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30/101

30.お迎えは迅速に☆

(カイルさんっ!)


 声の限り叫んだつもりだったのに、喉は引きつったような音を立てるだけ。届かない手を、必死になってカイルさんに伸ばした。


 狼の牙がカイルさんに迫る。

 それまで微動だにしなかったカイルさんが、すっと姿勢を低くした。目にも止まらぬ速さで腰の剣を抜き放つ。


『ギイィッ!?』


「――残念。ここは絶対に通さないよ」


 笑みを含んだ声が、風に乗ってここまで響く。

 対峙する狼の片目がつぶれていた。ぐる、と一声うなると、狼は怯むことなく再びカイルさんに飛びかかっていく。


 カイルさんは剣を構えたまま動かなかった。ヴィクターの大剣と比べたら、頼りなく感じてしまうほど細身の剣。

 けれど、その狙いは信じられないほど正確だった。狼の軌道を読み取り、カイルさんは必要最低限の動きで攻撃を避ける。そしてその首に剣を振り下ろした。


『グ、ギ……ッ』


 狼の首元から鮮血が噴き出した。

 何歩かよろけてたたらを踏み、どうと横倒しに倒れる。ビクビクと痙攣し、やがて完全に動きを止めてしまった。


「ぱ、ぱぇっ……」


「片付いたか」


 いつの間にか、ヴィクターがカイルさんのすぐ側に立っていた。その後ろには、狼魔獣の屍が点々と転がっている。


 二人は小さく頷き合うと、剣の血をはらって鞘に納めた。息を止めて見入る私を、不意に振り返ったヴィクターの視線が鋭く貫く。


「……っ」


「ああッ! ヴィクター殿下ァッ!?」


 キースさんが大声を上げた。

 ずんずんと歩み寄ってきたヴィクターが、問答無用でキースさんの手から私を取り上げたからだ。

 私は目を丸くしてヴィクターを見上げる。


「ぱぇぱぁ?」


「……ふん」


 私のおでこを軽く指で弾くと、ヴィクターはまた私を胸ポケットにしまい込んでしまった。

 あまりにびっくりしたせいで、私は文句も言わず大人しくポケットの中に収まった。そっと耳を寄せると、服越しにヴィクターの鼓動が感じられる。


(生きてる……)


 ほっとして、体から力が抜けていった。

 ぱうぅと含み笑いする私をよそに、キースさんがぎゃんぎゃんわめいている。


「いくらなんでもお迎えが早すぎやしませんかヴィクター殿下ァッ!? しかもあなた、雨と戦闘で汚れているではありませんか! 先に手を洗って身を清めるのが、シーナ・ルー様に対する最低限の礼儀」


「返り血は浴びていない。雨に濡れているのはお前も一緒だ」


 にべもなく吐き捨て、ヴィクターはさっさと歩き出す。カイルさんがぷっと噴き出した。


「他の男に預けるのが、そんなに嫌?」


「…………」


 ずん、と空気が重くなる。ひえぇっ、ヴィクターめちゃ怒っ……!


 うっかり意識が遠のきかけて、慌てふためいたカイルさんが「ごめんヴィクター今のなしっ! どうどう、どうどう!」となだめてくれた。頼むよカイルさん……。


(……にしても)


 ヴィクターってば、私を他の誰かに預けるの嫌なんだ。

 飼い主、じゃなくて保護者としての自覚が出てきたってことかな? すっごい進歩!


 嬉しくなってポケットから顔を出す。速攻で頭を押さえつけられた。くっ、前言撤回。やっぱ少しも変わってないっ!


「ごめんね、シーナちゃん」


 鼻から上だけ出してむくれる私を、カイルさんが優しく撫でてくれる。べし、とヴィクターがその手を叩き落とした。んん?


 首をひねっていたらヴィクターから怖い顔で睨まれ、私は慌ててポケットの中に逆戻りする。


「……帰るぞ」


「はいはい、了解いたしました団長様。……それでは、事後処理はよろしくお願いします」


 カイルさんの声の後に、「は、ははっ! お手数おかけいたしましたぁ!」と震え声が聞こえてくる。先に戦ってた警備兵さんかなー。


(……結局、ヴィクターとカイルさんの二人だけで倒しちゃったってことか)


 魔獣退治専門、第三騎士団。

 その役割は、私が想像していたよりもずっと重いのかもしれない。


 ともあれ、みんなが無事で本当によかった!


「ぱぅぇ~っ!」


(お疲れ様っ!)


 元気よく鳴いて労をねぎらうと、ポケットの上からそっと押さえつけられた。

 その大きな手がヴィクターのものだと、どうしてだか私にはわかってしまう。温かいような、恥ずかしいような不思議な気持ちがあふれ、むず痒くて叫びだしたくなる。



 ――このときの私は、浮かれるあまりすっかり失念してしまっていた。


 ヴィクターや魔獣から噴き出すように揺らめいていた、赤と黒の不可思議な炎の存在を。

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