01_放浪者
――あの日、私たちは負けた。
――あの日、私たちの夢は終わった。
――あの日から、お兄ちゃんとお姉ちゃんは変わった。
――そして今日から、みんなも変わってしまった。
「どうか、その力、我々にお貸し頂きたい――」
おじさん達は言った。
大の大人が私達に頭を下げた。
兄姉達は、顔を見合わせて微笑んだ。
「駄目だよ、ユーリアお姉ちゃんに叱られる――」
その言葉が言えなかった。
私は、一番年下だから。
誰よりも、弱虫だから。
怖かった。
後悔した。
でも、言い出せなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
東南アジア、某国。
俗に発展途上と呼ばれるこの国は、生活の多くを先進国のお下がりに頼っている。
表向きのソフト面では先進国と大差ない程度になってはいるが、ハード面となると、たかだか数十年程度の技術支援ではとても追い付けない大きな差があった。
その象徴とも言える埃まみれの大型バスが今日も大きく車体を揺らしながら、ポイ捨てゴミだらけの道路脇に停車し、中の客を吐き出していく。
「おーい、お客さん。終点だ」
髭を蓄えた中年の運転手が、わざとらしくクラクションを鳴らす。
古びた車内に一人残った青年も別に寝ていたわけではないようで、やや不満げな様子で運転席に近づいた。
「終点?このバスはフーポック行きじゃないんですか?」
「あそこは今通行止めだよ。だからこのバスはここで終点だ。さあ降りた降りた」
いい加減な接客をする運転手であったが、乗客の顔を見た途端、思わず顔を引っ込める。
この国の環境のせいで湿気た無造作な髪であるが、育ちのよさを隠せていない、いかにも先進国のアジア人といった顔立ち。だが、その端正な鼻の上と頬には長い切り傷の跡が残っており、運転手は相手がカタギかどうかの判断に時間を要した。
そんな不安をよそに、青年は早々に諦めたように運賃を出して尋ねる。
「他に、フーポックまでの移動手段は?」
「バスもタクシーも通ってないから、今は歩いて行くしかないな」
「歩いてどのくらいで着きますか?」
「半日はかかるんじゃねえかなあ。途中には野生動物が、でかいのから毒を持ったのまでウヨウヨいるけどな」
青年は軽くため息をついて、リュックを肩に掛けながらバスを降りる。
その後ろ姿を注視する運転手であったが、反対側の窓がノックされやむむく視界から解放した。
ノックの主はよく日焼けした顔見知りの地元民の男で皮肉めいた笑みを浮かべている。
次に来るであろう嫌味に備えながら、運転手は渋々窓を開けた。
「よう、大将。今日も今日とて野次馬の運搬ご苦労さん」
「うるせえ、俺だって生活かかってんだ。フーポックまで行かないだけありがたく思え」
運転手は悪態をつきながら胸ポケットから煙草を取り出し、その先端に火を点ける。一口目を深く吸い込み、大きな白い煙を吐き出した。
「……だけど、たしかに、ここ最近のよそモンの増え方は異常だな」
「ああ、最後に降りた奴なんか、あの様子だと客ですらねぇ。お前、噂流してたりしねぇよな」
「まさかっ!客の口コミだろうよ」
地元民は訝しげに運転手の目を覗くが、どこ吹く風だ。
運転手も迷惑だとばかりに、煙草の灰を外に落とす素振りで、相手の顔を遠ざけさせる。
「『決してこの話を外に漏らすな』……か。いくらなんでも無理があるぜ」
「なんだと?」
「あのなぁ、あの子を助けてくれたんなら、この子もどうかー、ってなるのが普通だろ。そしたら、自分も、自分の知り合いも、そのまた知り合いも、ここだけの話で……ってなるに決まってるさ」
「いくら口止めしても無駄だってのか?」
「フーポックの連中の秘密を、この村に住んでいるお前が知っている時点でな。お前の妹さんだってそうだろ?」
地元民は運転手を睨みつけるが、それ以上言い返すことができず、やがて地面に視線を落とす。
「ここ数週間、身なりのいい白人どもが次々にやって来やがる……『聖母』様が連れていかれるのも、時間の問題かな」
運転手は煙草を吸い終えると、顎をハンドルに乗せてぼんやりと村の様子を眺めた。
別の意味で杞憂とばかりに、最後に下ろした青年が近くの店の人間に色々尋ねて回っている姿が見える。 顔の傷さえ除けば、服装からして先進国からのバックパッカーのようだが、こんな辺鄙なところ、ましては最果てとまで言われている村まで向かおうとしている。
当然、都市部での乗り場ではあそこが通行止めなんて説明は行っていない。情報すら行っていない。
目的がなければ、こんなところには決して来ない、ゆえに見逃されているだけのこと。
他のよそ者と同じ、警戒対象だ。
◇ ◇ ◇ ◇
この村を訪れた青年の疑念は、村を訪ねて一時間も経たないうちに、ほぼ確信に変わった。
ここの人達は、フーポックの話題を明らかに避けている。その割には、この近辺で見かける人間は地元民でない者が多い。青年と同じ先進国のアジア人、顔立ちの良い白人。宗教からして違う中東人。
勿論、彼らにも尋ねてみたが、皆一様に『ここには観光で来た』の回答だ。青年だってここに来る前に、ある程度の情報は調べている。こんなところに観光スポットはない。フーポックなんて村は、数行で説明されるだけの特に産業もないただの田舎だ。インフルエンサーの投稿でバズったなんてのも当然ない。
なら、どうして、人々はこの最果てを目指す?
答えは簡単だ。
青年がこの国の都心部のホテルで耳にした『奇跡の聖母』の噂。
――彼女が持つ不思議な力。
――どんな怪我だろうと、病気だろうと治してしまう。
与太話……といえばそれまでだが、現状はこうだ。
インターネット上で拡散されていないのも、この噂を本気で信じる者が戒厳令を敷いているからだろう。
青年はスマホの航空写真でもフーポックまでの距離を調べてみたが、道がどういう状況かも分からないのであれば、歩いて半日というのも決して大袈裟ではない。今の時刻は昼の二時半を過ぎているが、相変わらず日差しも強いため、今日は早めに宿を取り、食料や飲み水を買い足しておくことにした。
出発は明朝、陽が昇ってから。
「あいにく、うちはもう満杯でねぇ。他をあたってくれ」
片田舎の村に上等なホテルはないので、必然的に泊まりは粗末な木造のゲストハウスになる。
そして、接客マニュアルとは無縁のこの対応。
青年が無言で追加のチップを差し出すと、受付の男はふふんと鼻を鳴らし、さらに親指と人差し指を擦り合わせる。
チップがもう三枚、五枚と継ぎ足されてゆき、十枚目にして、受付の男は『そういえば急遽ベッドに一つキャンセルが出たんだ』と白々しい言葉を吐きながら鍵を差し出した。
青年の方も当然のような素振りで鍵を受け取り、宿泊部屋へと向かう。部屋のドアを開けると先客がいたが、受付の男が部屋ではなくベッドと言ったので当然かと思い、軽く頭を下げる。
部屋は本当に簡素な造りで、八畳程度の部屋の両側に二段ベッドが置かれているだけで棚一つない。
先客は三人いたので、後はそういう意味だ。
「ど、どちら様ですか?この部屋は私たちが借りて……」
「見たところ三名ですよね?残りのベッド一つを俺が借りました。夜寝るだけなんで邪魔はしませんよ」
青年が淡々と答えられたのは、相手が白人……つまりよそ者だったからであった。
二、三十代くらいの男女、おそらく夫婦。そしてもう一人はまだ幼い子供。
「こ、困ります!娘は病気で……個室をお願いしたんですから!」
青年が顔を傾けると、夫婦の後ろ、下の段のベッドに幼い少女が横になっていた。その鼻と口には細いチューブと酸素マスクのようなものが繋がれている。
「こんな田舎に連れて来られる状態ではないのでは?」
「あなたには関係ありません!」
「……では、あなた達も『奇跡の聖母』を?」
青年の一言で、声を荒げた父親も口をつぐむ。
これはチャンスかもしれない、と思い、青年は続けた。
「あらゆる怪我や病気を治すという女性の話は、俺も聞いています。あなた達もその方を訪ねてきたんでしょう?」
「…………」
言葉こそなかったが、夫婦の反応からして図星だということは誰の目にも明らかであった。
「この付近に住んでいる方は当然として、彼女を訪ねて来たであろう人達すらその話をしないのは……『お互い考えることは同じだから』ということですか?……競争、になると」
苦々しい表情でうつむく父親が口を開く。
「……少なくとも、ここで聖母の話はするんじゃない。下手すると命を狙われるぞ。みんな必死なんだ」
「命を救ってもらうとはいえ、子供の身まで危険にさらすんですか」
「もう、ここしかないんだ!頼れるのは……!」
父親が絞り出すように想いを吐き出すと、妻が娘の顔を一瞥してから、慌てて夫の肩を押さえる。
「娘は、生まれつき心臓が弱いんだ。このままだと余命幾ばくもない。妻も子宮がんが見つかって、もう次の子供は期待できない」
「娘さんの治療法は、他にないんですか?」
「どの病院に行っても同じだ。心臓移植しかない。だけどそのためには臓器提供者を待たなくてはならない。それも娘と同じ年代の、だ」
「もう時間がないってことですか……」
父親は両手で顔を押さえて、頭を項垂れる。
「ドナーは見つかったんだ……これで娘は助かるはずだったんだ!……だけど、取られた……!」
「取られた?」
「順番だよっ!何百万ドルという大金を積まれて、娘への心臓提供の順番を取られたんだ!糞みたいな日本人に!」
「……そう、ですか……」
「聞いたら、その金も寄付で集めたそうじゃないか……何人もの日本人が私の娘に犠牲になれと……そう言ってるんだ……」
青年もそういう類いの話は時々目にしていた。
小さな子供の命を救うためとの大層な看板を掲げているが、結局は他の子供が犠牲になるだけ。
それを是とするかどうかは個人の感想として、被害者の生の声は初めて聞くものだった。
「君は、アジア人だな。まさか、日本人か……?」
「……はい」
父親は唸り声と共に立ち上がり、憤怒の形相で青年の胸倉を掴む。
だが、相手が全く抵抗しないのを見て、それ以上は続かなかった。
「……俺は寄付なんてしてないし、あなたのお子さんに犠牲になれなんて思ってませんよ」
「分かってるよ……くそっ!」
父親は手を放し、大きく息を吐いて再びベッドに腰掛ける。
青年は軽く服を直し、首を微かに振った。
「俺がここに来たのは、聖母と呼ばれている女性の噂が単に気になったからです。野次馬と言われればそれまでですけど」
「……君は、何者だ?」
「ただの日本からの観光客ですよ。身分は大学生です」
「面白半分なら、これ以上関わらないでくれ」
そう言われながらも青年は、自分のリュックを空いている上の段のベッドに投げ込む。
「まともな交通機関もなく、娘さんがそんな状態なのに、フーポックまでどうやって行くんですか?」
青年は部屋の奥に畳まれている車椅子に目をやる。
夫婦の荷物は、目に入ったものだけでも、旅行にしては大きく頑丈な造りのリュックに、これまた丈夫そうな登山靴。傍から見て子供の治療に訪れる人の荷物ではない。
父親は怪訝な顔をしながらも、溜息交じりに肯定する。
「せめて娘だけでも現地まで運んでくれないかと色々当たってみたが、全く駄目だった。さっきも言ったろう?ここでは聖母の話をするだけで身に危険が及ぶ」
「その割には、事前準備はしっかりできていますね」
「一度一人で下見には来たんだ。フーポックまでは行けてないが……病気の子供があそこに向かってから元気になって下山しているのは確認できた」
「裏取りはしているんですね」
「あぁ、でないとこの子をこんな危険なところに連れてこないよ」
父親は後ろで寝ている娘を見やる。
母親の方は二人が話をしている間も、ずっと娘の息の様子を確認しているようであった。
「それを聞いてますます興味が湧いてきましたよ。よかったら荷物持ちでもやらせてください。どのみち俺も明日歩いて向こうに行く予定でしたし。道のりがどんなものなのかも分からないのでしょう?」
「…………」
「無理にとは言いませんよ。気が向いたら声をかけてください。俺はこれから買い出しに行ってきますんで」
青年はそう言い残して、部屋を出ていく。
父親は部屋の小さな窓から村の中心へ向かって行く青年の姿を確認すると、彼の残したリュックに目をやり、ゆっくりベッドに上がる。
「ちょっとあなた……!」
「盗むわけじゃない。中身を確かめるだけだ」
あまりにもうまい話――
日本人を信じることはできない――
そのような思いを巡らせながらも、父親はリュックの中身を調べる。
寝袋、着替え、保存食、水筒、常備薬、電池、充電ケーブル、ちょっとしたキャンプ用具、観光ガイド、メモ帳……は中身が日本語で内容は分からない。
財布、携帯電話、パスポートはなく、持参しているものと判断する。
「物騒なものはないようだな」
「中を見られたら気づくわよ……!」
「大丈夫だ。リュックは反対側のベッドに移しておく。場所を変えたいと言ってな。こうすれば少し乱れていても分からない」
そう言うと父親は、中身を戻したリュックをわざと乱暴に反対側のベッドに投げる。
「日本人め……何を考えている。興味本位だと……?クソッたれ……」
父親が部屋の中で吐き捨てている中、日本人の青年は近くの商店で水と食料、そして服や紐などの生活用品を購入していた。店員の老婆からの訝し気な視線をよそに、単なるお土産だと言わんばかりに買い揃えていく。
「お兄さん、荷物はそれだけ?まさか宿舎にでも置いてきたのかい?随分不用心だねぇ」
「他の人が見てくれていますよ。ご心配なく」
そんなやり取りのなか、青年は自分の背後から、太陽とは別の微かな光が漏れていることに気づく。
すぐに振り返ると、スマートフォンを持った男が何食わぬ顔で画面をいじりながらその場歩いて去っていった。サングラスを掛けているが、東アジア人だということぐらいは分かる。旅行客にしては鍛え方が露骨に感じられた。
(――あの家族と話せたのは運がよかったな。旦那さんは俺を疑っていたが、かなりマシな方だ)
ここから先、病気でもないのに一人で行く奴の方が狙われる可能性が高い。日本人嫌いなのはとんだ災難だったけど、と青年は自嘲する。
少しでも夫婦の警戒を解くために、わざと自分の荷物は置いて来たのであった。
明日も暑くなる。病気の子供を抱えながら、夫婦二人ではきつい旅路だ。
(実力行使は最低限警戒しておくか……)
だが青年は、今は表立って行動は起こせないだろうと、あえて日向を堂々と歩く。
自身を遠巻きに見つめる二つの影の存在に気づきながらも、何食わぬ顔で宿への帰路についた。
監視しようとする男達も青年の考えに気が付いたのか、それ以上の追跡は止め、日よけのために建物の影へと引っ込んでいった。
しかし、ここで青年にとって一つの誤算だったのは、相手が知らない人間を警戒していたと思っていたことである。
実際は逆であった。
「あいつは……」
「やはり、知っている奴ですか?」
「あぁ、私が知っているのは5年前のガキの頃だったが。おそらく間違いない……まさかこんなところにいるとはな……」
片方は現地民と見分けのつかない男だが、もう片方のサングラスの男は芯の通った姿勢をしており、現地の人間が近寄りがたい雰囲気を醸し出している。男は先程スマートフォンで撮影したばかり青年の写真を眺めながら、紙煙草を取り出した。
「隊長、こいつは何者なんですか?」
隊長と呼ばれた男は、眉をめながらスマートフォンを部下に預け、煙草に火をつける。
「……名前は、岳杉勇治。かつて、我々がいた組織と敵対していた男だ」
「では日本の……ここで始末しますか?」
部下の提案に対し、隊長は一口煙草を吸い、煙を吐き出しながら首を横に振る。
「我々の第一目的はあくまでも『聖母』の捜索と説得だ。ここで下手に戦闘を起こすと警戒される」
「ようやく見つけた手がかりですからね……例の子供達にも伝えますか?」
「いや、聖母と子供たちは互いに感応し合うらしい。そして察知する能力は聖母の方が各段に上だ」
「下手に近づけば逃げられる、と」
「だから、あの子供達も我々を頼っている。……ぬかるなよ」
部下たちはその一言で、霧散するように村の中に消えていく。隊長が吸い終わった煙草を口から地面に吐き捨てるが、それもすぐに周囲の景色に馴染んでしまった。




