(13) 柑橘の朝に溶けて
木曜日の朝。
目が覚めて階段を降りると、黒羽は既に支度を終えてリビングにいた。
壁の時計を確認すると、いつもと変わらない時刻を指している。
「おはよう黒羽、今日は早いんだな」
「……おはようございます」
黒羽は、声も表情もいつも通りで変わらない。
前日にあれだけのことがあっても、この落ち着きようだ。
(……やっぱり、そうだよな)
やはり、一つ本音を聞けたくらいで、黒羽の心を暴けるはずもない――改めてそう思う。
ポットのスイッチを入れると、すぐに低い音とともに湯気が立ちのぼった。
カップにコーヒーを注ぎ、一口啜る。香りと苦みが喉を通るあいだ、窓越しの光が白く差し込み、湯気と共に朝の冷えを和らげていく。
席につき、用意されていた朝食に箸を伸ばした。
黒羽は姿勢を崩さず、静かにスープを口に運んでいる。
「今日はずいぶん準備早いな。何かあるのか?」
「……別に。たまたま目が覚めただけ」
いつも通りの冷たい返事が返ってきて、それ以上の話題は出なかった。
箸の触れる音だけが、しばらく食卓に残る。
食べ終えると、俺は食器を片づけ、自分の支度に戻る。
黒羽は鏡の前で前髪を軽く整え、カーディガンの袖を滑らせると、最後にシュシュの位置を指先で確かめた。
身支度を終えた俺が目配せすると、黒羽はわずかに頷いて玄関の方へ向かう。
そのまま靴箱の前に立ち、ドアに手をかけようとしたとき――
黒羽の動きが、いきなり止まった。
伏せられた視線が、静かに俺の手元へと下りる。
「……雪透さん、手が乾燥してる」
「ん、そうか……?」
言われて、自分の手の甲を見下ろす。
……照明の下で見ると、確かに少しだけ白っぽくなっていた。
「……言われてみれば確かに。まあ、冬だからかな」
軽く返すと、黒羽は一瞬だけ黙り、すぐに顔を上げた。
少しだけ迷うような間を置いてから、静かに口を開く。
「……私のハンドクリーム塗ってあげるから、きて」
(っ、きゃーーっ♡ああっ私のくせに大胆なこと言っちゃったぁ……!! だって……昨日のアレで気持ちが溢れて止まらないんだもん!! あんなこと言って受け入れられちゃったら大胆にもなっちゃうよっ……♡……それに、お兄さんの綺麗な手が乾燥して荒れちゃったら勿体ないもん……。うん、そうだ!! これは健全な医療行為!! つまりお兄さんの美しさを守るためには仕方ないことなの!!)
「お、おお……ありがとう?」
少し戸惑いながらも、俺は黒羽の前まで歩み寄った。
黒羽は鞄を開け、ポケットの奥から細長いハンドクリームを取り出す。
淡いピンクの小さな容器から、他の化粧品の香りがわずかに香る。
容器の蓋を開ける音がぱちりと鳴って、黒羽の細い手に白いクリームが載る。
柑橘系の香りがふわりと立って、鼻腔を優しくくすぐった。
(……ん? なんか量多くないか??)
黒羽は無言のまま、クリームを両手で少し広げた。
そのまま俺の手を取ると、指先でそっと甲を撫でる。
ひやりとした感触が走った。
「……っ」
――だがそれ以上に、黒羽のすべすべとした手の感触が強く頭に残る。
そこから指、手のひら、そして手首へ。
触れるたび、〝すり……〟と滑る小さな音とぬるりとした感触が、柑橘の香りに混じり合って広がっていく。
ゆっくりと動く黒羽の指が関節の溝をなぞるたび、〝くちゅ〟と微かな水音が混ざり、ほんの少しのくすぐったさに上乗せして――黒羽のひやりとした体温が伝わっては、すぐに俺の熱に溶けていく。
指の腹が滑るたびに肌が微かに沈み、どちらともなく小さな息が漏れた。
その呼吸が混じり合って、空気の温度がほんの少し上がる。
密着した手からは、たびたび〝ぬち〟と柔らかな音が響いて――塗り広げられるたび、手に残る感触と鼻をくすぐる甘い香りが、静かに思考を押し流していく。
「……」
もう一度クリームを取って、今度は指先を包むように――ぬり、ぬり。
指の背を通り、腹を通り、ついには根元まで。
「……、……」
その途中で――黒羽の片手がふっと形を変えた。
さりげなく指が絡み――そして〝きゅっ……〟と繋がった。
「――!?」
(――ん!?)
黒羽の突然の行動に驚き、思考と体が硬直する。
絡められた華奢な指は微かに震えていて、そこから黒羽の体温が流れ込んでくる。
――黒羽の意図を汲み取ろうとしても、状況と手の感触のせいで思考がまとまらない。
沈黙の中では、息を呑む音すらやけに大きく響いた。
「…………ぁ」
(~~~っ私何やってるのっ!?!? いきなり手握っちゃったんだけど!! しかもこれ恋人繋ぎじゃん!!! あああ絶対変な子だと思われてるよぉ!!! うぅ、だって我慢できなかったの……♡♡)
(……でもこれじゃもはや『好きです♡』って伝えてるようなものだよ!! いや実際大好きすぎて体が勝手に動いたんだけどね!!?? ――そうじゃなくて!! こんなのどう誤魔化せばいいの〜っ!!!!)
「くっ、黒羽……?」
ようやく思考が落ち着いたところで呼びかけると、黒羽の肩が小さく震えた。
絡めた指を離すでもなく、ただ固まっている。
呼吸の音がわずかに乱れて、長い睫毛がふるりと揺れた。
ほんの数秒の沈黙のあと――黒羽は静かな息を一つ吸って、ようやく口を小さく開いた。
「…………指の間も塗らないと、だから」
その声は至って冷静で……そして、いつも通りの無表情だった。
「そ、そうか……確かに。ありがとう」
「……うん」
(やったあああ誤魔化せた!!! ……えっそれよりこの反応ってもしかして嫌がってない!? じゃあこのまま恋人繋ぎしててもいいってこと……!?!? うう、恥ずかしいけどこんなチャンス中々ないし……!! あっいまぎゅってなった♡♡はぁ、はぁ……しあわせすぎて、もう……なんでも、いいや……♡♡許可も下りたし、塗り込むふりしてにぎにぎしちゃお……♡)
絡められた黒羽の指に、さらに力がこもる。
反対の手も自然に絡んでいき、両手が恋人繋ぎになった。
〝きゅっ〟と鳴る小さな音が、まるで繋がった手の合図のようになる。
互いの手にハンドクリームがなじんだせいか、ぬるりとした感触は少しずつ落ち着いていき、じわりと温まっていく。
「……」
(……なんだこれ……)
「…………♡」
(…………♡)
黒羽の言葉をそのまま信じた俺は、とりあえず何もせずに待った。
……距離が近すぎるせいか、黒羽の吐息がたびたび顔にかかってくすぐったい。
互いに視線を逸らすきっかけもなくて、自然と視線が重なる。
そのまま互いの瞳を映したまま、時間だけがゆっくりと過ぎていく。
無言の時間が流れる中、時計の針の音がやけに近く聞こえて、外の気配すら遠のいていくようだった。
…………。
やがて、七時にセットしていたアラームが鳴った。
はっとした黒羽が、なぜか最後にぎゅっと力を強めてから――ようやく、手を放した。
「……っ、その、もう十分塗れたから。……今度から自分でも塗った方がいいよ」
(うぅ雪透さん、好き……♡大好き……♡こんなことしても受け入れてくれるなんてほんとに天使すぎ……♡ほんとは一生離したくなかったよぉ……♡もう今日は手洗いたくない!! けど体育あるし、うぅ……またこうやって繋げるかな……? ううん、いつかは絶対恋人として繋ぐもん……♡)
「あ、ああ……塗ってくれてありがとうな」
今日は準備が早く終わっていた分、黒羽がまた高校に遅刻することにはならなそうで安心する。
並んで靴を履きながら、ふと自分の手に視線を落とした。
……軽くこすってみる。
すべすべで、指先まで潤っていて――そして温かい。
玄関を出ると、朝の光が白く反射していた。
昨日より少し冷たい空気の中を、二人で並んで歩く。
……寒いはずなのに、手のひらに残った温もりがまだ消えない。
黒羽の歩調が早まって、少し前を歩き出した。
結んだ二つの髪が、歩くたびにふわりと揺れる。その動きに合わせて、覚えのある香りが微かに漂った。
信号待ちの横断歩道、通りを渡る人の群れの中で、俺と黒羽の間だけ時間の流れが遅い気がした。
何か声を掛けようかとも迷ったが――結局、何も言わないまま信号は青に変わった。
(……ま、いいか)
俺と黒羽にとっては、この無言の時間も心地良いものだから。
校門が見えるころには、朝の光もだいぶ柔らかくなっていた。
校門を潜る前、黒羽は一度だけ振り返って小さく会釈をすると、そのまま歩いていった。
――。
大学に向かいながら考える。あの時間は何だったんだろう、と。
しかし、考えるだけだ。
何か気付いたことがあったとしても――今回は、上手く言葉にできなかった。
けれど、黒羽の手はすべすべで、ひんやりしていて。
(……幸せだった)
(♡♥)
――夜、黒羽の部屋。
机の上には、開きっぱなしの教科書とノート。
ページの端には、昼間つけたハンドクリームの香りがまだ残っていた。
ベッドの上に倒れ込んで枕を抱きしめた黒羽は、今日も内心と一緒に暴れている。
(ああああやばいやばいやばい!!!! お兄さんと手!! 手繋いじゃった!!! しかも恋人繋ぎであんなにずっと……っ!! 一瞬だと思ってたのに後で時間見たら30分くらい経ってたっぽいし!! うううううずうっとお兄さんの匂いしてたっ……、しかもずっと目も合いっぱなしだった……っ! はあぁほんとに心臓はちきれるかと思ったよぉ……♡♡♡)
(~~~~っ!!! わたし塗るときの手の動き絶対えっちだったよね!!! なんかすごい音してたし!! ぬちゅぬちゅって……ああああ思い出しただけでやばい!!!)
(うううううう………お兄さんのこと好きすぎて最近抑えられなくなってるよぉ……♥だってお兄さん全然イヤそうじゃないし……うぅ、変な子だと思われてないかな……??)
(……っはぁ……だめ、もう……好き……ううう雪透さん雪透さん雪透さん……っ)
声にならないその叫びは――手に残る香りとともに、夜へ溶けていった。




