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青薔薇の恋  作者: 藍村 泰
孤独の終
6/39



 小窓から漏れ出る朝陽が瞼を刺激する。ルビーはなめらかな肌触りの毛布にくるまったまま、寝がえりを打った。ぼんやりとした頭で睫毛を震わせる。薄く開いた視界に映り込んできたのは、豪奢なシャンデリアとアイボリー調の天井。

 ルビーは、ハッとして起き上がった。一気に青ざめる。

(いけない……! マドレアを起こしに行かなくちゃ)

 マドレアを起こしに行くのはルビーの仕事だった。マドレアは町有数のお嬢様学校へ通っており、その学校は朝がかなり早い。授業を始める前に、礼拝堂で神に祈りを捧げるのだという。学校の話をマドレアは自慢げにルビーに喋っていた。ルビーは聞いていないふりをしてマドレアの髪を編んだりドレスを着せてやったりして朝の身支度をしてやっていたが、いつも羨ましくて口惜しくてたまらなかった。

 ルビーは大急ぎで服を脱ごうとして、はたと動作を止める。

「あ、そうだった……。ここは……」

 グラン家ではない。

 昨夜、ルビーは息巻いて雇われていた邸を後にした。そして、偶然立ち寄った館に一晩泊めてもらったのだ。

 寝ぼけていた頭がようやく回転を始める。

 何やら寒いと思ったら、ルビーは天蓋付きベッドから転がり落ちて床の上で眠っていた。慣れないところで寝たからに違いない。誰も見ていないが、ルビーは恥ずかしさに頬を紅潮させて、握りしめていた毛布をベッドの上に放った。分厚いカーテンを開け、いつものくせでベッドメイクまで済ませてしまう。

 習慣とは怖いものだ。客間に招かれたというのに、掃除を命令された使用人のごとくすみずみまで片付けてしまう自分に頭痛がする。

(いや、まあお世話になったわけだし)

 どこまでも使用人でしかない自分の行動に言い訳をつけてみる。

 ルビーはブルーローズが貸してくれた客間を一しきり眺めた。暖炉で燃えていた木から一筋の煙が立ち昇っている。夜の間に燃え尽きたのだ。三人は余裕で座れるだろうソファは小窓から射し込んで来る朝陽に照らされて芸術品のように見える。ルビーが転がり落ちた天蓋付きベッドは、どこぞの高貴な姫が眠っていそうな可憐さがある。

 ほう、とルビーは感嘆の溜め息を吐いた。

 朝日の中でも客間は美しかった。

 ルビーは昨日と同じ黒のワンピースに着替えると、ブルーローズから借りた寝着を丁寧に畳んで置いた。くたびれたバッグを持って部屋を出た。

 腹痛がする程にお腹がすいている。昨夜はち切れんばかりに食べたというのに、腹の虫が鳴る。

 長い廊下を右に進み、突き当たりを右に曲がる。大きな扉の前でルビーは立ち止まった。昨夜、ブルーローズと夕食を摂った居間だ。ノックをしてみる。すると、どうぞと掠れた声が返って来た。

 出来るだけ明るい顔をして、ルビーは居間に入った。

「やあ、ルビー。おはよう」

 レースのカーテンが揺れる窓辺に一人佇むブルーローズは、危ういまでに繊細な端麗さを誇っている。

「おはよう、ブルー。客間を貸してくれてありがとう」

 頭を下げるルビーにブルーローズは人好きのする笑顔を向ける。

「いいよ。あ、朝食を作ったんだ。どうぞ」

 そう言って彼が指し示した先にあるテーブルの上には、バスケットに入った長パンと、湯気立つコーンクリームスープが置いてあった。白無垢の大皿にはハムとサラダが盛りつけてある。瓶に詰まった苺ジャムとマーガリンも用意されていた。

「わあ、いいのっ?」

 弾む声でルビーは朝食をうっとりと見つめる。ブルーローズはにこやかにイスを引き、ルビーを促す。

「ありがとう、ブルー」

「キミは感謝してばかりだね」

 愉快げにブルーローズは小首を傾げる。

「だって、ここまで親切にしてもらったことなんて、ここ何年もなくて。ちょっと胸が弾んでしまうわ」

「ふーん、そっか」

 席につき、ブルーローズが食べ始めるのを今か今かと待っていたルビーだったが、彼は忙しなくテーブルの上にあるものを取り分けている。

 あまりの空腹に我慢出来なくなったルビーは、

「ごめん、お腹が減っていて……先に頂いてもいい?」

と訊いた。ブルーローズは優しく了承してくれる。

 彼はタオルをかけて蒸らしたポットからホットミルクを注いで、ルビーの隣席に置いた。ブルーローズはくるりと暖炉の前に置かれているソファの方に向かって呼びかけた。

「朝食だよ、グレイ」

 グレイ、という単語にルビーは敏感に反応した。

 昨夜、客間へ入り込んできた失礼な少年の名前だ。

 のそりとグレイはソファから起き上がった。黒髪には寝ぐせがついている。彼は目をこすると、うーんと伸びをした。

「早くしないとミルクが冷たくなっちゃうぞ」

 苦笑気味で言うブルーローズにグレイは素っ気なく瞼を伏せて欠伸を噛み殺す。

「いい。少し冷まさないと飲めないし」

「そんなこと言わないで。客人も紹介したいから。ほら、立って」

 ブルーローズはグレイを無理矢理立たせて席へ押しやる。ブルーローズとグレイが並ぶと、二人の肌が対照的な色をしていることに、目がいった。

 陶磁器のように白い肌を持つブルーローズと浅黒い肌のグレイ。おまけに性格も正反対だ。反抗的な態度でグレイは食事の席につく。

 ルビーはハッとしてフォークに突き刺したまま口に運ぶことを忘れていたハムに齧りつく。

 ブルーローズはグレイが着席して、ようやく自分も席につく。

 そして、グレイに手を向ける。

「ルビー。この人が昨日言っていた、もう一人の住人だよ。グレイって言うんだ」

 二人が初対面だと思っているブルーローズは、満面の笑みで言った。

「…………ルビーです。昨夜会ったわよね、グレイ」

 グレイは何も言わず、ただ少しだけ頭を下げた。

 ブルーローズは目を丸くする。

「あれ……二人とも、もう知ってるんだ。どこで会ったの?」

「ええっと……」

 まさか、昨夜客間に侵入して来たとは言えない。ここで暮らしているということは、少なくともブルーローズとグレイは知り合いなのだ。知り合いを悪し様に言われて腹を立てない者などいない。上手い嘘が咄嗟に浮かんで来ず、ルビーは答えに窮した。

 助け舟を出してくれたのはグレイだった。彼は淡々と告げる。

「昨日の夜、ルビーの部屋に行った」

 グレイは悪びれもせずに言葉を重ねる。

「鏡とグラスを、割った」

 ブルーローズの目の色が変わる。とても険呑な色を宿した青い双眸が冷たく光る。

「グレイ……キミって奴は。ルビー、ごめんね。グレイは常識に欠けているんだ。けど、悪い人じゃないんだよ」

 眉を下げてグレイの非礼を詫びるブルーローズが可哀想に思える。ルビーもマドレアのことで、しょっちゅう人々に頭を下げて回っていたから彼の居た堪れない気持ちはよく理解出来る。

「いいのよ、ブルー。グレイが失礼なだけであなたが悪いわけじゃないんだから、謝らないで」

 言って、ルビーは口を結んでグレイを睨んだ。

 グレイは目を合わせようとはせず、ふうふうと息を吹きかけてホットミルクを冷まそうとしている。

「違うんだって。グレイは、本当は優しくて――」

「ブルー」

 グレイがブルーローズの名を口にした。彼はホットミルクに唇を寄せる。

「下手なフォローはいらない」

 鋭利な刃物のような言い草にルビーは思わずテーブルを叩いて立ち上がった。

「あんた、口を慎みなさいよ。ブルーはこの館の主人なんでしょう。同居人であるあんたがそんな不遜な態度取っていいのかしら」

「――……好きでいるわけじゃない」

「何ですって?」

「好きでいるわけじゃない、と言った」

 張り詰めた空気が流れる。

 ルビーのチャコールグレイの目と、グレイの金色の目が交錯する。

 先に視線を外したのはグレイだった。彼はホットミルクを飲み干すと、席を立って居間を出て行った。

「失礼過ぎるわ」

「ルビー、ごめんね。気を悪くさせてしまって」

 悪態を吐くルビーにブルーローズが謝る。彼が悪いわけではないと言ってやりたかったが、こういう時にそれを言うと、更に彼が謝らなければならなくなることをルビーは知っているので、敢えて何も言わなかった。たとえ自分が悪くなくても、自分に関係する人が悪いことをしたら謝らなければならないものだ。

 しばらく沈黙したまま朝食を進めていたルビー達だったが、次第にもとの明るい会話が戻って来た。

 ルビーは、どうして昨夜一人で歩いていたかをブルーローズに話した。彼は信用するに値すると思ったからだ。それを聞いたブルーローズの目が輝く。彼は手を打った。

「ねえ、雇い主を探しているんなら、この館で働いてくれないかな。つい最近までいた使用人のおばあさんが亡くなってしまって、困っていたところだったんだ」

「え……」

 戸惑うルビーの両手を包み込んで、ブルーローズは名案だとばかりにテーブルから身を乗り出す。

「お給料は弾むよ。何せ、この館を一人で取り仕切ってもらうことになるんだから」

「でも……私、そんな大したこと出来ないわ。料理だって下手だもの」

「大丈夫、大丈夫。料理はボクが作るから。ルビーみたいに良い子が使用人としてこの館にいてくれたら、嬉しいな。ちゃんと一日三食たらふく食べられるよう計らうから」

 悪い気はしなかった。

 今まで仕えていたグラン家に比べれば、天国に違いない。掃除する面積は広がるだろうが、待遇も良さそうだ。しかし、いきなり過ぎる申し出にルビーは一抹の不安を感じてしまう。こんなおいしい話はそう転がっていない。

「一生懸命働いてくれるというんだったら、あの客間をキミの部屋にしてもいい」

「でも……」

「ダメ、かな」

 ぐっと声が詰まる。ブルーローズの落ち込んだ顔は、ルビーの中にある良心を突く。他人の厚意を信用しない、捻くれてしまった醜い心を彼の純粋な心が暴いていく。

「わかったわ。こっちとしても、雇ってもらえるのはすごく嬉しい」

 ――――信じよう。

 もしも万が一給料が出なかったとしても、こんな大きな館に住めることに変わりはない。何か不都合があれば辞めてしまえばいい。

 館に泊まることを決めた時もそうだったが、ブルーローズには人を信じさせる何かがある。

 ブルーローズは白い歯を見せて嬉しげに頬を薔薇色に染めた。

「うん、ボクも嬉しい」

 素直な言葉がくすぐったくて、ルビーは目を伏せた。



「出て行け」

 息が止まるかと思った。

 単刀直入な言葉を吐いた黒髪の少年は、真っ直ぐにルビーへ視線を送る。

 館の二階にあるブルーローズの自室で契約書にサインをし、ひとまず前の使用人の部屋で掃除道具やエプロンなどを漁っていたルビーのところにグレイが現れた。先程の無礼を謝りに来たのかと思ったが、そうではなく、またもや人の神経を逆撫でする暴言を吐いた。

 ルビーのこめかみに青筋が浮かぶ。

「あんた、一体何なのよ」

 ルビーはドアにもたれかかっているグレイの胸倉を掴むと凄んだ。グレイは目を細める。蜜の色彩を持つ瞳が暗く濁る。

「出て行け」

 強く言い放ったグレイに、ルビーは恐怖を覚えて手を放す。彼は踵を返して颯爽と姿をくらました。

「わけわかんないわよ」

 ルビーはぼやき、溜め息を零す。

 ようやく見つかった居場所だが、グレイとは仲良く出来そうにないと思った。




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