87 神のお告げ
天界の、とある祭壇にて。
「ヴァーチェスが死んだ」
天軍九隊が一人、四つの頭と手を持つケルビムがあっけらかんと言葉を放つ。
もはや天軍九隊のメンバーは五人となっていた。セラフィム、ケルビム、オファニム、それから大天使と天使という顔ぶれである。
とはいっても、大天使と天使においては個体名がなく、死ねば別の大天使・天使が会議に参加することになっているので、戦力として数えるのは少し難しい。対太陽に関しては特にそう言えるだろう。大天使、天使クラスでは足止めすらままならないのだから。
実質、天軍九隊は三人となってしまっていた。だというのに、彼ら彼女らの顔に悲観がないのは、その歪な信仰のおかげだろうか。
「あの戦闘狂も、使命を全うしてくれたらしい。楔は二つ、あの化物にしっかりと打ち込まれたようだ……あと一つ打ち込めば、無力化は成功する」
「それは良い兆候です。信仰に死んだ仲間達を、私は誇りに思います」
ケルビムの言葉に、セラフィムは和やかに微笑んで仲間の死を祝福する。
その姿を、この場で唯一天使でないトリアは冷ややかに眺めていた。
「ふぅ……」
微かに息をついて、目を細める。この時、彼は天使という存在を雑魚だと蔑していた。
(生きることに執着がないんだ。じゃあ、弱いはずだよ)
エルフ特有の傲慢さはなおも消えていないが、その評価は適切である。何せ、天使一行は太陽に一矢報いるだけで精一杯だ。エルフはエルフで太陽に歯が立たなかったくせに、そこを棚上げにしてるところはトリアらしい。
「それでは、そろそろ私の出番でしょうか? あの人間に、借りを返すときが来ましたか?」
「あー、セラフィムさんボコられてたもんねー」
「ボコられてなどいませんけどね? 更に言うなら手加減もしてましたけどね?」
「強がるとか、キモい」
一方、天使達は次に誰が戦いに出るか相談していた。セラフィムがやる気を見せており、オファニムが茶化している中で……一行の参謀的な立ち位置にいるケルビムが、ゆっくりと首を横に振る。
「いや、てめぇはまだ出るな。俺が出る」
どうやら、一行の中で最も強いセラフィムを出すには早いと判断したらしい。
「最後の楔は俺が打つ。なに、実力的にはてめぇに劣るが……そこのエルフと協力すれば、問題ないはずだ」
眼鏡をくいくいっと上げる彼の言葉に、トリアは軽く頷いてみせた。
「まぁ、いいんじゃない? 僕はいつ出ても問題ない」
「よし、それでいいな? セラフィム」
「……やれやれ、仕方ありませんね。ケルビムなら問題ないでしょうし、期待してますよ? 神の意向に背かぬよう、全力で祈りを捧げてください」
「言われなくても分かってる」
ケルビムの言葉に、セラフィムはさわやかな笑顔で応えた。信頼関係もあるのだろう、ケルビムなら大丈夫だと疑いなく快諾している。
「さて、行くぞ」
こうして、ケルビムとトリアが加賀見太陽の下へ向かおうとした――ちょうど、その瞬間であった。
『待て』
声が、響いた。
重厚で、異様な響きのその声に、その場の誰もが動けなくなってしまう。
感じたのは――畏怖の念。この声の持ち主には逆らってはいけないと、誰もが無意識に理解したのだ。
見上げれば、そこには黒く禍々しい瘴気をまとった老人が一人。
祭壇の上に浮かぶその異様な存在を見て、天使一同は即座に頭を下げる。
「「「神よ……」」」
そう。そこに現れたのは、天使が崇めている神――タナトスだったのだ。
突然の出現に、天使一行はただただ平服する。誰も言葉を発さない。タナトスの一言一句聞き逃すまいと、誰もが意識を神に集中していた。
だから、誰も――トリアの動きに、気付けなかったのである。
「――っ!!」
神の出現と、同時。
トリアは無言で、装備していた漆黒の槍を神に向けて放った。
不意打ちであった。その場に居る天使の誰もが、予想だに出来なかった攻撃だった。
「なにをっ!?」
天使が反応できた瞬間には、もう神様に槍が届く瞬間で。
「っ……」
だが、その槍が神様に振れることは、なく。
『我の体はここに在らず。無駄なことをするな、エルフよ』
トリアの攻撃は、穂先が黒い瘴気を通り抜けるだけに終わっていた。神タナトスは、姿こそ現したものの厳密にいうと違ったらしい。攻撃できる体はどこにもなかった。
「なんだ、殺せないんだ」
攻撃が無駄だと気づいて、トリアは残念そうに槍を引っ込める。そんな彼を見て、神タナトスは感心したように声を漏らした。
『魔槍……闇属性、か。神殺しの属性を秘めた槍とは、また珍しいものを持っておる』
「ああ、これ? ここに来る前に、神様殺したいって言ってもらったんだ」
黄金の槍――プリューナクとは違うその黒き槍は、神を殺すために用意した武器だ。
『魔槍、とは……ヘパイストスの仕業か。なるほど、汝が天界に来たのはあれのせいのようだな。相変わらずの、愉快犯か』
「……さあ、どうだろうね」
『……フレイヤの加護を持つ人間が協力しているならともかく、それ以外でこの場所に来る手段など無い。余と同じ神が手を貸しでもしない限り、な』
顔は見えない。だが、その全てを見透かしているような言動に、トリアは身を強張らせる。
確かにその通りだったのだ。彼は偶然に出会った神、ヘパイストスの手を借りてこの天界に来ている。
一番の目的は、もちろん加賀見太陽を殺すこと。しかし、実はもう一つだけ、天界に来たのには理由があった。こちらは然程優先順位が高いものではなかったのだが、機会があれば達成したいと思っていた目的である。
それは――
『余を、殺したいのか?』
――そうだ。神を、殺したかった。
先回りされて、トリアはため息をつく。取り繕っても無駄だろうと、正直に心中を吐露した。
「……正確に言うなら、別に君を狙っているわけじゃない。ただ、神様ってことは、疑いがあるから殺そうと思っただけ」
そして、やる気のなさそうな彼の口調に……微かな、熱が宿る。
「あの、加賀見太陽をこの世界に連れてきた神様を、殺したいんだ」
トリアは、旅に出る前……自らの主である、アールヴ・アルフヘイムからとある可能性を聞いていた。
「加賀見太陽は、転生者だ。あれをこちらに連れてきたのは、神の気まぐれかもしれないって……だから、殺す。君が、その神であるのなら、僕はどんな手を使っても、殺す」
再び槍を向けるトリア。視線には鋭い殺意が宿っている。
その場の空気が冷えたような、それほどまでに剣呑とした雰囲気を発していた。
『違う。余ではない……あの人間は、欲しかったがな、別のに取られた』
だが、タナトスは否定した。その言葉に宿った後悔と嫉妬の感情は、本気のものだとトリアは感じる。
「……なんだ。じゃあいい」
すると、途端にトリアはやる気をなくしてしまった。槍を引き、元の無気力な態勢に戻る。
そんな彼に、タナトスもまた即座に興味を失ったようだ。
『煩わせるな……すまないな、余の愛しき信徒達よ』
トリアから、跪く天使たちに向き直り……タナトスは、神の言葉を告げる。
『汝らの信仰、誠に大儀である。これからも、その祈りを余に捧げよ』
「「「感謝します、神よ」」」
示し合わせるかのように重なった返事に、タナトスは労うような言葉を紡ぐ。
『殺すが良い。死ぬが良い。全ては余の供物となる。さすれば、死後の幸福を約束しよう』
ただ、それだけだとタナトスは言う。
神のお告げに、天使たち一行はただただ平服するばかりだった。誰もが一心に感謝と祈りを捧げている。
そんな、熱心な姿にタナトスは興が乗ったのか。
『褒美だ。ケルビムよ、汝に力を与える……あの人間の死を、余に捧げよ』
黒い瘴気の一部を、ケルビムに放った。黒々としたそれらは、ケルビムの体内へもぐりこんでいく。
何かが蠢く様は見ていて気持ちの良いものではなかったが、当の本人はタナトスの行動に喜んでいるようだ。
「か、感謝を……ありがたき、幸せっ」
死の神からの祝福が、良いものであるはずがないというのに。
盲目なまでに祈り信じる彼ら天使にとって、その祝福は歓喜に値するものだったのだ。
「絶対に、あの化物を殺してみせます!!」
『期待しておる』
そうして、神タナトスは姿を消す。
神の登場に、よりやる気になった天使達の戦いは、ここから佳境を迎えるのだ――




