けた腰を押さえながら、私は呼吸を整えて、声を掛けました。


「ギー」


 ……あ、そういえば聞こえない状態なんでした。

 ため息まじりに歩みよって袖を引くと、黄金色の瞳が、まだ剣呑さを帯びたまま私を見ました。


「助けてくれて、ありがとうございます」


 聞こえていないからこそ素直に言えた言葉です。

 ちらりと眉を顰め、ギーが応じました。


「聞こえんぞ」

「これのせいですよ。壊せますか?」

「それか。壊せばいいんだな」


 ゆっくり喋って指さしたとはいえ、相変わらず勘の良さは一品です。

 身を起こしたギーにほっとしながら、私は頷いて手をおろしました。魔法加工が施されているとはいえ、ペンダント自体は普通の装飾品と大差ないものだったようです。ギーは片手だけであっさりと鎖を壊しました。

 空気の壁による息苦しさがようやく解消されます。意識していなかった息苦しさに大きく息を吐き、私は繋がれたままの手枷を見下ろしました。

 両手がくっつくタイプのものなので、こちらを怪我なしに壊すのは難しそうです。


「マヒト卿、鍵はどこですか?」

「……上着の……内ポケット、に」


 消沈した声でマヒト卿が答えました。ギーが言われた場所から鍵を探り当て、私に向かって放ります。

 って、私に投げてどうするんですか。

 内心焦りながら受け止め、私は思いきり、顔をしかめました。


「……ギルバート王子」

「何だ。呼び方が戻ったな」

「それは今どうでもいいです。自分で外せなんて無茶を言うつもりじゃないですよね」


 マヒト卿に剣を向けたまま、彼はいかにも怪訝そうな顔を見せました。


「外せるだろう。そのサイズなら、こう手首をひねって――」

「実演はいりませんので外してください」


 確信しました。やはりこの人はまったくもってこの人です。

 マヒト卿に隙を見せたくないのかもしれませんが、自分にできることを他人にもできることだと思わないでいただきたいものです。

 今一つ納得できていない様子のギーから助けを借りて、ようやく人心地つきました。

 外した手枷を受け取ったギーが、ふと思いついたようにマヒト卿を見ました。


「そうだ。こいつに填めておくか」

「え、入りますか?」

「入る入る」


 私でちょうどいいサイズだったので、ちょっと無理があると思うんですが……。

 果たしてどうだろうと眺めていると、相手の悲鳴などどこ吹く風で、無理矢理ぎゅうぎゅうに押し込んで鍵をかけます。

 ちょっと肉が挟まれてしまっている気がしますが……まあいいか。多少は痛い目をみてもらいましょう。


「それにしても、まさかあなたが最初に辿り着くとは思いませんでしたよ。……よくここがわかりましたね」

「技師長に術式を読んでもらった」

「ああ……。そういえばあなた、そんな特技がありましたっけ……」

「あとは父上の口癖だ。戦う前に相手の根城を押さえておけと。だいたいの座標がわかれば、目安はつく」


 納得です。海賊相手に鳴らした獅子王らしいというのか。助かりましたが、決闘の相手にそれをやるのはちょっと間違っているような気もします。

 ギーは忌々しげに舌打ちしました。

 落ち着いたようでいて、まだ怒りは鎮まっていなかったようです。


「何かするようなら斬ってやろうと思ってたんだが、不意を突かれた。……すまん」

「気にしないでください。あの状況で、あれはちょっと想定しがたいです」


 うかつに近づいたのは私の失敗です。正直、ここまで破れかぶれになってくるとは思っていませんでした。

 不意に、乱れた髪を一房摘み上げられて、顔を上げました。

 夕焼けに似た黄金の瞳。

 まっすぐなその色を、拒む気持ちを持たずに見返すことができたのは、久しぶりのような気がしました。


「無事か?」

「……とりあえずは」

「ならいい」


 安堵の声とともに、熱が離れました。

 その空隙のような感覚に戸惑っていると、すっかり殺気を納めたかに見えたギーが、台無しなことを言い出しました。


「それで、こいつは斬っていいのか? いいなら殺したいんだが」

「……よくないので待ってください。ただでさえ頭が痛いのに、どう始末をしたものだか……」


 いかにも不満そうなギーの顔は見ない振りです。

 そう、今はそれどころではないのです。衛士もそろそろここへたどり着くでしょうし、どう収拾をつけるかの方針くらいは決めておかなくては。

 善後策に頭を悩ませていたそのとき、雑然とした聖堂に、場違いな幼い声が響きました。


「あれぇ、さきこされちゃった」


 顔を向ければ、ヒナが目を丸くして立っています。

 ことりと首を傾げる仕草に、なぜか、嫌な予感を覚えました。

 小さな手が無造作に持っている剣から、ぴたん、と音を立て、赤い滴がしたたり落ちました。

 氷が背中を滑るような冷たさを覚え、私は低い声で訊ねました。


「……ヒナ……あなた、人を、斬りましたか」


 ヒナは無邪気に笑い、両手を広げて言いました。


「ほら、やっぱりヒナが正しかったよ、せーか。……そいつはころしておかなきゃ」


 取り押さえられたままのマヒト卿が、蒼白な顔でヒナを凝視します。

 緊張に張りつめた空気の中、再び、水音が床に跳ねました。


「ヒナ、私はいいとは言っていません。……剣を収めなさい」


 答えは、どこか困ったような笑みでした。


「せーかは、それでいいよ。ヒナがカンタンにしてあげる」


 砲弾のように飛び出したヒナが、刃を手にマヒト卿に襲いかかります。

 重い金属音が聖堂に響きました。

 割って入ったギーの剣を受け、ヒナはひらりと空を舞って、会衆席の上に着地します。


「へんなのー。なんでギー王子がじゃまするの?」

「あいつに聞け」

「ちぇっ。……ねぇせーか。だめなの? なんで?」

「その人から聞き出したいことは山ほどあります。それが終わっても、殺していいことにはなりません。あなたが彼を殺すことは、私が彼を殺すことと同じなんですよ」

「わかんないなあ。そいつ、せーかに手をあげたんだよ? だめじゃないじゃん」


 確かにそれは、見当違いではありません。

 そして、ヒナがこねるような理屈でもない。

 自然と表情が険しくなるのを感じながら、私はヒナに訪ねました。


「……ヒナ。そう言ったのは、誰です?」

「さあ。わすれちゃった。だれでもいいよ」


 私はじりじりとした焦りに襲われながら、じっとヒナの目を睨みました。

 ヒナの本質は、紛れもない凶手です。生まれたその瞬間から作り上げられてきた刃。私との約束を守りながらも、彼女はずっと、「殺していい理由」を求めていた。

 飼い慣らせると思っていたわけではありませんが――ここで足下を掬われているのは、間違いなく、私の甘さです。


 笑みに曲げられたヒナの目が、緩やかに、瞼の奥へ隠れます。

 再び覗いた紅玉の瞳は、一片の幼さもない獰猛さで眇められていました。


「ねぇ、せーか。ヒナ、ずっとイイコにしてたよね。がまんしてたんだもん。だから……ころしていいやつくらい、ころしたいんだ」


 まるで空気の濃度を変えるかのような、強烈な殺気でした。

 もう他に方法はないとわかっているのに、それでもまだ説得の材料を探してしまう。

 私は、この期に及んで、この甘さが捨てられないのです。


「足止めすればいいのか?」


 うなだれそうになっていた私は、打たれたようにギーを見ました。


「何を……」

「時間を稼げば何とかなるだろう。その辺に衛士もいるしな」

「何を言うんですか! だからって、あなたに頼めるはずが――」


 一国の王位継承権者です。この場で命を賭けさせられるはずがない。

 ギーは顔をしかめただけで、剣を手にヒナと対峙しました。


「ギー!」

「いいから、巻き込め」


 ヒナが右手を閃かせ、一瞬置いて金属音が鼓膜を突きます。

 暗器を叩き落としたギーに逆の手で斬りかかり、受けられたのを見るや、跳ねるように距離を取る。その動きは、まるでゴムで引いたような敏捷さです。


「あははっ! ねぇギー王子、おかしいよね。ライバルだよ? いないほうがいいでしょ」

「こいつを殺したいのは山々だがな。俺が我慢してるんだからお前も我慢しろ」

「わがままー」

「同感だ」


 噛み合わない会話と刃を交わす二人を見つめ、私は、血が滲むほどに手を握り締めました。

 勝手なことを、と腹立たしく思います。

 けれど今、ここに必要なのは、開き直りでしょう。

 私は腹を決めると、床にへたりこむマヒト卿に駆け寄りました。


「立ってください。逃げますよ」

「な……なぜ……」

「説明も説教も、後でたっぷりしてあげます!」


 呆然とするマヒト卿を立たせ、ついで状況を理解し切れていない司祭をせっつきます。

 ヒナのけらけらという笑い声が、扉の向こうに聞こえました。


 

「ねえ、ギー王子。……まさか、じぶんがヒナよりつよいなんて、おもってないよね」


 

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