(05)いつもと少し違う休日
あれから数日が経った。
気付けばこの前から増えた朝の行動も当たり前の習慣になり、黒羽を学校まで送って、帰りに迎えには行くのが俺の日課になっていた。
一緒に登下校するようになってからも、黒羽はいつも通りの無表情だった。
だが、体の動きや歩調だけは、どこか慌ただしくも映る瞬間がある。
あの日以降、黒羽の中にある何かが変わった――いや、黒羽の中にある何かに近づけたような気がしている。
けれど、それを確かめる言葉はまだ見つかっていない。
そして、今日は土曜日。久しぶりの休日だ。
平日の喧騒が遠のいた住宅街は静かで、窓を開ければ洗いたての香りが風に混じって流れ込む。
朝の光が差し込む部屋で、俺は原稿の下書きをひとまず保存し、息を吐いて椅子の背に身を預けた。
今日は起きてすぐ執筆を始めたので、まだ黒羽の姿は見ていない。
しかし、同じ家には黒羽の気配がある。
黒羽は休日でもほとんど外に出ない。
俺も似たようなもので、外に出るより原稿に向き合っている時間の方が圧倒的に長い。
お互い外が嫌いと言うわけではないし、いつからこうなったのかはっきりとは覚えていないが――結局のところ、今ではそれが日常になっている。
休日でも、俺たちのやることは大して変わらない。
二人で家事を分担し、昼には遅めの昼食を取って、顔を合わせた時だけぽつりと会話をする。
――それだけの、何も起こらない一日。
けれど時々、それが日常の一部になっていることに不思議な安堵を覚えることがあるし、現状に不満を覚えたことはない。
そんなことを考えているうちに、いつもの思考の巡りも一段落した。
俺は椅子から立ち上がると、軽く伸びをしてから階下へ降りる。
――リビングの方から、皿と机の触れ合う小さな音が聞こえてきた。
どうやら、黒羽がもう朝食の準備をしているらしい。
「おはよう、黒羽」
「……おはよう兄さん」
俺の声に、黒羽は一目だけこちらを見て、すぐに視線を逸らす。
……挨拶は返してくれたが、相変わらず距離感が遠い。
とはいえ、毎回こうして早起きして朝食を準備し、欠かさず俺の分まで用意してくれるのだから、ただ冷たいというわけでもない。
「休日なのにもう準備してくれたのか? 悪いな、いつもありがとう」
机の上には完成した料理がいくつか並んでいる。
しっかり二人分の食器が置かれているのを見るに、食事の準備は終わっているようだ。
(……ん?)
……なんだか、今日の朝食は、随分と炭水化物が多い気がする。まあ、執筆はエネルギーを使うから助かるのだが。
「……別に、たまたま早起きしただけだから。気にしないで」
黒羽が素っ気なく返してくる。
態度や口調の割に、根は優しい子なのだと――そう感じたのは、この八年間で何回目だろうか。
「そっか、ありがとうな。昔から」
「…………」
(!?!? え、朝から二回もいい声で『ありがとう』って言ってもらえたんだけどこれなんのご褒美!!?? あと『昔から』っていつ!? 出会った瞬間!? それとも紀元前!? ……いやまだ私生まれてないよ!! ……え、昔ってなんだっけ……?)
(――あ、もしかして私が朝食作るようになってからのこと? 確かに中学の頃からずっと雪透さんのためだけに早起きしてご飯作ってるけど……じゃあそれがバレたってこと……!? え、もしかして雪透さんが起きてすぐ小説書いてたから今日の朝食で糖分補給できるように炭水化物ばっかにしたの気づかれたかな!? 雪透さんの部屋の扉に耳くっつけて聞き耳立ててたのもバレてた!?)
(~~っ、あああっもう!!! 好意がお兄さんにバレて恥ずかしいのに、雪透さんの優しい顔と声が頭から離れなくて思考まとまんないよぉぉぉ!!! っうぅ……でも、きっと妹としての好意だと思ってるから大丈夫だよね……?)
「……うん」
少し遅れてから短く返ってきた。
――時々会話の途中で空くこの間は、一体何なのだろうか。
「食べようか」
黒羽が俺の言葉に頷いて、そのままいつもの席に座る。
「いただきます」の合図と共に食事を始めた。
食事中のリビングには、いつも通り食器の触れ合う音だけが響いている。
黙々と食事を進める中――ふと、ずっと考えていたことを思い出して口を開く。
「そうだ、今日は家事手伝うよ。ほとんど一人でやるだろ」
そう、黒羽はいつも休日の家事を一人でやろうとする。
とにかく「私がやるから」の一点張りで、俺には手出しさせてくれない。
しかし、今朝は早起きで原稿も一段落したことだし……今日こそは手伝って、あわよくばそこで黒羽と話す時間を増やそうと思ったわけだ。
「…………っ!」
しかし、俺の言葉を聞いた黒羽は、珍しくぴくりと眉を動かして――そのまま固まった。
表情の変化が極端に乏しい黒羽を八年間も見続けてきた俺が、これだけの変化を見逃すはずがない。
――しかし、反応するタイミングがあまりにも想定外で、これで過去一級の反応を見せた理由に見当もつかない。
故に、結果として俺も思考が硬直してしまい――食卓を囲んだまま、二人で固まる不思議な時間が生まれてしまった。
――。
そのまま沈黙が流れる。
一体、黒羽は今……何を思っているのだろうか。
(あああああああまってまってまって!!! それはだめ!! 絶対にだめ!!! だってそんなことになったら……………………私が雪透さんが食べたお皿を洗えなくなっちゃうじゃん!!! 雪透さんが食べたお皿を、舐め――はさすがに品がなさすぎて嫌われちゃうと思ってできたことないけど、合法的に触れるチャンスなのに!! 好きな人がお仕事してる間に家事全部やるのってお嫁さんみたいだし……♥ そして何より――洗濯に出された雪透さんの服に顔を埋めて全力で嗅ぐという私の至福の時間が……っ!! 雪透さんと一緒にいるときをのぞけば、あの瞬間が一番満たされるのに……!!! それに、昨日は一緒に帰ったときに雪透さんのほうからほんのり汗のいい匂いがしたの!! 昨日は大学行かなかったみたいだしきっとジム行ってたんだ!! だってこのまえ雪透さんの部屋で会員証見たもん!!! ……だから『きっと明日は最高の日になる♡』とか思って昨日の夜から寝れないくらい楽しみにしてたのに……っ!! もおおおっどうしてそんなこと言うの雪透さん!! まさか私のこと嫌いなの!?!? ……っていや、私のために言ってくれたんだった!! はぁ、雪透さん相変わらず優しくて素敵……♡ って違う!! いや素敵だけど!! いまは違うのぉ!!!
(――とにかく、このままじゃ私の休日の密かな楽しみが奪われちゃう……!! どうにかして阻止しなきゃ……!!!)
――沈黙を切るように、黒羽が小さく息を吸った。
細い指先がテーブルの上の布をぎゅっと掴む。
「私、雪透さんの役に立てると思って……休日に家事やるの、楽しみにしてたのに」
――落ち込んだ声に、息が詰まる。
「……!!」
自分がどれだけ浅はかなことを言ったのかと、全力で後悔し、そして反省した。
(そうか……黒羽は俺の役に立ちたくてあんなに頑張ってたんだな……)
ああ、考えてみればそうだった。
思い返せば昔から、黒羽はどんなに無口で冷たくても、俺の負担を減らそうと頑張っていた。
彼女は俺の生きがいで、守るべき唯一の家族で――ずっと、俺を支えてくれた存在だ。
だから、俺がこうして成功できたことだって、本を正せば黒羽のおかげだ。
そんな彼女の行動が、俺のためでないはずがない。
当たり前のことに――気付くのが、随分遅れた。
(……ああ。俺も、兄としてまだまだだな)
苦笑しながら、黒羽に向き直る。
「分かった、ありがとう。これからも頼むよ」
「……。……うん」
俺の返事に、黒羽も納得のいった表情で頷いてくれた。
……本当に、俺の義妹が黒羽で良かった。
「…………」
(やったああああああ!!!!!!!!!!!! 阻止成功!!!! 私の幸福を守り抜いた!!!!!!!!! あやうく人生に絶望しかけたけど、一回地獄が見えた分このあとの時間はきっと天国だよ……あっちがう元から天国だった…………♡)
(あぁ、なんか今日はもうこれだけで自分を褒められそうだよ……♥あとでご褒美にいつもより長く深く吸おう……そう、雪透さんの天然アロマを!! はぁぁしあわせな土曜日だな……♡♡♡)
(――あと、私嘘は言ってないよね!?!? だって雪透さんの役に立ちたくて始めたのはほんとだし!! ちゃんと家事『楽しみにしてる』って言ったもん!!!! 最初はただ大好きな雪透さんに尽くしたかっただけなのに……脱いだ服からあんなにいい匂いさせてるお兄ちゃんが悪いんだよ……♡♡別にどっちの理由がメインかなんて聞かれてないし!!! まあそもそも言えるわけないんだけどね!!!!)
気付けば、お互いに朝食を食べ終わっていた。
「ごちそうさま」
「……お粗末様。洗い物は私がやるから、兄さんは部屋に戻って休んでて」
「ありがとう、お言葉に甘えるよ」
黒羽の優しい言葉に微笑みを返して、俺はリビングから廊下に出る。
――そして、
「美味かったよ。朝食、俺のために作ってくれてありがとうな」
思い出したようにそれだけ言うと、踵を返して階段を登った。
階段を上りながら、さっきのことを思い返す。
――途中で気づいたのだ。
普段は必ずバランスのいい献立を用意する黒羽が、訳もなくあんな風変わりなメニューにするとは考えにくい。偏った料理ばかり作ったのには、何か理由があると。
(――それにしても、何で執筆してることが分かったのかは謎だな……)
先に起きてリビングにいたはずの黒羽が二階にいる俺の行動を知っていたのは、普通に考えれば不思議なことだ。
……いや、夕食の時のことを考えるなら、下にいる黒羽が打鍵の音に気付いたとしてもおかしくはないのだが。
黒羽は二階の自室にいてもリビングから呼べば必ず来るくらいだし、位置が逆でも聞こえたというだけの話かもしれない。
(――いや、そもそも夕食の時気付くのがおかしいんだけどな)
そんなことを考えながら口元を緩め、自室の扉に手をかける俺は――自分でも気付かないほど、上機嫌だった。




