(01)クールな義妹
――クールな義妹の心は、()の中に住んでいる。
人間は誰しも、他人からの見え方を気にしながら、本心を隠して生きているものだ。
しかしその中でも、飛びぬけて何を考えているか分からない人間というのがいる。
……俺の中では、それがうちの義妹だ。
常に無表情で必要最低限のことしか喋らない義妹の黒羽は、恋人どころか友達も一切作らない。
きりっと整った容姿とすらりとしたスタイル、そして成績も優秀。
……にも関わらず、自ら距離を置くそのミステリアスさで、ひそかに女子から人気のある黒羽は――クラスメイトから『氷のお姫様』なんて呼ばれてるらしい。
しかし――俺はそんな彼女の〝無表情の奥にある何か〟を、見落としている気がしてならない。
何故なら、黒羽は俺と話すときだけ挙動がおかしい時がある。
物理的な距離は遠く、声も冷たいのに――時折、目線だけが熱い気がするのだ。
無表情の裏に、誰にも見せない内心を隠している義妹。
いつかそんな義妹の内心を暴いてみたいとひそかに思う義兄。
これは、俺が妹の内心に気付くまでの――じれったい、すれ違いの恋物語である。
(♡♥)
大学二年生の氷川雪透は今、氷川家の夕飯の支度をしていた。
氷川家と言っても、住んでいるのは雪透と妹の黒羽の二人だけだ。
二人が家族になったのは、小学生の頃。両親の再婚がきっかけだった。
その両親は、雪透が高校に上がってすぐの頃、仕事で海外へ移った。
それから五年、黒羽と二人だけの暮らしが続いている。
「……よし、出来た」
最後の味見を終えると、雪透は満足げに呟いた。
朝飯の支度は黒羽、夕飯の支度は雪透がすることに決まっている。
二人とも料理を含めた家事全般が得意なので、生活に困ったことはなく、むしろ両親がいた頃より家はよく回っている。
「そろそろかな」
ちょうど雪透がそれを呟いた時、玄関の鍵が開く音と共に冬の冷たい風が家に流れ込んできた。
「……ただいま兄さん」
静かで無感情な帰宅の挨拶が、雪透の耳に届く。
「ああ、おかえり黒羽。夕飯の支度できてるよ」
「……ありがと。手を洗ったら行くから」
帰宅してリビングに入ってきた制服姿の黒羽は、雪透を一目見ると、淡々と挨拶だけをして、洗面台に向かっていった。
相変わらず無口で、必要以上のことを話さない彼女の背中を見ながら――雪透は思案する。
黒羽の容姿は雪透の目線で見ても、とにかく整っていて美しい。
華奢な体つきと、陶器のように白く透き通った肌。
ぱっちりとした二重に、大きな灰桃色の瞳。
黒羽曰く、昔は完全に灰色の瞳だったらしいが――今はそこに鮮やかな桃色が混ざっている。
常に変わらない無表情ですら、彼女の飾らない美しさを際立たせている。
黒く艶やかな髪は絹糸のように細く滑らかで、ふわふわと巻かれてゆるく広がったツインテールは、名前の通り『黒羽』を連想させる。
毎日違う色を選んで着けるリボンやシュシュ、そして色違いのカーディガンが彼女の静かな個性をそっと彩っている。
冷たさと上品さ、美しさと可憐さが両立した、どこか儚い容姿と立ち居振る舞いは――まさに、『氷のお姫様』という言葉がよく似合っているだろう。
そんな黒羽は当然、彼女が通う女子高でも大人気だ。
クールで気取らず、自分の容姿や能力をひけらかさない女子というのは、同じ女子からも好かれるものだ。
――それなのに、黒羽には友達がいない。
これは誇張ではなく、事実として、ただの一人もいないのだ。
分かりやすい例で言えば、黒羽のLINEの友達はたったの『一人』である。
その一人が誰かは言うまでもないが――とにかく黒羽は、他人と距離を置いて、関わろうとしない。
そしてそれは、何か暗い過去があるからでも、人が怖いからでもない。
黒羽は友達を作ろうとすることもないが、それを嘆いているような様子も一切ないからだ。
もちろんそんなものは人それぞれであり、本人がいいのなら良いと雪透も考えている。
それでも、唯一彼女と関係が近い自分から見ても、そのことは不思議だった。
雪透も周りからはクールだと評される人間であり、積極的に他人と関わる方ではないが、男友達くらいは普通にいる。
つまり、単純に「クールだから」で済む話ではないのだろう。
――雪透がそんなことを考えていると、黒羽が手を洗い終えてリビングに戻ってきた。
「……用意してくれてありがとう。いただきます」
「ん。いただきます」
二人で食卓に着いて、黙々と食事を進める。
毎度のことだが、夕食の時でも会話はほとんどない。
黒羽は常に無口で、雪透も、黒羽から話しかけられない限りはあまり口を開かない。
――しかし、
「……兄さんも、小説のお仕事は順調?」
ぽつりと、黒羽が雪透に仕事のことを尋ねた。
「ああ、まあな。前作もヒットしたことだし、新作もぼちぼち準備を始めてるよ」
互いに無口といえ、全く喋らないというわけではない。この程度の会話なら日常に溶け込んでいる。
「……そっか。……大変なのに、いつもありがとう」
「――ん」
氷川家の事情は、少し特殊だった。
両親が海外に移住した当初は、二人が困らない程度の仕送りが定期的に届いていた。
だが、雪透が小説家として自立できるようになってからは、仕送りどころか連絡すら途絶えた。
二人で海外へ渡った理由も、人間関係を整理して二人きりになりたかったという、親としてはどうしようもないものだった。
要するに、あの二人は互いのことしか見えていない。
もっとも、雪透も黒羽ももともと親に依存する性格ではなかったので、そのことに特別な感情はない。
ただ、そうなれば、必然的に雪透が黒羽を養う立場になる。
――もっとも、雪透が高校生のうちに小説家になったのは、そもそも黒羽一人のためだった。
あの親の性格を思えば、「もし何かあった時、黒羽が生きていけなくなったら」と考えるのは当然だ。
だから雪透は、少しでも早く彼女を養えるようにと、元々得意だった小説に打ち込み、見事に文学賞を受賞して作家になった。
そして、その真意にはもちろん黒羽も気付いている。
先ほど彼女が口にした礼は、〝雪透が自分を養っている〟ことに対しての感謝と、〝仕事をしながら家事もしてくれている〟ことへの感謝――その両方の意味が含まれていた。
雪透は、たった一人の家族――妹である黒羽を、心の底から大切に思っている。そしてそれは、言葉ではなく行動の積み重ねで示してきた。
黒羽もまた、雪透を〝家族として〟大切にしていることは確かだ。
その感情を隠す気がどちらにもないのは、見ていれば分かる。
――それでも、黒羽は雪透に対しても無口で素っ気なく、口調も冷たい。
誰にも心を開かない、無表情でクールな人間なのだと片づけてしまえば、それまでだ。
けれど、これだけ長く二人で暮らしてきて、信頼もされているはずなのに、物理的な距離まで遠い。
自分から近づくことはなく、雪透が近づけば、わずかに身を引く。
そして、基本的に目を合わせようとしない。
――それなのに、嫌われている気配は一切ないのだから、余計に不思議だ。
それは、「家族として大切に思っているから」という話ではなく。
血の繋がっていない異性として見ても、嫌われてはいない――そんな確信めいた感覚がある。
そして、それなのに冷たく距離が遠い――そんな繰り返しが、終わりのないループのように続いている。
――だから、雪透は黒羽の内心が知りたい。
黒羽が閉ざした扉の向こうには、一体どんな景色があるのか。
いつの日からか、大切な義妹としても、一人の人間としても――黒羽の心を暴きたくて、仕方がなくなっていた。
「……ごちそうさま。今日も美味しかった」
思考の途中、黒羽の静かな声が雪透を現実に引き戻した。
こうして度々何かに思考を巡らせる癖は、文学小説家らしいところなのかもしれない。
「ああ、お粗末さま。食器は流しに置いといてくれたら、あとはやっとくよ」
「……ありがとう。明日は私がやるから」
黒羽は素直に頷き、席を立って食器を流し台に置く。
リビングを出る直前、一度だけ振り向いた彼女は、
「……先、お風呂入るから。出たら雪透さんが入って」
いつもの調子で、風呂の順番だけを告げた。
「ん、ああ分かった。洗い物とかで時間かかるから、ゆっくりしてきてくれ」
(……雪透さん? そういえば、黒羽の呼び方ってその時々によって違うんだよな……)
そんな雪透の思考をよそに、黒羽は小さく頷いてリビングを出ていく。
階段を上る足音が遠のき、家の中に静寂が戻った。
(……っああああああああっ!!!!!! 今日もお兄さんかっこよすぎたぁぁぁ!!!! まず顔がつよつよすぎる!! そして声もかっこよすぎる!!!! あといつも通りいい匂いしたえなんであの距離であんなにいい匂いするの?!?!)
(――ていうかさっき私の名前呼んでくれたよね!?!?!? それに学校のことも聞いてくれたし、え、あれって心配してくれてるってこと!?!? え、もしかして私のこと好きなのかな!!??)
(……って、そんなわけないでしょ!? わたしなに考えてるのばか!! 雪透さんみたいなかっこいい人が私なんて……っ! ……でも、匂い好きだと相性いいっていうし……それに二人で暮らしてるから同棲みたいなものだよね……? こんなの実質結婚じゃん…………♡)
(あぁ、私のことずっと養い続けて大切にしてくれて……お仕事大変なのに愚痴一つ言わずにむしろ私の心配までしてくれて……でも話してくれたらいくらでも愚痴なんて聞くのに、私なんかじゃ支えになれないのかな……)
(……ああもうっ!! とにかく、あんなかっこいい人ほかに存在するわけないよぉ♡♡まあ私のお兄さまなんだけどね?? あんな人が私のためにご飯作ってくれて私と一緒にご飯食べてくれて……目合わせたらドキドキしすぎて気絶しちゃうから見れないけど、感じ悪くなかったかな……?? うぅ~不安になってきた……)
(……でも、いつでも優しい声で話してくれるし気にかけてくれるからきっと嫌われてはないよね……?? あぁ、すべてがひたすらに尊い……もしかしたら私って世界で一番幸せな女の子なのかも……あ、守ってくれるゆきとさんが王子様だとしたら私はお姫様……?? ああ妄想が捗るよぉ、あとでノートに追加しなきゃ……♥)
(はぁ、はぁ……興奮しすぎて雪透さんの成分が足りない……っ、今日もいつも通りあとで雪透さんがお風呂入ってるときにお部屋に侵入させてもらってたくさんお布団と枕の匂いを嗅ごう……もう盗んで私の部屋にあるシャツの匂いが薄くなってきたし仕方ないよね……!! あそうだ先お風呂入らなきゃ雪透さんが入ってくれないじゃん!! あぁでも後に入らないと雪透さんの成分が染み込んだお風呂に入れない……っ!! けど私が入ったお風呂に雪透さんが入るっていうのもそれはそれで……っ♡♡)
(――っはぁ、想像しただけで興奮してきた…………うぅ、こんなはしたない子でごめんなさいお兄様……嫌いにならないで……♡♡♡♡)
……閉じられた扉の奥では、激しい感情だけが渦巻いていた。
(はぁ……お兄ちゃん……すき……♡)
呼称の揺れはただの癖ではない。胸の高鳴りに寄り添って、心の中で何度も呼び名を着替えるからだ。
外に出る声が、ときどきその名残を拾う。
暗い部屋に、彼女の荒い息遣いとベッドの軋みが響く。
――だが、それが雪透の耳に届くことはなかった。




