「まったく。そなたは私を信奉しすぎだ」
猊下の私室を訪うと、父上がローテーブルに突っ伏して眠っていました。
すっかり酔い潰されてしまっています。
珍しいですね、こんなに飲まれるなんて。弱いのは自覚されていたと思うんですが。
神官衣のままの私をご覧になって、ソファでくつろぐ猊下は含み笑いを転ばされました。
「なんだ、まだ仕事をしていたのか? そなたは真面目すぎていけない」
「いいじゃないですか。趣味なんです」
「それにしては、顔が渋いぞ」
誰のせいだとお思いですか。
そう言いたい気分を飲みこんで、女官から毛布を受けとりました。
首筋まで真っ赤に染めて眠る父の肩に掛け、卓上のワインを眺めます。さて、果たして何本目でしょう。猊下もいささか頬を上気させておいでで、多少なりともお過ごしのようです。
「まあ座れ。そやつが早々に潰れてしまったのでな。そなたもたまには付き合うといい」
猊下は手ずから、細身のグラスになみなみとワインを注がれました。
そのグラスを手に取らず、私は苦い声で、最近しょっちゅう口にしている問いかけを繰り返しました。
「……猊下。一体どのようなご貴慮ですか」
「暇つぶしに決まっておろう」
私が事実にたどり着いたことは、既に猊下の耳に入っていることでしょう。
お酒のお誘いについてではないと十分にご理解なさった上で、猊下はくつくつとお笑いになりました。
ラクイラで見かけた青い鳥。――その正体は、魔法で色を付けた鳩でした。
鮮やか過ぎる青銀は術式を読み取ったとおり、自然のものではなかったのです。
もちろん色を変えただけではありません。本命は長距離情報伝達の実験です。発色の式に巧妙に絡めて難読化し、容易には解析できないよう迷彩をかけた、実用的な情報収集の道具として開発されているものでした。
その実験の許可を求められた猊下が面白がって手を加えさせられ、この事態へと相成ったわけです。
現在実用化されている長距離通信は、対となる板に書きこんだ文字をそのまま転送する転写板だけです。小動物に魔法式を付与するだけでも高度な技術を求められますから、ある意味では当然である出所なのですが。
「まったく……暇つぶしで人を監視しないでください。信用されていないのかと思いますよ」
「監視とは人聞きの悪い。盗聴していたわけではないぞ」
「心拍数を拾うのも大概悪趣味ですけどね」
白い目を向けましたが、猊下は平然とグラスを傾けられるばかりです。
対象物を限定して心拍数を取得し、一程度を超えれば信号を送る。超えなければ取得したデータを一定の間隔で破棄する。これなら最大の障害である転送量と情報保持量の問題が解決しますが――動静と突き合わせて私の動揺を楽しんでおられたのかと思うと、さすがに腹立たしいものがあります。
「目くじらをたてていないで、付き合わぬか。毒は入っておらぬぞ」
「入っていたら、ますます猊下が理解できませんよ……」
「おや、私はわかりやすかろうに。娘が可愛くて仕方がないのだよ。それも同じだ」
艶やかな笑みをもって目線で示されたのは、見事に酔い潰れている我が父です。私を理由にしないでいただきたいのですが。
憮然として、私はワインに口をつけました。
うわ、甘い。父上に合わせられたのか……しかしこれ、かなり度数が高いですよ。父上が酔いつぶれるのも納得です。
夕餉を取りはぐれていたので、女官に軽食を頼みました。空腹にこれは少しまずいです。
私が観念したのを見て、猊下は上機嫌にグラスを重ねられました。
こういうのも団欒というのでしょうか。規則正しい父の寝息があまりに安穩で、怒り続ける気力がなくなってしまいます。
いろいろ言いたいことはあるものの、私は結局、この方に弱いのです。
「弱いくせによく飲んでな。めずらしくくだを巻いていた。父親というものも、なかなか気苦労の絶えぬものだな」
「肴が何だったのかは聞きたくないですね!」
「おや。かえって気にならぬか?」
「なりません。大体想像はつきますから。勝手に盛り上がらないで欲しいです」
そもそも父上を感傷に浸らせるような話ではないのです。一切、完全に、断固として!
ふてくされて蜜のようなお酒を煽ると、喉に絡まるような甘みが残ります。猊下は肩をすくめながら、空になったグラスにワインを注ぎました。
「お前の色恋沙汰は初めてだからな。皆面白がっているのだろうよ」
やはりといいますか、猊下の中でもマヒト卿はカウントに入らないようです。
やたらと言い寄って見せてはいますが……演技力、ないですからね。あの人。
「私は楽しくないです」
「かたくなだな」
ええそうです、意固地になっています。
猊下の前で取り繕うことはありません。素直に現状を白状する気もありませんが。
頬杖をついて頬をふくらませると、猊下が目を細められました。
「なあ、アヤリ。何をそのように気負っている?」
ふと投げかけられた問い。
その穏やかさに、私は困惑して顔を上げました。
「……何のお話ですか」
「皇配は確かに政治利用のできる手札だ。だが、それを用いずとも、そなたはうまく国を治めるだろう」
「……そうは思いません」
「私は好きな者を夫に選んだぞ。それは誤りだったと思うか?」
「いいえ。……そうではないんです。私は……」
唇を結び、私は視線を落としました。
私は、猊下と同じものを持ち合わせてはいないのです。
息を飲むほどの美貌。居並ぶ古狸をさえ圧倒する神威。それはどうあがき、どう言い繕ったところで、私にはないものなのです。
たとえばラクイラでの一件。猊下であれば、毒を盛るような不届者はいなかったでしょう。たとえそれが即位前であったとしても。この方は、それを躊躇わせるだけの力を持った存在なのです。
私には、そんな力はありません。
けれど私は、私を否定させるわけにはいかないのです。
私という存在は、猊下の選択の結果です。それを否定させることは、猊下を否定することに等しい。誰にもそんなことは許せない。だからこそ、どんな手段を用いてでも周囲に私を認めさせる必要があります。――〈神后〉として、ふさわしい存在であるのだと。誰もにそう思わせたい。私が願っているのは、そんな単純なものなのです。
そんな言葉、酒の席だろうと、口にできるはずがありません。
黙り込んだ私に、猊下は微苦笑を浮かべて、芸術品のような造形の腕を組まれました。
「まったく。そなたは私を信奉しすぎだ」
「ほっといてください」
「私はな、アヤリ。努力家で優秀な後継であるそなたを誇りに思っている。だがそれと同じくらい、そなたには幸せになって欲しいのだよ」
「……十分幸せです。現に今も、嬉々として第二神官長を陥れようとしてます」
猊下が仰るのはそういう意味ではないことを知りながら、私は憮然と返しました。
そうかと笑い、猊下はそれを受け流されます。
すべてを手に入れているわけではありませんが、確かに私は満ち足りているのです。
私のために骨身を惜しまず動いてくれる人がいて、程よく敵がいて、利益で繋がった味方もいる。とても充実しています。……そのはずです。
酔いが回り始めた頭を振り、私はささやかな感傷を打ち消しました。
「そなたはよくやっている。だがな、人間は感情の生き物で、人生には無駄が必要だ」
何やら引っ掛かりを感じて、私は猊下を睨みました。
「……まさか、本当にそのおつもりでラクイラの王子を招かれたんですか?」
「それこそまさかだ。ラクイラより求められたから許しただけのことだが……理由があるのは確かだな。あとはそなたで考えるといい」
濡れた黒曜石の瞳を静かに眇め、猊下は笑みを深められました。
そこには促すような意図があります。
私が顔をしかめたとき、猊下の侍従が部屋を訪れました。
すでに夜は更けています。私がここにいるのは彼も知っているでしょうから、これはめずらしいことでした。
「おくつろぎのところを申し訳ありません。急ぎ、お耳に入れたいことが」
「構わん」
許しを得て、侍従が猊下に何事かをささやきます。
猊下はすっと目を細め、剣呑に赤い唇を持ち上げました。
どうやら、何か厄介ごとがあったようです。
「ラクイラの王子に毒を盛った馬鹿がいるらしい」
告げられた言葉の意味を、一瞬、取り逃しました。
とっさに息を詰めてしまった私に、猊下は目を伏せて指示を向けられました。
「安心しろ。生きている。調べついでに警告に行っておいで」




