(16)初デートと夜の事故-後編
デパートの外に出ると、冬の夕方の空は既に光を失い始め、街路の照明がゆっくり灯り始めていた。
肩にかかる空気が朝よりも少し冷たい。
停留所に着くと、今度もバスはすぐに到着した。
帰りのバスでも車内は混み合い、朝と同じ状況になる。
車体が揺れるたびわずかに肩が触れて、けれど言葉はやはりない。
窓の外に流れる街並みは、さっきよりも街灯の明かりが増えている。
バスを降りて、帰り道。
並んで歩く足音が、冬の舗装路に乾いた音を落とす。
言葉にしなくても、今日一日の穏やかな余韻が続いていた。
――そんな空気の中で。
俺は何気なく口を開いて、思ったことをそのまま口に出してしまった。
「あれだけ似合ってたら、きっと他の人にも褒められるだろうな」
言ってすぐ、黒羽の眉がぴくりと反応する。
「……。……他の、人??」
その声には、いつもの抑揚のない静けさの中に、わずかな棘が混じっていた。
横顔を覗くと、黒羽は視線を前に向けたまま、マフラーの端を小さく指で握っている。
沈黙が短く伸びた後――黒羽が、ぽつりと呟いた。
「……なに、言ってるの? これ全部、家でしか着ないのに」
「……えっ?」
……その声は、少しだけ尖っていた。
黒羽はそれ以上は何も言わなかったが、さっきより、少しだけ不機嫌になったようにも見えた。どこかむすっとしたような表情で、マフラーをいじり続ける。
――そして同時に、頬がわずかに赤くなっているようにも見える。
(……怒ってる? いや、拗ねてるのか?)
黒羽がここまで感情を出すのは珍しいので、不謹慎ながらも少し嬉しくなってしまう。
それに、予想外の言葉ではあったが……少しだけ、安堵している自分がいた。
(今の『家の中』って……多分俺の前でしか着ないって意味だよな)
風が、少しだけ強く吹いた。
街路樹の枝が揺れて、黒羽の髪を一瞬だけさらっていく。
淡く街灯の光に照らされた横顔は、息を飲むほど綺麗に見えた。
しばらく歩いて家に到着した俺たちは、玄関で靴を揃え、すぐに手を洗った。
まだ朝の暖房の残った空気が、外の冷たさを一瞬で追い出す。
デパートの照明や街灯とは違う、見慣れた灯りが妙に落ち着いて感じられた。
黒羽は袋を大事そうに抱えたまま、いつもの位置に立つ。
頬の赤みはもう引いていたが、どこか名残のように唇の端がまだ柔らかい。
「……お風呂、先入るね。……今日は本当にありがとう」
それだけを言って階段を上がっていく。
足音が二階へ消えるまでのあいだ、俺はしばらくその背中を見送っていた。
浴室の扉の向こうで、水の音が流れ始める。
家には、一日の終わりの静けさだけが残る――はずだった。
(♡♥)
――それから俺たちは、順番に風呂を済ませて寝る準備を終えた。
自分の部屋に戻ろうとしたところで――ふと、黒羽に返しそびれたものを思い出す。
預かっていたコートのことをすっかり忘れていた。一度で洗濯に出すようなものではないし、クローゼットで適切に保管しなくては傷んでしまう。
少し迷った末に、コートを腕に掛ける。今からでも渡しておいた方がいいだろう。
(もう眠ってたら、諦めて俺の部屋のクローゼットにかけるしかないな)
二階へ上がって灯りの落ちた自室の前を通り過ぎ、廊下の端まで歩く。
同じく灯りが落ちた黒羽の部屋の前で足を止めると――珍しく、扉が少しだけ開いていた。
ノックの前に呼びかけようとした時――中から、微かな布の擦れる音と、途切れがちな呼吸が漏れてきた。
扉の隙間から、視線が滑る。
部屋の灯りは消えているが、ベッドのフレームに置かれている常夜灯だけが淡く点いていた。
ベッドの上にはさっき買った服をそのまま着た黒羽が、布団から上半身だけを出して横たわっている。
セットがほどけて真っ直ぐに戻った長い髪が布団に広がり、耳にヘッドホンを付けたまま、手には見覚えのある色の布を持っている。
「んっ……はぁ」
……それは今日、俺が出かける時に着ていた肌着に見えた。
黒羽はそれを胸の前に抱きしめ、顔をうずめている。呼吸が浅く、間隔も不規則で、息が触れるたびに生地がわずかに震える。
「はぁ……っ……ふーっ、ふーっ……」
息は時々荒くなり、そして時折深まる。
(はぁ、はぁ……♡すんすんっ♡雪透さんに買ってもらったお洋服着てたら我慢できなくなっちゃったよぉ……♡あぁゆきとさんゆきとさんゆきとさん……っ♡♡すんすん♡すぅーーっ、はぁーっ♡♡んんんゆきとさんのにおいがする……♡んっ♥)
布団の影になった下半身の動きまでは見えない。けれど、それに夢中であることだけは分かった。ヘッドホンからは小さく何かの音が漏れているが、内容までは聞こえない。
(んんん……♥雪透さんの声を聴きながら耳元で頭いっぱいに匂いを吸い込んで……♥こんなのおかしくなっちゃう♥♥でもしあわせぇ……♥)
黒羽が顔に押し付けたまま、布団の中で身を捩り始めた。
……その光景を最後に、俺は音を立てないように扉をそっと閉めて、廊下に戻った。
理由は分からないが、何か、見てはいけないものを見てしまった気分だ。
(…………あれ、俺の服だったよな?)
念のため脱衣所へ降り、今日洗濯に出したはずの服を確かめる。……やはりない。
(……………………あ、そうか。あれだ)
しばらく考えて、ひとつの結論に辿り着いた。
なるほど、昔どこかで聞いたことがある。
――黒羽は、所謂『匂いフェチ』なのだろう。
特定の匂いに対して強く惹かれる人のことを、巷ではそう呼ぶらしい。
意外と言えば意外だが、不思議と違和感はなかった。
フェティシズムなんて人それぞれだし……それに、黒羽は俺以外の誰とも親しくしていない。
なら、必然的に俺の服が対象になるのも頷ける。
物理的な距離があるのは、俺の匂いを避けているわけではない――そう分かっただけでも、十分に収穫だ。
(聞いた話によると、世間では『臭い』と罵られたり洗濯を分けられたりと辛辣な妹も多いらしい。むしろこれは、兄冥利に尽きることなのではないだろうか)
そんなふうに考えている自分に気付いた時、苦笑が漏れた。
驚きは最初の一瞬だけで、あとはただ事務的に事実を整理して、穏やかに納得している。
扉が少し開いていたのは偶然かもしれないし、偶然ではないかもしれない。
どちらにせよ、黒羽の行為を咎める理由はどこにもない。なら、ここは気を利かせて――今度部屋を出る時は、少しだけ扉を開けておくのもいいかもしれない。
黒羽が安心して好きなことに勤しめるのなら、その方がいい。それが自分に関することだったという点にだけ、少しの感情はあるが。
階段を下り、キッチンの灯りを落とす。ふと手をこすって、朝につけたハンドクリームの香りを思い出す。
ああやって大事そうに着てくれていたのを見るに、今日選んだ服はきっと、明日以降も彼女のクローゼットの手前に掛かり続けるのだろう。
それだけで、俺は世界一幸せな兄だ。
初めて目撃したはずの光景を思い返しながらも――俺の思うことは、結局いつもと変わらないのだった。




