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クールな義妹の心は()の中に住んでいる  作者: 創綴世 優


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(12)一つの本心


 水曜日の朝。


 顔を洗い終えた時に見た鏡の中の自分は、まだ少しだけ眠そうだった。


 タオルで押さえるように水気を拭き取って、二階の部屋に戻る。


 セーターとズボンに着替えると、柔らかい生地の感触が肌に馴染んで、それが朝の冷えを少しだけ和らげる。大学が休みの日の服装は、これだけで十分だ。


 階段を降りる途中、リビングの方からヘアアイロンの低い音が聞こえた。

 黒羽がいつものように髪を巻いているらしい。


 一階に降りると、黒羽は既に制服に着替え、ツインテールを束ねていた。

 今日のシュシュは淡いブルーらしく、髪の黒さが引き立って見える。


 俺はポットのスイッチを入れ、湯が沸くのを待つあいだにマグを用意した。

 インスタントの粉をカップに入れ、静かな音を立てて湯を注ぐ。


 香りが立ち上がる頃、黒羽は鏡越しに前髪を整え、袖を軽く直した。その仕草を横目に見ながら、コーヒーを一口すする。


 窓際に歩き、カーテンを少し開けると、外の空気がすっと流れ込んできた。

 十一月の朝らしく、少し冷たいが心地良い。


 カーテンを閉じて振り向くと、髪を整え終えてこちらを向いていた黒羽とようやく目が合った。


「黒羽、おはよう」


「……おはようございます」


 相変わらずの無表情に、温度の低い声。

 黒羽は机の端に置いた鞄を取り、肩に掛け直した。


 俺も上着を手に取り、外に出る準備をする。

 玄関へ向かう足音がほとんど同じタイミングで重なって、鍵を手にした黒羽が一歩先を歩く。

 俺はそれを眺めながら――ふと、起きた時のことを思い出した。


「――そういえば、朝起きたらLINEが来ててさ」


 黒羽がリビングのドアノブに手を掛けたまま、わずかに首を傾けた。


「……?」


「同じ大学の子から、また告白されたよ」


 ――。


 空気が、一瞬で凍りついた。


「……え? 誰、に……?」

(え……?? は?? それ誰……?? 誰なの??? 私のお兄さんなのに、なんで?? は??? ……名前聞きださないと……でも私、名前知ったところで何かする度胸もないし……お兄さんに嫌われるのも嫌だ……でも私以外の子なんて絶対許せないよ……)

(……ていうかお兄さんこの前も告白されてなかった?? いったい何回告白されるの??? なんでお兄さんを狙うの?? お兄さんのこと大して知らないでしょ?? 私の方が絶対好きだしお兄さんのこと知ってるのに……ほんとに最悪……ほんとありえない……わたしの、わたしの……お兄ちゃん、なのに……)

(……、……でも前回は断ってくれたよね……? じゃあ今回も……? ……っ、でも今回も断るとは限らないよね……なんでだろ、胸が苦しいな……)


「あれ、珍しいな。普段は俺の大学のことなんか聞かないのに」


「……いや……別に……兄さんが誰に告白されようが興味ない、けど……」

(嘘だよ、興味なくなんてない……ほんとはお兄さんのこと全部知りたい!! でも聞くの怖い……もし受けるって言われたら……?? 嫌だ……嫌だよ……っ、お願いだから断ってよ…………お兄さんが誰かと付き合ったとしても一生諦める気ないけど、それでも辛いよ……だって私にお兄さんが誰かと付き合うのを止める権利なんてないし、別れてくれるまではお兄さんが誰かのものになっちゃうんでしょ……?? そんなの絶対無理、私死んじゃうよ……でもこんな弱い私が断ってほしいなんて言えるわけない……)


「兄さん、モテるもんね……」

(あぁ、私はやっぱりこんなことしか言えない……ぁ、うぅ、もうだめ……嫌な想像しすぎて体調悪くなってきた……頭痛いし気分悪くて吐きそう……視界も、ぼやけてきて……、……)


 ……黒羽の声が、急に細くなった。

 顔色も少し悪い気がして、俺は思わず足を止めた。


「……黒羽?? 大丈夫か……?」


「…………っ」

(……頭が、まわらない……お兄さんの声が、遠くに、聞こえる…………)


 黒羽の様子がおかしいことに気付いて、俺が声を掛けた瞬間――、


「っ、危ない!!」


 ――黒羽の足がもつれ、体がふらりと傾いた。

 ――反射的に、体が前へ出る。


 ――!


 伸ばした腕が空を切った次の瞬間――軽い衝撃が腕に伝わった。

 黒羽の冷え切った体温が、制服の布越しに掌に伝わってくる。

 すんでのところで、背中を支えるのが間に合った。

 俺は胸の奥に詰まっていた言葉を、吐息に交えてゆっくりと吐き出す。


「――黒羽、ごめん」


「…………え?」


 まだ虚ろな目をしている黒羽が、俺の声に反応してゆっくりと顔を上げる。


「黒羽がそんなに動揺した理由は分からないけど……きっと俺が悪かったんだよな」


「……、……そんな、こと……」


 黒羽は言葉を続けようとして――喉の奥で何かがつっかえたように、口をつぐんだ。

 唇がわずかに動くが、声にはなっていない。


 視線だけが揺れ続けて、俯いた頬に髪が落ちる。


 ――否定しないということは、やはり俺が黒羽を傷つけたのだろう。

 胸の奥に、鈍い痛みが広がる。


 原因が分からなくとも、普段はクールな義妹――いや、大切な子(黒羽)にこんな顔をさせるほど傷つけた時点で、それ自体が俺の過ちだ。


 ――だからこそ、反省している暇など無い。


 今の俺にできるのは、傷つけた事実を受け止めて、その上で黒羽の気持ちと向き合うことだ。


「……だから、ちゃんと教えてくれないか。黒羽の気持ちと、黒羽が嫌だったことを。

 それを無視して黒羽の嫌なことを続けるなんて――俺は、絶対にしないから」


「……っ」


 声にならない声が、震えと一緒に零れる。


 ――黒羽は、何かを迷っているようだった。


 唇を噛み、視線をさまよわせる。


 呼吸が浅くなり、喉がかすかに鳴る。


 何かを言いかけては飲み込むたび、心の中で何度も躊躇いを繰り返しているのが伝わってくる。



 ――しかし、それでも。


 黒羽は覚悟を決めたように、俺の顔を見上げた。


 指先がきゅっとセーターの裾を掴み、そのまま離さない。


「黒羽?」



「絶対、だめ……」


「えっ?」


「……付き合うなんて、絶対にだめ。……他の人と、付き合わないでほしい」


 掠れた声で、それでも、言葉だけは途切れずに出た。


 セーターの裾を握りしめ直す指は小刻みに震えている。


 瞳の奥の光は揺れても、微動だにしない視線は――掴んだまま離さない指と共に、さっきの言葉が本気だと、何度でも訴えかけてくる。


 …………。


(……こんな黒羽は、初めて見たな)


 黒羽は不安そうに――けれど、やはり目を逸らさず、まっすぐに俺を見据えている。



 ――だから、


「……ああ。分かった、約束するよ」


 俺も、自分の意志をはっきりと伝えた。


 黒羽の肩が小さく跳ね、瞳が大きく見開かれる。


 驚きとも安堵ともつかない息を零し、一度ゆっくりと瞬きをする。


「……ほんと……?」


「ああ、俺が黒羽に、嘘なんて吐くもんか」


「……うん。ありがとう……」


 しばらくの間、俺たちは何も言わず、時計の針の音だけが部屋の静寂に鳴り響く。


 最後に小さく囁かれた声が、しばらくは耳に残っていた。



(♡♥)



 玄関を出ると、ひんやりとした朝の空気が肌を撫でた。


 通りは人通りが少なく、二人の靴音だけが響く。

 黒羽は鞄を抱えたまま黙っていたが、歩幅は俺とぴたりと揃っていた。


 彼女の横顔に、先程の張りつめた色はもうない。

 吐く息が白く揺れて、沈黙ごと前に進んでいく。


 住宅街を抜け、角を曲がると、いつもの校門が見えてくる。

 校内の時計を見れば、始業時間をとうに過ぎていた。


 完全に遅刻だが、今回ばかりは仕方ないだろう。


 校門の前にさしかかったとき、黒羽が足を止めて振り返った。


「……雪透さん、さっきはありがとう」


「ん?」


 突然の礼に一瞬意図が分からず、軽い返事をする。


 すると黒羽は、躊躇いがちに俺の顔を見上げて、


「…………誰とも付き合わないって、約束してくれたこと。……本当に嬉しかったから」


 ……そう、まっすぐに伝えてきた。


「っあ、ああ……」


 あまりに直球な言葉に、思わず言葉が詰まった。

 ……家族としての意味にせよ、好意がなければこんな言葉は出てこないだろうから。



 黒羽を見送った後、俺は踵を返し、ゆっくりと帰路についた。


 ――それにしても、さっきのは何だったのだろう。


『絶対、だめ』


『他の人と付き合わないでほしい』


 黒羽のあの言動は、その時の様子と照らし合わせても――俺が告白された事実に嫉妬して動揺していた、と考えるのが自然だろうか。

 ――驚きはしたが、違和感はない。


 幼い頃から長い時を二人きりで過ごし、守り、守られてきた。


 そんな、年月以上に深い時間の中で、少しくらい独占欲を持たれたっておかしくはない。


 そして何より、俺には黒羽の頼みを断る理由もなかった。


 そもそも俺は、断るつもりで「どう言えば角が立たないか」を黒羽に相談しようとしていただけだ。


 俺は黒羽を幸せにするために生きているし、それはこの先も変わらない。


 そして、複数のものを同じように大切にできるほど器用な人間でもないから、他の誰かのために生きる選択肢など最初から持っていない。


 ――思いがけず、俺が知りたいと願っていた〝黒羽の本心〟を一つ知れたのも嬉しい。


 大切な義妹にそこまで強く思われているということは、兄として誇らしいことだとも思う。


 そう、俺だって黒羽のことを、この世界で一番大切に思っている。


 だからもしかすると、逆の立場なら黒羽と同じことを思うかもしれない。


 ――そうだ、想像してみよう。


 もし黒羽が誰かに告白されて。その上、誰かと付き合うかもしれないと言われたら――?



 ――心臓が、ギリ、と痛んだ。


(……ふむ。これは、なるほど)


 ――どうやら、俺も黒羽と同じだったらしい。


 程度の差はあれ、俺も今の想像を少なからず〝不快〟に感じた。


 これはつまり――黒羽の気持ちを、一つだけでも理解できたということになるだろう。


 その事実に妙な充足感を覚えて、口元がわずかに緩む。


 どうやら、俺と黒羽は――本当に、どこまでも二人一緒らしい。


 これまで異性から向けられる好意の感情は、どれも身勝手で、煩わしいものばかりだった。

 けれど、独占欲を向けられるというのも……相手によっては、案外悪くないものらしい。


 そんなことを思いながら、ふと空を見上げる。


 雲の切れ間から差し込む冬の日差しが、どこか穏やかに感じられた。


 ――こうして俺と黒羽は、割と大きな『約束』を一つ交わしたのだった。



(♡♥)



 ――夜、黒羽の部屋。


 黒羽は帰宅してすぐ部屋に戻り、ベッドの上に倒れ込むなり枕を抱えて悶絶していた。

 頬の熱は朝から一度も冷めず、心臓はずっと暴れたまま。

 どう落ち着こうとしても……絶対に無理だった。


(あああああああぁぁぁっはずかしいはずかしい!!! ほんとに何をやってるの私は!?!? いきなり倒れてお兄さんに心配かけて……しかも抱きとめられちゃったし!! まだ背中にお兄さんの腕の感覚が残ってるよぉぉ!! でもそうじゃないの!! その後私何言った!? ねえほんとに何て言った!?!?)


(…………ああああああああっ!! うあああ思い返したらほんとに死にたい!!! 告白されたお兄さんに『絶対だめ』とか!! 私はいったい何様なの!!?? しかも……しかもそのあと『他の人と付き合わないで』とか超大胆なこと言っちゃった!! どっちも本心だけどっ!! あんなのもうほぼ告白じゃん!!!)


(……しかもお兄さんあれで気づいてないっぽいしなんで!?!? なんでなの!?!? え、ただ純粋に妹としての独占欲だと思ったってこと!?!? だとしたらお兄さんもお兄さんで鈍感すぎないかなぁ!?!? ばか!!!!)


(……でも……はぁ♡♡雪透さんにあんな約束してもらえるなんて……♡幸せすぎてもう死んでもいい……いや雪透さんと一緒にいたいから死ねないけど……♡お兄さんが嘘つくわけないし……約束してくれたってことは、お兄さんはもう私以外と付き合えないんだぁ……♥ふふっ、ふふ……えへ、えへへ……♡うぅ~~、うれしくて顔のにやけがおさまらないよぉ……♡♡♡)


(それに、小学生ぶりにだっこもしてもらえたし……今日は本当に人生最高の日……♡はぁ、勇気出してよかったな……♡)


 顔を枕に埋めたまま――黒羽はしばらく動けなかった。


 あまりの喜びと胸のくすぐったさに、眠気すらも訪れない。


 夜はまだ静かで、幸せと布ずれの音だけが、彼女の部屋に満ちていた。

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