113.伯爵令嬢と床磨き
「わたしが生活魔法が得意なのは──というより、回復魔法と生活魔法しか使えないのだけれど──メイドとして働いていた経験があるからよ」
最初の生活魔法は、同情してくれた乳母とメイド長から教わった。
けれど、わたしを使用人として内緒で面倒を見ていたことがバレて、クビになった。
それまでも徐々に、馴染みのメイドがイーリースお継母様の息の掛かった者たちと入れ替えられていたけれど、古参のメイド長がいなくなってからは早かった。
周りのメイドは、わたしを虐めても扱き使ってもいいと思っている敵だけになったし、シャーリーンはそれを助長するように邪魔や嫌がらせを続けた。
メイドたちに、嫌がらせをするよう指示していたのだ。
でも、わたしが一番嫌いだったのは、シャーリーンではなかった。
使用人たちが、現伯爵令嬢であるシャーリーンの命令に逆らえないのは仕方がない。
ぶつかった振りをして階段掃除中に突き落とされても、水桶の汚水をぶっ掛けられても、仕方がないと思っていた。
シャーリーンのことも、血の繋がらない姉を嫌うのは仕方がないことだと思ったし、母親を真似てわたしに嫌がらせをするのも、仕方がないことだと思っていた。
掃除したばかりの床にぶちまけられた汚水を、這いつくばって拭き取って、元通りピカピカに磨かされるところまでがワンセットだった。
その上、仕事が遅いから食事抜き、だなんてこともよくあった。
生活魔法を駆使して早く終わらせれば、手抜きをしただろうと言って打たれた。
年長のメイドから平手打ちされることもあれば、モップの柄で寄って集って殴られたこともあった。
クビになる前の乳母とメイド長が、簡単な治癒魔法や浄化魔法などを一通り教えてくれていなければ、早々に詰んでいた。
乳母もメイド長も、自分たちがいなくなった後にどうなるか、的確に予想していたのだ。
わたしが嫌いだったのは、シャーリーンの命令を唯々諾々と聞き入れておきながら、わたしへの嫌がらせを「ごめんね」と言い申し訳なさそうな顔をしながら実行する、若いメイドたちだった。
(謝るくらいなら、やらなければいいのに)
表裏のある優柔不断さや日和見の態度が、とても不愉快だったことを覚えている。
嬉々として、わたしに手を上げていた新しいメイド長のほうが、よほどマシに思えた。
新しいメイド長は、自分の憂さ晴らしのためにわたしを叩いた。
本人がそれを自覚していたかどうかは別として、自分の欲に忠実だったという意味では、正直者と言える。
けれど若いメイドたちは、命令されたから仕方なく嫌がらせを実行しているのであって、自分たちの意思ではない、自分たちは悪くない、という態度を最後まで崩さなかった。
加害者にも傍観者にもなろうとしない、卑怯な日和見主義者だと──当時は思っていた。
(だからわたしはメイドが嫌いなのよ)
この先も──仮にこの先、令嬢の身分を取り戻せる日が来たとしても──従者がいれば、それでいい。
(普通の令嬢と違って、身の回りのことは自分でできるもの)
「本当は、右目さえ紅玉色でなければ、余所でメイドとして働けたかもしれないし、平民として飲食店で働けたかもしれないのだけれど」
わたしはクロスにもらったヘアピンで、右側の前髪を留めた。買い出しに行ったときに、前髪が鬱陶しいから何とかしろ、と強引に買い与えられたものだった。
宿にいる間は他人の目が気になったから、前髪で虹彩異色を隠したままでいたけれど、平原に出てしまえばわたしたちだけだ。
使わないでいると、それはそれでまた何か言われそうだったから、これを機会に身につけてみた。
「お、アリア、それ買ってもらったのか?」
目敏くレッドが気づいて言った。
「うん。少しだけ防御補正があるのよ」
「いいんじゃないか? 似合ってるぞ」
「わたしにお世辞を言ったところで、何も出ないわよ」
「世辞じゃねえよ」
「むしろ、これを買ってくれたクロスのほうを、センスがいいとか気前がいいとか言って誉めたほうが、餅菓の一つでも買って貰えるかもしれないわよ?」
「オレは金を払っただけだ。センスは関係ない。選んだのはアリアだ」
クロスがぼそっと、事実だけを言った。
「平原の集落には餅菓の屋台はない。真面目に魔法の授業を受けるなら、褒美に何か買ってやらないこともないが、別の菓子になるだろうな。それか、夕飯に肉料理を一品増やすか、だ」
クロスの言葉に、レッドが真剣に悩み始める。
「肉かあ……。肉も捨てがたいが、そろそろ魚が食いたいんだよなあ……」
「辺りをよく見ろ。水場はまだまだ先だ。立ち寄った集落で手に入っても、干物がいいところだ」
確かに、平原には大河が通っているはずだけれど、わたしの右目を以てしても、全く見えない。青々しい草原ばかりが広がっている。水辺までは非常に距離があるのだろう。
「オレ、干物大好き!」
──と、まあこんな感じで、平原での午後は平和に過ぎていったのだった。
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