(06)休日のミッション
雪透が二階に戻ったあと、黒羽は一人リビングに立ち尽くしていた。
冬の光がカーテンの隙間から差し込み、食卓の影が緩やかに伸びている。
「……………………」
(――え???? ……さっき私、なんて言われたの……? 刺激が強すぎてまだ脳の処理が追い付いてないんだけど……まず『美味かったよ、ありがとな』って……いや、それも嬉しすぎるけどそこじゃなくて……!!)
(たしか、間に『俺のために』って入ってたよね……!? えっえっえっ!? 私が雪透さんのために早起きして朝食作ってたことがばれてた!?!?!? ええええ、ぜんぜん気づかれてないと思ったのに………っ!! あああああ気づいてくれたのは嬉しいけど超はずかしいよおお!!!!)
(……それに、お兄さんの素敵な顔と声であんなこと言われたら私の心臓が持たないよぉ…………♡♡)
リビングの中央で、真っ赤な顔を膝に埋めて悶える黒羽。
これまでの八年間、黒羽はどれだけ雪透のことを想っていても、それを態度には出さずに隠し通してきた。
それが最近になって、いきなり好意が漏れ始めたかもしれないとなれば、恥ずかしさに悶えるのも無理はないだろう。
――いや、正確には「隠している」というより、気持ちを知られるのが恥ずかしすぎて表に出せないだけなのだが。
基本的に感情が薄く他人に興味がない黒羽にとって、自分の中に芽生えた〝唯一の感情〟が相手に伝わるというのは、これ以上なく恥ずかしいことなのである。
「……、ふぅ……」
(はぁ、はぁ……落ち着かなきゃ……っ! だって今日の私には大切なミッションがあるんだから……!! 雪透さんが部屋で休んでる間に実行に移さないとチャンスを逃しちゃう!! それに私は一秒でも長く天国にいたいの……!!)
自分の使命を思い出した黒羽は、恥ずかしさを無理やり押し堪えて洗い物を始めた。
食器を流しまで運ぶ時、わざわざ箸やスプーンの先端を持つことにも、おそらく何らかの意味があるのだろう。
「♪」
(はぁ……お兄さんが食べた食器を洗うの最高……♡きっと私いま最高にお嫁さんしてる……♡お兄さんと一緒のおうちでお兄さんにご飯作って洗い物して……♡お兄さんが私の食器を洗ってくれるのも幸せだけど、こっちの方がずっと満足度高いんだよね……だってお兄さんが口付けた食器に合法的に触りまくれるんだもんっ♡♡)
(――はっ、いけない!! 今日はこれよりももっと大切なことがあるんだった……!! そうだよいまこうしてる間にもお兄さんの服に染み付いた汗の香りが空気中に逃げてるかもしれないのにっ!! 名残惜しいけど洗い物を堪能するのは今度にして早くあっちに向かわなきゃ……!!!)
そうして心の中で優先順位を再確認した黒羽は、洗い物をする手を早めた。
元々器用な黒羽は、手を動かしさえすれば早い。
水音が静かな部屋に溶けて、空気が少しだけ落ち着きを取り戻す。
「……ふぅ」
少量しかなかった洗い物は、すぐに片付いた。
手を綺麗に拭いてハンドクリームを塗り終えた黒羽が、指先を軽く合わせて一度息を吐く。
これから訪れるひとときを思い浮かべるだけで、黒羽の鼓動は徐々に早まっていった。
その高鳴りを落ち着かせるように、静かに深呼吸した黒羽は――
(――よしっ!! これなら雪透さんが降りてくるまでにはまだまだ時間があるはず!! ああやっとだよぉ……一週間頑張ったご褒美にたくさん吸わなきゃ……♥お兄さんも今日はありがとうって言ってくれたし! お兄さんに貢献した分ちょっとくらいは欲張っても許されるはずだよねっ!!)
(……あぁそれにしても雪透さんがあんなこと言ってくれるなんて……♡もうあんなの私を誘ってるとしか思えないよ……っ♡♡まあたしかに私は雪透さんのものだけどさ!! それにしたってあの発言は完全に堕としに来てるよね……!? ……まあもうとっくの昔に堕ちてるんだけどね!!??)
――いつものように脳内で妄想を膨らませながら、脱衣所へと向かうのだった。
(♡♥)
「……♪」
音を立てず脱衣所に入った黒羽は、後ろ手で扉を静かに閉めた。外の音が薄れ、空気が一段冷たくなる。
照明の光が、黒羽の顔と籠の中の布を柔らかく照らしていた。
洗濯籠の中には、雪透の服が整然と重なっている。
そこにはまだわずかに、昨日の温度が残っているようだった。
「……♡」
黒羽は洗濯籠の前にしゃがみ込むと、白い手でそっと布の端に触れる。
細い指先に伝わる繊維の感触が、鼓動の音を際立たせて――呼吸を潜めれば、世界の音がすべて遠のくような気がした。
黒羽はそのまま、持った服に顔を少しずつ近づけていき、
――すん。
「~~~~~~!! …………っはぁ……♡」
少し離れた距離から軽く嗅いだだけで、電撃が走るような衝撃を受けた黒羽は――体を震わせたあと、深く息を吐いた。
そして、一度顔から離した布を、震える手つきで今度は顔に寄せる。
――すん、すん。
「……ん……♡」
(やばいよぉ……どうして脱いで一日経った服からこんなにいい匂いがするの……?? 雪透さんの普段の匂いに、予想どおり今日はちょっとだけ汗のにおいが混ざってて最高すぎる……はぁぁほんとにいい匂い……♡……すーっ……はぁ……♡……っ、ちょ、ちょっとだけ顔埋めてもいいかな……? だって今日はいつもより深く吸うって決めてたし……!! うぅ、でもいざやろうとすると緊張するよぉ……♡♡)
黒羽は迷いながら、熱のこもった視線で服を見つめる。
そして、やがて決心がついた黒羽は――
ぼふっ、と。勢いよく、顔を埋めた。
「……っ!!」
顔が服に密着した瞬間、〝直接嗅いだ〟という事実と刺激の強さに肩を震わせた。
……しかし。
自らを包んだ布の感触とよく知る香りに――むしろ呼吸は落ち着き、一定になっていった。
「…………。…………♡」
(…………あぁ、ここが天国だったんだ……この世界に生まれてよかった……♡呼吸するだけでこんなに幸せなことってあるんだ……♡目を開けたら目の前が雪透さんのお洋服で埋まってて……はあぁっ……♡息を吸うたびに雪透さんの香りが全身に流れ込んでくる……♡♡あっ幸せすぎて頭ぼーっとしてきた……。あっちがうやっぱ匂いでかも……♡♡直接だと濃すぎて……っ私もうだめ……♥)
(すぅ……♡はぁ……♡……はぁぁもうだめしあわせすぎる……♡お兄ちゃんの匂いで頭がいっぱいになってとけちゃいそう……♡うぅっおにいちゃんすきすき……♡全部すきだけどにおいもすきなの……♡お兄ちゃんと私の遺伝子が相性が良すぎるんだよぉ……♡)
ほんのわずかな時間のはずなのに、静寂がやけに長く感じられた。
――しかしふと、
(…………。そろそろやめたほうがいいかな……? まだ全然足りないけど、お兄さんにこんなところ見られたらそれこそ死ぬしかないし……)
心が満たされたことによって自制心が働き始めた黒羽は――、
何かの予感を感じたのか、一度服から顔を離した。
――だが、その自制心が目の前の誘惑を超えることはなかった。
10秒と経たないうちに、黒羽の視線は再びそれに吸い込まれた。
(…………あと少しだけならいいよね……♡♡)
そう思って、再度顔を埋めようとした瞬間だった。
――〝ガチャ〟。
冷気と一緒に明かりが細く差し込んで、扉が開く音がした。
「――ひゃあああぁぁぁっっっ!!!!!!」
(ひゃあああぁぁぁっっっ!!!!!!)
…………静寂だった休日の家に、黒羽のこれまでの生涯でいちばん大きな悲鳴が弾けた。




