第275話 着弾
暗い水中を、ライトの光を頼りに、少しずつ進んでいく。
すぐ隣には、全裸の薰が、ぴったりと俺に寄り添っている。
レギュレーターからの呼吸は、戸惑ってはいたようだが、何しろそれしか生き残る手段が無いのだ、必死にものにしているように見受けられた。
俺もなるべく彼女の腕を取り、岩に体をぶつけないように最大限の注意を払う。
むき出しの皮膚なのだ、岩にかすっただけでも、かなりの怪我を負ってしまうだろう。
それ以上に、初めての彼女のダイビングが気になっていた。
呼吸の方法に少しでも失敗してしまったならば、パニックを起こし、命の危険にさらされる可能性もある。
なるべくゆっくりと、薰と並んで進もうとするのだが、彼女の方が前に出ようとしてしまう……たぶん、捕まっている間が相当怖かったのだろう。
脱出してからまだ数分だが、すでにそれが敵に知られている可能性は十分に高い。
今考えれば、縄だってナイフで切断しているし、薰が刃物を持っていないことぐらい事前に把握していただろう。とすれば、外部から何者かが救出に来たことは容易に想像できるはずだ。
素潜りで追ってくるかもしれないが、それはすぐに諦める。
となれば、船で周囲を確認しにくる――。
そこまでは予想できる。
つまり、あまりのんびりしている暇はないのだ。
ゴムボートに乗って出発さえすれば、追いつかれることはまずない。
しかし先に発見、攻撃されると、その時点で脱出作戦は失敗の可能性が高くなる。
俺もはやる気持ちはあるが、海底洞窟は暗く、狭い上に、薰は保護スーツを着ておらず、岩への接触などに対して無防備だ。
俺は、そっと彼女の腕を、右手で引っ張った。
少し驚いて俺の顔を見る彼女に、少しだけ首を振る。
あまり、急ぐな、俺から離れるな――。
そんなサインを送ったつもりだった。
薰はそれを理解したようで、少し頷くと、ピタリと俺に体を寄せて、速度を合わせるようにゆっくりと泳ぎ始めた。
こんな状況だが、ほんの少しだけ、鼓動が高鳴っているのが分かる。
意識をしまいとは考えるが、隣の薰は全裸だ。
まるで美しい人魚が俺に寄り添い、頼りにされながら並んで泳いでいるような姿は、他の人が見ることがあったならば相当シュールな光景だろう。
俺としては、たとえ危機的な状況だったとしても、彼女が全面的に俺を信頼し、身を寄せて、俺の腕を掴んで、並んで泳いでいてくれることが、それだけで無性に嬉しかった。
そのまましばらく進んで、急に周囲が広くなった。
それと同時に、体が流されるような潮の流れを感じる。
ようやく洞窟の外に出たのだ。
喜んで浮上しようとする薰の腕を、俺はまた引っ張って、首を横に振った。
浮上はゆっくり、がスキューバダイビングにおける鉄則だ。彼女にもその事は説明してあった。
もちろん、あまり遅すぎると海賊団に発見される可能性が高まるのでまずいが、そこは俺が冷静にバランスを考える。
薰がいなくなっていることに気付いた海賊達は、まず周囲を捜す。
何人かは素潜りで追ってくるかもしれない。
しかしそれはすぐに諦め、島内の探索をする者と、海に逃げた可能性を考えて、船での捜索を開始する。
しかし、仮にそうしたとしても、手こぎの船で準備を整え、ぐるりと島を半周してゴムボートまで辿り着くのは、それなりに時間がかかるはずだ。俺達がスキューバダイビングで二百メートルほどの距離を進む時間よりも、速くはないと思われる。
俺は希望的観測でそう願っていたのだが、それは正しかった。
ゆっくり浮上し、まず俺が頭を海面に出して恐る恐る周囲を確認するが、人影も船の姿も見当たらなかった。
薰を水面に案内し、ゴムボートに乗り込んで、そして次に彼女を引っ張り上げた。
慣れないその行動に、一度は失敗したものの、二回目の挑戦で、彼女も無事ゴムボートに乗り込むことに成功した。
脱力し、全裸で体を横たえる美少女。
その濡れた裸体を月光が照らし出す光景は、俺をどきりとさせるほど美しかった。
しかしそれに見入っている場合ではない。彼女の体は冷えきっているはずだ。
急いでリュックの中からタオルを取りだし、体を拭くように指示した。
俺が拭いてあげようかとも思ったが、なんとなく、嫌がられそうな気がしてしまい……それに彼女自身も、そのぐらいは自分でできると素直にタオルを受け取った。
そしてさらにアルミ製の防寒ブランケットも取り出して、それにくるまるように追加で指示した。
非常に薄く、キラキラと輝いて、一見するとまったく暖かそうに見えないのに、くるまると風を凌ぎ、汗をかくほどに保温性に優れるその素材に、彼女は驚き、そしてほっとした様子だった。
と、そのとき、上方から声が聞こえてきた。
崖の上、島の高台から、何人かが俺達をのぞき込むように見ている。
まずい、と感じた俺は、すぐに電動モーターをスタートさせて、脱出にかかった。
手こぎの船で回り込んで追ってくるのは時間がかかるかもしれないが、駆け足で高台に上って見下ろすには、それほど遅れることがなかったのだ。
とはいえ、そんな高所から俺達を捕まえることなどできない。
ただ、石なんかを投げられて当てられると嫌なので、ゴムボートを急いで出した。
しばらく進んでもう安心、と思っていたところに、パーン、という乾いた銃声が響いた。
「……鉄砲! この距離だったら、届くんじゃない?」
薰がアルミブランケットにくるまったまま、心配そうにそう声を上げた。
「いや、この時代の鉄砲の弾は、ライフリングがない……うん、まあ、狙っても、いまいち精度が良くなくて、距離があればあるほどどこに飛んでいくかわからないようなものだから、このぐらい距離があれば……」
俺が安心させようとそう言った直後、バスッという鈍い音と、ゴムボート全体に感じるわずかな衝撃、パーンという乾いた音がほぼ同時に聞こえた。
「なっ……当たったのか? 薰、無事か!?」
「あ、はい、当たってない……です、でも、なんか変……」
プシューという、空気が抜ける音。
そして少しずつ傾いていくゴムボート。
「……まずいっ、穴を開けられたっ!」
状況を理解した俺は、不安げな薰の視線もあり、目の前が真っ白になる思いだった――。





