62 ミュラのメイド奮闘記
深く深く、沈み込むような。
身体を優しく受け止めてくれるその柔らかさに、彼女は微睡む。
窓から差し込む陽光は温かく、ぽかぽかとしていい気持ちだった。
日当たりの悪く、ベッドなどなかった元住居とは段違いの居心地。
ふかふかのベッドは、彼女――ミュラというハーフエルフを、ダメにしてしまっていた。
「むにゃむにゃ……」
ふと目を開けて、ぼんやりと目をこする。大きな欠伸を一つ零して、徐々に意識が覚醒してくるミュラ。
「…………あ!!」
そうして彼女は、自分が寝坊したことに気付くのだった。
「おはようございます……と言いたいところですが、もうこんにちはですね」
寝坊したミュラが慌てて部屋を出ると、掃除をしているゼータと出くわした。怒ってはないようだが、仕方ないと言わんばかりに肩をすくめるメイド人形にミュラは頭を下げる。
「ご、ごめんなさいっ。その、ベッドがあまりにも心地よくて……」
「いえ、別に謝る必要はありません。ご主人様より、ミュラ様は甘やかせと命じられておりますので。どうぞ、思うままに自堕落な生活をお送りください」
「え、あ、そうなの? いや、でも、お仕事早く覚えたいので」
「承知いたしました。では、ご一緒に屋敷の清掃をいたしましょう」
「うん! よろしくお願いしますっ」
ゼータの言葉に、ミュラはやる気満々の声をあげる。されどもその格好は、寝起きそのままだった。
よれよれのパジャマに、ぼさぼさの髪の毛。唇には涎の跡も残っている。
「その前に身支度を整えてくださいませ」
「……っ。そ、そうだね」
それをゼータが指摘すれば、ミュラは顔を真っ赤にして小さく頷くのだった。
屋敷のお掃除。ゼータは簡単にやっているが、その作業はミュラにとってかなり大変なものだった。今まで狭いボロ小屋しか掃除してこなかったので、広い場所は手間取ってしまうのだ。
更にいうと、所々に飾られている高そうな装飾品も、ミュラが手を遅らせる一つの要因となっている。
「高そうな花瓶……これ割ったら、ボク死ぬのかなぁ」
魔術学院にもなかった高級品のように見える。びくびくとその周囲を掃除していると、そこでこの屋敷の主がひょっこりと顔を出してきた。
「お、ミュラじゃん。丁度良かった」
加賀見太陽が通路の角から出てきた。ミュラは慌てて姿勢を正して、ゼータのように頭を深く下ろす。
「こ、こんにちは、ご主人しゃまっ」
だが、噛んでしまった。慣れない真似事に舌が回らなかったらしい。
「うぅ、ごめんね太陽くん……上手くメイド出来てなくて」
「別に上手くする必要はないんだけどな。ま、適当に頑張れ」
そんなことよりもと、太陽は手元に持っているものをミュラに差し出してきた。
「これ食べてみ? 街で見つけたんだけど、俺の世界のチョコレートっていう食べ物に似てるんだよっ」
興奮気味に差し出されたのは、黒くて四角い物体だった。これ食べ物なの? と首を傾げるミュラだが、主の言葉を断れるほど彼女は気が強くない。
「い、いただきます」
思いきって一口。小さくかじると、舌がとろける様な甘さが口いっぱいに広がった。
「お、美味しいっ」
「だろ? 俺もびっくりしちゃってさ、高かったけど買っちゃった。これ、お前の分な。まだまだあるから、食べたい時はいつでも言えよ」
驚愕に目を丸くするミュラに、太陽は楽しそうな笑みを向ける。
「じゃ、ゼータにも渡してくるわ」
そう言ってさっさと歩き去る太陽に、ミュラはもにょもにょと口を緩めてしまった。チョコレートの甘さのせいでもあるが、何より太陽の優しさのせいでもある。
「太陽くん、戦ってる時はあんなに頼もしいのに……普段は優しいから、不思議だなぁ」
ハーフエルフの彼女にとって、強さと驕りは同一のものであった。強ければ、弱い者を見下げてもいい。そんな文化の中で生きてきた彼女にとって、強さを驕らない太陽は心底不思議な存在だったりする。
されども、それが嫌いというよりは、むしろ好きなわけで。
「……甘い」
嫌な気分など一つもなかった。もらったチョコレートをかじって、気分良く掃除を再開するミュラ。
鼻歌混じりの彼女は、少し気を緩めてしまっていた。
「――ぁ」
ふと、足元がふらついて。
何気なく手のついた先には、高級そうな花瓶があって。
それがゆっくりと傾き、やがて地面に落下して。
「ああああああ!?」
ガチャン、と。
盛大な音を立てて、花瓶は割れてしまった。
この屋敷に来て、二桁目となる破損事故だった。
「お怪我はありませんか? なければ、それで構いません。どうせご主人様のお金で購入したものですから、弁償の必要も皆無です」
素直に謝ると、ゼータはやはり許してくれた。淡々としているがその実、このメイド人形はとても優しい。主人である太陽には酷く意地悪な時もあるが、ミュラに対しては心優しいお姉さんのようでしかない。
「う、うん。怪我は、ないけど」
「それは何よりです。ミュラ様、そこまで心配する必要ありません。ご主人様は敵にこそ厳しいですが、身内には激甘ですので」
怒られる。怒られても仕方ない。そう思っていたミュラだが、ゼータはそんなこと気にする必要ないと首を振っていた。
いつもの言葉である。その言葉をミュラも疑っていなかった。太陽が怒ったところなど、エルフの国でしか見たことがない。
だが、ミュラが落ち込んでいるのは、怒られるからではなかった。自分の不器用さに、落ち込んでしまっていたのだ。
(いつもいつも、失敗ばっかり。怒られないからって、それでいいわけじゃない……ちゃんと、謝らないと)
住むところも、身寄りもない自分を置いてくれているのだ。それだけで感謝しなければいけないというのに、これ以上の迷惑をかけていては申し訳ない。
せめて、誠意をこめて謝ろう。そう決意して、彼女は太陽を探した。
(太陽くんは……お風呂か)
屋敷をうろつくことしばらく。太陽がお風呂に入っていることを知ったミュラは、何かを決意したように浴場に入っていく。
(誠意をっ)
誠意を見せるために。彼女は着ていたメイド服を脱ぎ捨て、タオルを体に巻いた後に……浴場の扉を開け放つのだった。
「た、太陽くん? ちょっといい?」
肉付きこそ薄いが、女性特有の真っ白な肌を晒したままに。
彼女はドキドキとしながらも、太陽に声をかける。
「……ん、ミュラか。お前もお風呂か?」
しかし、太陽は想像以上に普通だった。ミュラがお風呂に入って来ようとも平然としている。女性慣れしてない童貞のくせに、だ。
(あ、あれ? ボクはこんなにドキドキしてるのに……)
なんだか面白くないミュラは、むっとしながらも小さく頷く。体を流してから太陽の隣に腰を下ろした。
ともあれ、謝らなければ。意識を切り替えて、改めて太陽に向き直るミュラ。
「あ、あのね? 花瓶のこと、なんだけど……ごめんなさいっ」
勢いよく頭を下げるミュラに、されども太陽はやはり平然としていて。
「あー。そんな気にしなくてもいいぞ? あれ、ゼータの趣味で買ってるだけだし。確か予備もたくさん買わされたような……俺は別に装飾品とか興味ないからな」
軽やかに笑い飛ばして、頭を下げるミュラの頭をがしがしと叩く太陽。相変わらずの甘い態度に、ミュラはちょっとだけ唇を尖らしてしまうのだった。
「太陽くんはズルイ。優しすぎるよ」
何をしても許してくれる。甘やかしてくれる。何をしても、受け入れてくれる。
そんな太陽に、ミュラはどうしていいか分からなかった。子供のように頬を膨らませて、複雑な思いを訴える。
そうすれば、太陽はやれやれと肩をすくめるのだ。
「普通だろ。ミュラの方が気にし過ぎなんだって……お前はこの屋敷に来た以上、俺の身内だ。家族も同然なんだから、もっと楽にしろよ」
あっけらかんと、そう言ってくれる太陽に……ミュラは、そっぽを向くことしかできなかった。
「やっぱり、ズルイ」
そんなことを言われてしまっては、謝った自分が間違っているような気がしてズルイ。
でも、だから気を許してしまってダメなのだ。寝坊して、花瓶を割って、お風呂に乱入して……そんな自分勝手をしようとも、太陽は受け入れてくれる。
そんな彼に甘えている日常が、ミュラにとって居心地が良すぎて……彼女は、どうしていいか分からずに、戸惑っていたのである。
「ゆっくりでいいよ。俺はずっとここにいる。お前だって、ずっとここにいていいんだから……あんまり、慌てるな」
優しげな言葉に、ミュラは小さく息を吐き出す。
ふてくされてもしょうがない。そう思って、彼女は太陽の言葉にゆっくりと頷くのだった。
「そうする……」
今は、何もできないけれども。
いつか、この人の役に立てるような存在になれたらいいなと、そんなことを思って……
「あと、俺を悩殺しようとしてもダメだ。まだまだ子供なんだから、おマセなことすんなよ」
「……ボク、32歳なんだけど。エルフは成長が遅いから、子供って表現は適切だけどさ」
「―――なん、だと」
それと、いつか魅惑の体を手に入れて、太陽を誘惑してやるんだと。
そんなことを思って、ミュラはグッと拳を握るのであった――




