眠りの期間に起きたこと
今回三人称視点です。
ちょっと長いですが、1万は行っていないのでまあいいかなと。
知らせを受けて駆けつけたサキは、蒼白な顔で主人の前に両膝をついた。
長椅子に横たえられた、彼女の至尊の存在。
どこか幼さの残る顔はひどく静かだ。苦悶は見られない。その胸がわずかに上下していなければ――生きているのかどうか不安になるほどに。
ギルバートが硬い表情で見つめる中、サキは彼女の手に額を寄せた。
祈るように目を伏せる。ゆっくりとした長いため息は、抑えきることのできない怒りに震えていた。
「星下は、何と?」
「……隠せと言っていた」
「そう……そうでしょうね」
優美な所作で立ち上がった〈星〉の侍従は、滾り立つような怒りを目に宿してギルバートを睨んだ。
その強さに、壁際に控えるリドが息を飲む。
「この先はわたくしが差配いたしますわ。去りなさい。そして黙しなさい。こちらの要求はそれだけよ」
「断る。理由を言え」
サキが瞬間、無表情になる。
叩き返すようなギルバートの答えに、リドがぎょっとして声を上げた。
「殿下!」
「……その頭には一体何が入っているのかしら。自分が命令できる立場にあると思って?」
「あろうがなかろうが関係ない。説明しろ」
「寝言を言いたいなら死になさい! 今すぐに!」
裂帛の怒声が窓を震わせた。凍てつくような目がギルバートを射抜く。
「おめおめと目の前で傷つけられて、よくもそんな口を……! 適うならこの国ごと焼き払ってしまいたいくらいだわ! ええ、星下がお止めにならなければそうしていてよ!」
突き立てるような殺気に、リドが青い顔で割って入った。
何か言おうとするギルバートを視線で宥め、サキの憤りを真正面から受け止める。
「今回の件は、紛れもなくこちらの手落ちです。本当に申し訳ございません。お詫びして済むはずもありませんが……内密にとのことであれば、相応の医師をお呼びします。我々にも、可能な限りの協力お許しいただきたいのです。どうか、ご受容いただけませんか」
真摯な言葉にサキは嫌そうな顔を見せたが、ややあって、細い息を吐いた。
「……医師は必要ないわ」
「あいつもそう言っていたな。何故だ?」
ギルバートの問い掛けに、彼女はちらりと眉をひそめた。
その目に僅かな迷いをのぞかせ、眠る主人を見つめる。
やがて、彼女は目を伏せて答えた。
「……リド。少し外していただけるかしら」
「えっ」
「安心なさいな。殺さなくてよ。とりあえず今は」
余計に不安になるようなことを付け加え、彼女はリドを促した。
ギルバートにまで「早く行け」と渋面で言われ、彼はためらいながらも扉に向かう。その背中に、サキが思い出したように声をかけた。
「神殿のイッサを呼んでくださる? 砂色の髪の衛士よ」
「あ……あの人ですね。わかりました」
扉が、静かに閉められる。
淀んだ沈黙の中で、サキは気怠げにソファに腰を降ろした。
「これから話すことは他言無用。よろしくて?」
「ああ」
「もし漏らすようなら、その首はないとお思いなさい」
ギルバートは壁に背を預け、腕を組んで頷いた。
それを胡乱な目で見やり、サキは沈んだ声で告げる。
「時の〈神后〉とその直系は、決して害されることはない……建前の話ではなくてよ。それは、実際的に不可能なの」
「どういう意味だ?」
「刃でも毒でも病でも、神の眷属であるあの方を侵すことはできない。必ず癒されますわ。それが、あの方が神に与えられた〈祝福〉だから。これは諸国の王と、限られた神官のみが知ることよ」
人を癒す技術はあっても、魔法は存在しない。
当然のこととして知られるそれと異なる事実に、だがギルバートは安堵を浮かべて答えた。
「医者いらずか。便利だな」
あっさりとした反応へ盛大に顔をしかめ、サキは額に手を当てる。
「……アヤリ様のお気持ちがわかった気がしますわ……」
「それで、今はどうなっているんだ? すぐに目が覚めるのか?」
「快復なされば目を覚まされてよ。治癒の間は意識を保てませんの。……様子からして、致死性のものですわね。数日は目覚められないわ」
ギルバートが目を眇める。
リドの言った通り、これは途方のない失態だ。警備の配置を思い返す。手配は通常通りに行った。だが、どこかに見落としがあったからこそ、こんな事態を引き起こしてしまったのだ。
「……隠す理由は何だ? あいつはそこまで甘い奴じゃないだろう」
「ああ、思ったよりも愚かではないのね」
肯定を返し、サキは忌々しさの滲む声で言った。
「手を下したのはラクイラの者であっても、黒幕はそうではないからよ」
「どういう意味だ?」
「よくお考えなさい。ラクイラのような田舎に、〈星〉を弑するような不信心者がいて? どうなるかを考える以前に思いつきもしませんわ。大方、笑い薬だとでも聞かされていたのでしょうけれど……下手人を捕らえるだけでは意味が無いわ」
辺境になればなるほど、信心は深くなる傾向にある。むしろ〈神后〉を神位ではなく施政者として見るのは、神殿の人間だ。
意図的に攻撃しやすい空気を作っていたことには触れず、サキは剣呑な目を窓の外に投げた。
「〈星〉に毒を盛るような人間は神殿にしかいなくてよ。そして神殿の人間は、〈祝福〉こそ知らなくても、〈星〉を弑することができないことは当然知っている……浅はかにも程があるけれど、ラクイラの責任を問うための策略ですわね。そうお考えになったからこそ、アヤリ様はこれを隠せとおっしゃったのよ」
考えもしなかった可能性に、ギルバートは苦々しい顔で「迂遠だな」と吐き捨てた。
だが、確実な方法ではある。そうまでしてラクイラを害したい人間がいることに、濁るような気分の悪さを持て余した。
視線を床に落とす。自然と、言葉が口をついた。
「……すまない」
ギルバートの謝罪に、サキが怪訝な顔をした。
「何についての謝罪かしら。心当たりが多すぎてよ」
「お前の言った通りだ。目の前にいたのに、俺は気付かなかった。……責められて当然だ」
サキが少しだけ意外そうな表情をひらめかせる。
彼女はため息混じりに何かを言いかけたが、足音に気づいて口を閉ざした。
リドがその人物を呼び止める声が聞こえた。おそらく、こちらに知らせるためだったのだろう。
――その名前は、主人が気に入っていた、ラクイラの内務卿のものだった。
間を置かず、部屋の扉が叩かれる。
サキと目配せを交わして了解を得ると、ギルバートは相手に入室を促した。
「入れ」
「失礼いたします」
姿を見せたのは、予想通りの緋色の男だった。その後ろに、困り切った顔をしたリドが続いたので、サキは彼に冷ややかな眼差しを送った。
ガルグリッドは目礼して部屋を見渡した。長椅子に横たえられた〈星〉の姿を認め、その顔に険しい表情を浮かべる。
「……星下に危急があったと聞き参りました。御容態をお聞かせ願えますか」
「見てのとおりですわ。大事ございません」
ギルバートが言葉を飲んで唇を曲げた。下手に口を挟めるほど、裏を読むやりとりに長けてはいない。
到底本心とは思えないサキの無感動な返答に、ガルグリッドは怯むことなく続けた。
「この度の事、誠に申し訳ありません。内密にとのご意向かと存じますので、関係者は拘束せず監視をつけております。ご許可があれば、すぐに身柄を確保いたしましょう」
「結構ですわ。ゆめゆめ逃がさぬようお願いいたします」
「承知いたしました」
無骨な容姿で流れるように一礼し、彼は射抜くような強い目でサキを見据えた。
「ところで、確認させて頂きたいのですが……星下は幾度に渡り、警護の者に配置の変更を指示なさったと報告を受けております。何か僭越がございましたでしょうか」
「ああ……休暇ですもの。こちらも衛士は伴っておりますし、星下もお気を休められたかったのですわ」
「然様ですか。至らぬことをお詫び申し上げます」
「星下にお伝えいたしますわ。それよりも、今回の件の捜査はくれぐれも内密に。漏れてお困りになるのはどちらか、よくおわかりでしょう?」
「無論、重々承知しております。不躾な訪問、どうぞご寛如のほどを」
冷然と微笑むサキに再び頭を下げ、内務卿は迷いのない足取りで部屋を後にする。
扉が閉まり、一触即発の気配が薄れたことにリドがほっと息を吐いた。
そんな中、サキがつかつかとソファに歩み寄り――唐突に、握った拳をクッションに叩き込んだ。
「サ、サキ嬢?」
「なんてこと……忌々しい、してやられましたわ!」
呪詛のような声に、リドは驚いて目を瞠った。
「え!? そ、そうは思いませんでしたが、どこが……」
「分からないならそれでよくてよ。……まったく、責任を問う余地は残しておきたかったというのに……! どうしてこの国にあんな人材がいるんですの!」
いらいらと吐き捨てる声は周囲をはばかってか潜められている。
先程の会話のどこに彼女の失態があったのかわからず、リドは困惑して首を捻った。
サキはしばらく険しい顔で考えに沈んでいたが、ふと、思い出したようにギルバートを見た。
「あなた、いつまでここにいるおつもり? さっさとお戻りなさい」
「いや。そいつを部屋まで運ぶ」
「冗談ではありませんわ! させるわけがなくてよ!」
猫が毛を逆立てるような勢いで怒鳴ったサキに、ギルバートは渋面を見せた。
「それくらいさせろ」
「馬鹿も休み休みおっしゃい! アヤリ様の名誉に関わりますわよ!」
「見られなければいいだろう。気にするな」
「……ああもう殺したい!」
サキは結い上げていた髪を下ろし、苛立ちをぶつけるように掻き毟った。
「リド、さっさとこちらの関係者を呼んできてくださらない!? わたくしは内務卿を呼ぶよう頼んだ覚えはなくてよ!」
「す、すみません……」
呼んだわけではなく端から事態を知られていたのだが、リドは所在なく頭を下げた。
それを眺め、ギルバートは苦い息を吐いた。ここまで自分の立場を煩わしいと思ったのは、初めてのことかもしれない。
後ろ髪を引かれるように、眠る女を見た。
静かなその顔は、どこか知らないもののように思えた。
ガルグリッドが執務室を訪れたとき、王子はすでに大半の書類を片付けていた。
使い走りに出ているのか、従者の姿がない。見張りなしでも黙々と仕事をしているのだから、これは褒めていいことだろう。
何食わぬ顔で紛れ込ませた新月祭以外の案件は、いずれ王子に叩き込もうとしていたものだ。
王子は盛大な渋面を見せただけで、大人しくその書類に目を通した。
今回の件で、ガルグリッドは王子の評価を大きく修正していた。ギルバートが〈星〉を害した下手人を見つけ出すために取った手筈は的確迅速かつ無慈悲で、ことを公にしないため途中で捜査権を取り上げる必要があった。獅子王の片鱗を伺わせる冷徹さを、この王子が表に出したのは、初めてのことだった。
奔放すぎるきらいはあれど、ギルバートは無能ではない。考える事とやることが突飛なせいで見落としがちだが、それなりの実務能力は備えており、実行力と人を惹く力がある。なにより偉大な父に萎縮しない太い神経は、英雄の跡継ぎとして得がたい資質だ。
その王子も、もう子供とは言えない年齢である。そろそろ良い伴侶を迎え、父王の跡を継ぐ準備を始めさせたいと考えていた。
確かに、今回の件は大きな痛手だ。だがそれで王子の自覚を引き出せたのなら、あとは支払わねばならない対価を可能な限り下げさせるだけだろう。
そしてそれは、こちらの仕事だ。
ガルグリッドは新たな書類を追加し、決済済みの書類を簡単に確認する。
――バキッ、と派手な音がした。
顔を上げれば、王子が折れたペンを見て苦い顔をしている。ガルグリッドは表情を変えず、淡々と訊ねた。
「折れましたか」
「……すまん」
「いえ。替わりを用意させましょう」
苛立ちを抑えきることができないのは若さだろう。駄々をこねないだけこの程度は微笑ましいものだ。
さらりと流して女官を呼ぶと、ギルバートが立ち上がった。
「殿下、どちらへ?」
「走ってくる」
「どちらをです」
「その辺」
「……承知いたしました。城外へはお出になりませんよう」
仏頂面で出て行くギルバートは答えなかったが、おそらくその心配はないだろう。
大きな音を立てて閉まった扉に嘆息し、ガルグリッドはひとりごちた。
「親子だな……憂さの晴らし方が同じだ」
近衛の訓練に混ざった王子は、父王のように兵士を潰すところまでは行かなかった。
吐くほど走って体力を使い果たし、ギルバートは地面に大の字に転がる。
目の前には高く透き通るような空が一杯に広がっていた。疲労で鈍くなった頭で雲ひとつない青を見上げると、鬱陶しい感情が少しばかり薄れた気がした。
起き上がろうとしないギルバートに、兵士が笑いながら声をかけた。
「殿下、大丈夫ですか?」
「ああ」
「吐くなら別のとこで吐いてくださいねー。掃除の子が困るんで」
「……吐かん」
「そうですね、最近はもう成長されちゃいましたね」
腹筋だけで上半身を起こすと、馴染みの兵士が朗らかな笑顔を見せていた。
「みんな心配してますよ。殿下が不気味……もとい、おとなしいって」
「そうか」
「何か企んでるならいいんですけどね。あんまり悩まないでください。あなたに元気がないと、誰も彼もなんだか落ち着かないみたいです」
綿布を受け取って汗を拭い、ギルバートは再び地面に転がった。
「うだうだ考えるのは嫌いだ」
「ええ」
「待つのも好きじゃない」
「ええ、知ってます」
「……それでも、そうするしかないこともあるんだと思うと、腹が立つ」
兵士は目を丸くし、やがて苦笑した。
「大人になるって、難しいですね」
ギルバートは顔を向けないまま、憮然と黙り込んだ。確信を突かれたような、的はずれなことを言われたような、よく分からない気持ちの悪さを持て余す。
体を冷やさないよう重ねて言い含められ、綿布を被って城に戻った。
ガルグリッドは平然とした顔で仕事を積み上げているだろう。おまけにあの無表情であれこれと判断の意図を訊ねてくるのだから嫌になる。
勝手に動けば〈星〉の不利になることを滔々と言い聞かされてうんざりしたが、さすがにうかつに動けないことは理解した。
あれから三日。事態は動かない。
ガルグリッドの念の入れようはかなりのもので、ギルバートもほぼ軟禁状態の日々が続いている。やることと言ったら仕事くらいしかない。あとはせいぜい、リドに八つ当たりをするくらいだ。
そのリドの声が聞こえ、ギルバートは足を止めた。
迎賓館に続く、長い廊下の入り口。リドと話しているのは、〈星〉の侍従だ。
「サキ嬢、少し休んでください」
「余計な気を回さないでくださる? あなたに心配されるいわれはなくてよ」
「いいえ、これは忠告です」
耳障りの悪い言葉に、サキが不快げに眉を顰めた。
「星下がお目覚めになれば、あなたの力を必要となさるはずです。あなたが今すべきなのは、無理に星下に付き添われることではなく、そのときに備えることではありませんか?」
「……それこそ、余計なお世話ですわ」
ふいと顔を背け、サキは長い廊下を歩いていく。
ため息を吐いたリドに、ギルバートは声をかけた。
「めずらしいな」
「うわあ! で、でで殿下! びっくりさせないでください!」
上がった悲鳴がかろうじて潜められていたのは、サキに気づかれることをはばかってのことだろう。
「お前が女に冷たいことを言うのはめずらしい」
「ああ……いえ、そうですね。気持ちはわかりますから……」
自嘲気味にリドが笑う。
「僕も、殿下のお傍を離れたときにこんなことになったら、誰よりも自分を責めます。そして、それは正しいんですよ。……慰めなんて、必要がないんです」
それは、ギルバートには分からない感情だ。
沈黙を返した王子に、従者は急に勢い込んで言い募った。
「ですからあまり無茶をしないでくださいね! せめて護衛は撒かないでください!」
「わかった」
「あなたが即答するときは半分聞いていない時ですよね……!?」
特にそのつもりはなかったのだが、日頃の行いか信用はされなかった。
踵を返したギルバートに、リドがあわててついてくる。
「ギルバート王子」
琴の音に喩えられる美しい声。
足を止め、ギルバートは無言で振り返った。
そこにいたのは、フォーリの姫君だ。いつも従えていた取り巻きはいない。可憐な顔を緊張に強ばらせ、彼女は真っ直ぐにギルバートを見上げた。
「お聞きしたいことがあるの。お時間をいただける?」
「……ここでなら聞こう」
「いいえ、だめよ。星下のことなの」
顔をしかめたギルバートとは対照的に、リドが表情を変えて近くの空き部屋を口にした。
何か手がかりを得られると踏んでのことだろう。
リドが扉を閉めたのを確かめ、フィフィナは不安を隠さない目で切り出した。
「前置きはいらないわ。星下に何かあったのね?」
「……耳が早いな」
「ラクイラはどうするつもりなの? 神殿を敵に回すと厄介よ。ガルグリッド卿ならうまく立ちまわるでしょうけれど……わたしは他国の人間だから、あの人はわたしに助力を求めないわ。得られている情報が十分なのかを知りたいの」
切迫した様子で言い募る姫君に、ギルバートは低い声で訊ねた。
「お前は、知っていたのか?」
〈星〉がラクイラの令嬢から嫌がらせを受けていたことを、ギルバートはガルグリッドから聞いた。そしてそれが、他でもない彼女自身が差し向けたことなのだとも。
ガルグリッドは言わなかったが、それは、フィフィナが支持者を統率できなかった証左でもある。
「何を……というのは、愚問ね」
「なぜ話さなかった?」
「……そうね。保身だわ」
責めるような響きに、フィフィナは目を伏せた。
どこか痛みのただよう自嘲が、それ以上の言葉を続けさせない。
「これはラクイラの問題であって、フォーリが関与したことではないわ。わたしはそう言わなければならない。それでも……責任の一端は、わたしにもあるのよ」
静かな声で、彼女は言った。
――傷付いたときこそ傷を見せない女なのだと、その微笑に気づいた。
感情がうまく動かない。制御を超えて走るようでいて、一歩も先に進めていないようでもある。
そして待っているのはただの後悔だ。考えのない言葉はフィフィナを傷つけただろう。人の事を言えたことかと、苛立ちが増した。
責任がどうのと言うのなら、それはギルバート個人にもあるのだ。たとえ〈星〉を招いたのが彼ではなかったとしても、それに甘えて何をしているのか知ろうともしなかった。
知っていたら、止めただろうか。
おそらく止めなかっただろう。その程度には、彼女の強さを過信していた。
夜半になってようやく仕事を一区切りさせ、ギルバートは音を立てて椅子の背にもたれた。
書類を確かめ、リドが気遣わしげな目を向ける。
「なにか温かいものをお持ちしましょうか?」
「酒」
「駄目です。今の殿下だと悪酔いします」
きっぱりと返されて、ギルバートは天井を仰いだ。女官が子供扱いに温めたミルクを運んでくる。最初から聞くなとリドに丸めた紙を投げつけて、ギルバートはカップを空にした。
部屋に一人残されると、もやもやした感情が、また頭をもたげてきた。
面倒だと唇を結び、思い立って部屋を出た。
向かうのは、白亜の迎賓館だ。
おそらくは怒鳴られて追い返されるだろう。そう思って扉を叩いた彼を迎えたのは、見慣れない顔の神官だった。
「あら、ギルバート王子。サキに見つかったら殺されますよ」
発言は物騒だが、あっさりした口調に敵意は感じられない。
きょとんとした顔をして、まだ年若い神官は首を傾げてみせた。
「まだ寝てるのか?」
「寝てますねぇ。夜ですし。まあ昼も寝てましたけど。ていうかずっと寝てますけど」
「……そうか」
「ところで何の御用でしょう? 心配? 謝罪? それとも夜這い? まあ何でもいいんですけど。ちょっとなら入っていただいていいですよ。サキも休んでいるところですからいませんし、今がチャンスかと」
とつとつとした物言いで息をつく間もなく話し、彼女はギルバートを室内に招いた。
衛士も苦笑いを見せただけで、それを止めない。いささか拍子抜けするほどにあっさりと、彼らの主人への面会を許された。
襲うのはだめですよと無表情で釘を刺した神官は、だが大して頓着も見せず、ギルバートを一人寝室に残した。
新月を越えたばかりの月は、まだ細い。
ほんのわずかな青白い光の中、灯りのない部屋は痛いほどの静寂に満ちている。
ベッドの紗布をそっと手でよけた。
眠る女は、ひどく静かだ。怒らないし呆れない。作り笑いも浮かべない。
そういえば、ちゃんと笑ったところを見たことがないのだと、今さらのように気づいた。
苦々しさの強い苦笑。面倒くさそうなしかめ面。憮然としてこめかみを押さえる仕草。よく通る声は、打てば響くように言葉を返してくる。
背中を向け、ベッドによりかかるように座り込んだ。
押さえ込んでいた感情が、堰を切ったように喉を突き上げる。
溢れそうになった嗚咽を飲むために唇を噛んだ。
これを何と呼んだらいいのかわからない。後悔なのかもしれない。それとも、もっと違う何かか。
意識せず、口からこぼれたのは、呼んだことのない彼女の名前だった。
口にして初めて知った。痛みを訴えているのが、どこなのか。
「……寝すぎだろう。早く起きろ」
すがるような思いだった。
彼女が目を覚ましたらどうなるのか、それは分からない。けれど少なくとも、この途方に暮れるような不安からは開放される気がした。
ふと、背後で衣擦れの音がした。
ギルバートは思わず振り返る。
呆れたような掠れ声が、ため息混じりに言った。
「……やっとお前呼ばわりをやめたと思ったら、今度は呼び捨てですか……」




