(11)教室の温度-黒羽サイド
校門の前で立ち止まると、冬の風が頬を撫でた。
一度だけ振り返って、見送ってくれる兄に小さく会釈する。
「……行ってきます」
私はくるりと背を向けて、女子高の門を潜った。
(♡♥)
下駄箱の前でローファーを脱ぎ、上履きに履き替える。
靴の先を揃えて立ち上がると、冬の朝の冷気が少しずつ薄れていくのを感じた。
廊下には、香水の淡い匂いが混ざって漂っている。
階段の踊り場に差す光が眩しくて、私は少しだけ目を細めた。
廊下の奥では、誰かの笑い声が反響して消える。
階段を上がるたび、制服のスカートが小さく揺れた。
三階の突き当たりにある自分の教室に近づくにつれて、声が増えていく。
ガラス越しに覗いた教室の中では、クラスの子たちが談笑しているのが見えた。
扉を開けて中に入り、軽く挨拶する。
「……おはよう」
クラスのみんなから次々に挨拶が返ってくる。
「氷川さんおはよう!」「氷川さん、ごきげんよう」「おはよ~氷川ちゃん」
一応はお嬢様学校なので上品な挨拶が混ざっているが、挨拶の形式は強制ではない。
さすがに制服は指定されているが、カーディガンの着用は自由だし、メイクも常識の範囲内なら許される。
うちの学校は厳しくないほうだと思うし、クラスの雰囲気も落ち着いているから、その点に不満はない。
だけど、それとは関係のないところで――学校にいるときの私の心は曇っている。
「はぁ、今日も相変わらずクールね氷川さん……」「分かる……あの冷たい返事が刺さるんだよね……」「あの氷の表情の奥でいったい何を考えてるのでしょう……」
女の子たちの囁きが背中に触れる。
私は視線を黒板に向けたまま、胸の奥が少しだけ沈むのを感じた。
みんなが言う「クール」という言葉の意味を、私はよく知らない。
私はただ、多くのものに興味が持てないだけだ。
そしてあの人の前では、普段の自分を真似るようにして感情を抑えているだけ。
……学校でも、心の中ではたった一人のことを考えているだけなのに。
頬にかかる髪を耳にかけると、ガラス窓の外を風が走った。
……笑い声が遠ざかっていく。
私の中だけ、違う温度の世界にいるみたいだった。
(…………お兄さんにあいたい)
鞄を机の横に掛け、カーディガンを脱いでたたむ。
ようやく一息ついたところで、私は左手でスマホを取り出した。
人差し指で画面を開き、短く文章を打ち込む。
【大学に着きましたか?】
送信して、しばらく画面を伏せたまま待ってみる。
するとすぐに、小さな振動が手のひらをくすぐった。
(……!)
私は急いでスマホを見る。
【着いた】
「!!」
その三文字を見た瞬間、胸の奥がふわりと軽くなる。
誰も見ていないのに、無意識に緩みかけた口元を指で押さえた。
胸の奥の熱を落ち着かせるように、静かに息を吐く。
画面を閉じて深呼吸を一つすると、いつものようにノートを広げて授業の準備を始めた。
午前中の授業は、いつも通り静かに過ぎていく。
指された質問には簡潔に答え、ノートには余白なく板書を写す。先生の声やチョークの音が一定のリズムを刻む中で、私はただ淡々と手を動かしていた。
黒板の文字を追いながらも、思考のどこかでは別の映像が流れている。
(……お兄さんも、今きっと講義を受けてるんだろうな)
――〝同じ〟。
そう考えるだけで、少しだけ胸が温かくなる。
ペンを持つ指先から、今朝の柑橘がかすかに香った。
授業が終わり、休み時間。
机の中でそっとポーチを開いて、掌に収まる小さなぬいぐるみを一握りする。
布の感触に、じわりと体温が移る感覚を覚えた。
(……お兄さんに褒めてほしいから、今日も頑張るね)
周りを確認してから写真フォルダを一瞬だけ開いて、すぐに閉じる。
……見過ぎると、顔がにやけるのでいけない。
瞳に残る熱を胸の内にしまい、視線を机のノートへ戻す。
外の風が窓を鳴らし、クラスの笑い声が一瞬だけ混ざった。
四限目は体育。今日はバスケの授業だった。
冷えた体育館の床に照明と外の光が混ざり合って、白く揺れている。
ボールの弾む音とスニーカーの擦れる音が響く。
パスを受けてそのまま跳躍し、レイアップが音もなく決まると、黄色い声がふわっと広がった。
「きゃーっ!」「氷川さん、さすがだわ……」「フォームがお綺麗ね」「憧れます……」
息を整えながら、ボールを仲間に返す。
褒め言葉が自分に飛んでも、私は小さく頷くだけ。
誰にどう見られても、私の心は動かない。
思い浮かぶのはいつだって、あの人ただ一人だけ。
(……お兄さんが見てくれてたら、嬉しいのに)
ドリブルの音が遠ざかる中、胸の鼓動がそれに重なる。
運動のせいで早まった心拍に合わせて、あの人の姿が浮かんだ。
(……雪透さんは、今なにをしてるのかな……)
体育の授業が終わり、体操服の袖をまくって汗を拭う。
冷たい水で手を洗うと、水に触れた瞬間だけ指先の香りが強まった。
すぐに薄れて、跡だけ残る。
(……ほんとは、洗いたくなかったな)
更衣室で制服に着替えてから教室に戻ると、どこかからお弁当の匂いが漂っていた。
昼の陽射しが窓から斜めに差し込むなか、私は自分の席に戻り、机の上に弁当箱を置く。
朝、早起きして自分で作った弁当だ。
お兄さんの分を作るついでに、自分の分も並べて詰めている。
箸を割る音が静かな昼の教室に混じった。
周りでは友達同士でおしゃべりが弾んでいるけど、私はその輪に加わらない。
窓の外の空をぼんやり見ながら、一口ずつ食べ進めていく。
(……お兄さんも、今お昼かな)
……。
我慢できなくなって、スマホを開いた。
指先で短く打ち込んだメッセージを送信して、今度は画面を凝視して待つ。
――間もなく、小さな振動が鳴った。
「!!」
もちろんすぐに確認する。
【俺も食べた】
……。
(……えへ)
送られてくる文は短くても、確認した瞬間、勝手に口元が緩む。
スマホをポケットにしまい、静かに息を整えて、弁当箱の蓋を閉じる。
午後の授業に備えて教科書を開きながら、私は胸の奥で呟いた。
(……午後も頑張るね、お兄さん)
五限目は現代文。
先生が段落ごとに指名し、私の番が来る。
「氷川さん。ここからここまで読んでくれる?」
「……はい」
言われた通りの場所を一定の速度で読み上げる。
教室の空気が静まり、読み終えると先生が軽く頷いた。
「発音が丁寧ですね」
周囲から小さな笑い声が漏れ、いくつかの視線がこちらを向く。
私は何も言わず、視線を机へ戻した。
声が教室に溶けていった余韻をぼんやりと感じながら――また、ふと思ってしまう。
(最近、たくさん一緒にいられるようになったから……余計に寂しくなる)
誰かに褒められても、何を言われても、教室にいる私の心は冷えたまま。
教科書の文字を追いながら、胸の中でゆっくりと思う。
(わたしが声を出すたび……そのすべてを、お兄さんだけが聞いてくれたらいいのに)
最後の休み時間になった。
窓の外は夕焼けに霞んでいて、それが机の端を淡く照らしている。
私は机の中でそっとポーチを開いて、小さなぬいぐるみを指先で撫でた。
次に、スマホを取り出して、LINEの画面を下から上へ、上から下へと何度もスクロールする。
どれも、短い事務的な連絡ばかりだった。
それでも、そのひとつひとつが宝物みたいに思えて、心がじんわりと温まっていく。
……そして同時に、胸の奥が少しだけ痛くなる。
(……もうだめ、あいたい)
送信ボタンを押した指先が、微かに震えた。
今度はもう、スマホを持ったまま画面を見つめて。
――数秒も経たないうちに、小さな振動が手の中に伝わった。
(――っ!!)
【了解。そろそろ向かうよ】
「――氷川さん、誰とやりとりしてるの?」
「!?!?」
唐突に声を掛けられ、反射的にスマホの画面を裏返す。
……話しかけてきたのはクラスの女子だった。名前は憶えていないけど。
まぶたを一度閉じて、呼吸を整えてから質問に答える。
「…………私のお兄さん、だけど」
「へえ、お兄さんなんだ! 氷川さん、普段超クールなのに、なんだか楽しそうに見えたから彼氏さんかと思っちゃったよ〜」
(……え、そんなに顔に出てたかな……)
……あ、そっか。
お兄さんの前では、ばれないように頑張っているから。
だから、お兄さんのいない場所でお兄さんと話したら、緩むのは当然かもしれない。
「……自慢の、お兄ちゃんだから」
私は誤魔化すのを諦めて、心のままを伝える。
いくら興味がないからといって、好意的に接してくれるクラスメイトに嘘を吐くのは気が進まないから。
(……それと、『彼氏かと思った』って言われて嬉しかったし)
……正直、こっちが本心かもしれない。
「えっ!? きゃあーー……! 氷川さんってそんなこと言うこともあるんだね!! 普段からは全然想像つかないよ……! 氷川さんがそこまで言うなら、本当に素敵なお兄さんなんだね~」
「……うん」
彼女の言葉に、ほんの少しだけ口元がゆるむ。
その子が嬉しそうに笑って席へ戻っていくのを見届けてから、私はそっと息を吐いて窓の外を見上げた。
校庭の向こうには、薄く光る冬の空がある。
チャイムが鳴り、最後の授業が始まった。
(♡♥)
放課後。
終礼を終えたあと、鞄を肩に掛けて立ち上がると、机の中を一度だけ確認してから教室を出た。
階段を下りるたび、胸の鼓動が少しずつ速くなる。
(……もう来てる頃だよね?)
階段を降りきる前に、胸の奥で何かが跳ねた。
(…………いる!!)
見なくても、いつもの場所に立つあの人の気配を確かに感じる。
靴箱の前まで来て上履きを脱ぎ、ローファーを履く。
扉の向こうに滲む夕光の中で、外の人影を探した。
ガラス越しに目を凝らすと……校門の近くに、見慣れた人影があった。
(……はぁ……ふぅ……)
私は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
歩幅を崩さずに玄関を抜けて、そのまま校門へ向かって歩き出す。
(……っ、走りたい……でも、落ち着かなきゃ……!)
表情も視線も、崩さずに歩く。
乱れているのは――いまは、私の内心だけでいい。
近づくたび、風が頬を撫で、心臓が熱を帯びていく。
私はそのままお兄さんの前まで歩いて――
手に持っている鞄の持ち手をきゅっと握りしめてから、小さく口を開いた。
「……お待たせ。迎えに来てくれて、ありがとう」
感情を抑えるために、学校にいるときと変わらない、いつも通りの冷たい声色で挨拶をする。
――それでも、お兄さんはいつも通りに小さく微笑んで、優しく返してくれる。
その笑みを見ただけで……私の中に張りつめていたものが、一瞬で溶けていく。
(あぁ……♡大好きだよ、おにいちゃん……♡♡)
胸の奥でそっと呟きながら、私は大好きな人に並んで歩きだした。




