第34話 空君の変化
空君が帰る頃、すっかりパパと碧は仲直りをしていて、馬鹿なことを言い合ってゲハゲハ笑っていた。
「それじゃ、空、またな」
パパがそう言うと、空君は嬉しそうに頷いた。
「空君、明日も無理しないでね?」
「うん。ありがとう、凪」
「じゃ、どうも空がお世話になりました。凪ちゃん、空のことありがとうね。あと、ご飯までご馳走になって、ありがと、聖」
空君を迎えに来た春香さんがそう言うと、
「夜飯作ったのは碧だから。それと、まじでちょくちょく空、顔出していいからさ」
と、またパパはそう言って、空君の肩をぽんと叩いた。
「はい」
空君はちょこっとお辞儀をすると、春香さんと玄関を出ていった。
「さて、俺、風呂入っていい?」
「いいけど、あんまり汚すなよ、碧」
「わあってるよ」
碧はそう言って、着替えを取りに行った。
「桃子ちゃんは寂しがっていないかなあ」
パパはそう言うと、テーブルの上の食器をさっさとシンクに運び出した。
「私、洗っちゃうから、パパはママのところに行ってていいよ」
そう言ってキッチンに行くと、
「いいよ。パパも手伝う。凪が洗ったのを拭いていくから」
と言って、布巾を手にとった。
私はどんどん洗い物をしていった。パパは横で、洗ったものを拭きながら、
「空とすっかり打ち解けたんだな、凪」
と優しい声でそう言った。
「パパ、空君困ってたよ。結婚の話までして」
「そうか?」
「そうだよ。空君はそんなこと考えてもいないし、だいたい、付き合うってことだって、まだ考えたりしていないのに」
「え?付き合うんじゃないの?空と」
「付き合わないよ。空君、そういうのわかんないって言ってたし」
「わからないもなにも…。だって、昔みたいに仲良くなったんだろ?」
「そうだよ。子供の頃にかえっただけ。空君は私といるとすごく安心できるって言ってたもん」
「ああ、そうだよな。なんか凪といると嬉しそうだったもんなあ」
「……それって、付き合うとか、恋とか、そういうんじゃないでしょ?」
私は洗っていた手を止めて、パパに聞いた。
「え?そうかな」
「パパは、ママにドキドキしたりするの?」
私は思い切って聞いてみた。パパもお皿を拭く手を止めた。
「ドキドキ?しないけど」
「え?しないの?ママはいまだにパパにときめいちゃうって言ってたよ?」
「まじで~~~?もう、桃子ちゃんったら、俺に夢中なんだからっ」
パパはそう言って思い切りにやけた。
「えっと。それはこっちに置いといて。パパはもう、ママにときめかないの?」
「う~~~ん、ときめくって言うのはないけど、いまだに桃子ちゃん、すげえ可愛い!って思うことは多々ある」
「………」
そうなんだ。
「だけど、付き合いだした頃は?ドキドキしなかったの?」
「した。手繋いでも、ドキドキしてた、そういえば」
「でしょ?」
「え?凪もそうなの?」
「わ、私はね。でも、空君はそういうのないもん」
「そう空が言ってた?」
「ううん。見ててわかるの。手を繋いでも、そばにいても、子供の頃のように安心しきった顔をしてる」
「それだけで、空がドキドキしてるかどうかなんてわかんないじゃん。まあ、凪は見ててわかるけどね?」
「私って、そんなにわかりやすい?」
「うん。真っ赤になるから。桃子ちゃんにそっくりだよね?クス。そういうところがめちゃ可愛いけどさ」
「……。私のことはどうでもいいの。空君の話だよ。空君は、私のこと、兄弟とか幼なじみくらいしか思ってないよ」
「そんなのわかんないじゃん。本人に聞いてみなきゃ。空はあんまり、顔に出さないタイプなのかもよ?」
「そうかな。私に恋してるって感じ、全然しないけどな」
そう言うと、パパは黙り込んだ。そしてまた、お皿を拭きだした。
「でも、こんなの贅沢だよね」
「え?」
「話せただけでも、話せない時に比べたらすごいことだし。それに、子供の頃みたいに仲良くなりたいって思ってたから、今の状態って、思い描いていた通りになったんだもん。すごく嬉しいことだよね。なのに、私、空君が恋してくれたらいいのに、なんて、贅沢になってるよね」
そう言うと、パパはまた手を止めて私を見た。
「いいんじゃない?それが恋ってもんだと思うよ」
「え?」
「恋したら、相手の気持ちが気になって、振り向いてくれないかとか、好きになって欲しいとか、そういうこと思ったりするよ。きっと誰だって」
「パパもそうだった?」
「うん。そうだった」
「そっか。じゃあ、贅沢になってるわけじゃないの?」
「…恋はね。でも、だんだんと変わってくるんだ」
「え?」
パパはしっかりと私を見ると、優しく微笑み、
「だんだんと相手を好きだって気持ちが、すごく大事に思えたり、相手のことが大切で、守っていこうとか、包み込んでいこうとか、そんなふうに思えたりしてくるんだ」
「……」
「相手の全部を受け止めて、大事に思って、信頼して…。それってきっと、もう恋じゃない。きっと、愛に変わってると思う」
「愛?じゃあ、恋とは違うの?」
「うん。違う」
「……」
「愛ってのはさ、すべてを受け止めて、あるがままを愛してるって、そんな感じかな」
「あるがまま?」
「…相手を想うその気持ちだけで、すげえ満たされてくるんだ。相手の存在を感じるだけで、すげえ幸せなんだよ」
「そうなの?」
「それって、夫婦の間だけじゃない。俺は凪にも碧にも、そんな気持ちでいるよ」
「…」
「そういつか、凪も空を思う気持ちが変わってくるかもね」
「そ、そっか」
「もしかすると、空はもうそんな気持ちでいるのかもね」
「え?」
ど、どういうこと?
「あいつ、凪のこと、まじで大事に思っていそうだし。それに、凪がそばにいたら、本当に元気になれるみたいだし」
「……」
「凪もじゃないの?空が大事だろ?」
「うん」
「それだけでいいじゃん。その気持ちをずっと、大事にしたらいいと思うよ?」
パパは優しくそう言うと、私のおでこにチュッとキスをして、
「食器しまうのは凪にお願いしていい?パパ、ママのところに行ってくる。さすがにママ、寂しがってると思うから」
とそう言って、パパはキッチンを出て行った。
私はしばらくその場にぼ~~っとしていた。
パパが言ってたことってすごいな。ママに対して、そんな思いでいるんだね。ああ、好きって次元じゃなくって、愛してるって次元なんだ、きっと。
愛してるだなんて、私にはとてもじゃないけど言えないし、感じられない。
だけど、パパが私のことを愛してくれてるっていうのは、すごく感じられる。
私もいつか、そんなふうに空君を思うことがあるのかな。
空君は?
パパが言うように、空君がそんな思いを私に抱いているとは、とてもじゃないけど思えないな。
そうなったら、いいなあ。私にはまだまだ、そんな触れることができない世界だ。
翌朝、またいい天気だった。朝の日差しがすでに汗ばむくらいの暑さ。初夏といってもいいくらいの日差し。
「おはよう」
玄関を出ると、いきなり空君が挨拶をしてきた。
「え?空君?」
「自転車、ここに置いてっちゃったから。門の中入って、取ってもいい?」
「うん」
そうか。私が出てくるまで、門の前でずっと待っていたのかな。
「碧は?」
「まだ、トーストほおばってた。朝からパパと、じゃれついていたから、食べ始めるの遅かったんだ。でも、きっとまた自転車で追い抜かれるから」
「聖さんと朝からじゃれあってるの?」
「うん。あの二人は友達みたいだよ」
「いいね」
「…そう?空君と碧は兄弟に見えるけど」
「仲良さそうに見える?」
「うん。あれ?仲いいよね?」
「うん」
空君は自転車にまたがった。私も自転車に乗ると、
「じゃ、行こうか」
と言って、ゆっくりとこぎだした。
一緒に駅まで行ってくれるんだ。なんか、嬉しいなあ、こういうの。まるで恋人みたい。
でも、違うんだけどね。
「俺と凪も、兄弟みたいって言われた」
「え?」
いきなり、なに?
「兄弟か、双子みたいに仲いいわよねって、母さんが…」
春香さんがそう言ってたの?そうか。恋人には程遠いよね。
「……」
空君は、黙って走り出した。私もなにも言うことが思いつかず、ただ自転車をこいでいた。
後ろから、
「お先~~~」
と碧が私たちを追い抜き、そして先に待っていた彼女と落ち合って、ゆっくりと自転車をこぎだした。
かなり近いところを走っていたので、後ろから碧の彼女がしっかりと見ることができた。それに、会話まで聞こえてきた。
「碧君、ありがとうね」
「いや。いつでも言って。あんなのたいしたことないから」
なんのことかな。
「英語、てんでダメだから、助かっちゃった。レポートなかなか進まなかったの。でも遅くにメールしてごめんね」
「ああ、全然平気。俺、しっかり起きてたし」
嘘だ。10時半頃、半目になりながら、2階に上がっていった。多分眠くてしょうがなかったんだと思うけど。
「碧君はなんでもできるよね。勉強もスポーツも」
「そ、そうかな」
あ、そういうこと言うと、天狗になっちゃうってば。
「私もスポーツ得意なら、バスケしていたのになあ」
「堀口さん、女子バスケ部に一回入ったんでしょ?なんで続けなかったの?」
「マネージャーの方が向いてるって、顧問の先生に言われて。ちょうど男バスの方、マネージャーの人が足りていなかったし」
「そうだったんだ。顧問の先生、そんなこと言ったのか」
うわ~~~。そんなにもしかして、運動神経ないのかな。あ、そういうところも、ママに似てるかも。じゃあ、もしや。
「碧君、今、ドン引きしてる?そんなに運動神経ないのかって」
「ううん。そんなことない。だいたい、自転車乗れてるし、全然大丈夫だと思うよ」
「自転車も、ずっと乗れなくて、中学入る前に必死に練習したの」
あちゃ!そんなこと言ったら、もっと碧が…。
「そうなの?そうなんだ。必死で練習しちゃったんだ」
ほら。喜んでいる声だ。そういうタイプに弱いんだから。もう、この堀口さんって、碧のタイプど真ん中、ストライクなのね。なるほど。
それに、碧にも頑張って話しかけてるって見て分かる。顔、赤いし、ちょっと必死な感じ。そういうところも、碧、弱いかもなあ。
あんまりゆっくりと碧と堀口さんが走っているから、とうとう空君が追い抜いてしまった。
「碧、お先」
私もちょっと早くこぎだし、碧を追い抜いた。
「碧~~。お先~~~」
そう言うと、碧は真っ赤になっていた。
「誰?」
「姉貴と、親戚」
「え?お姉さん?!」
後ろから慌てている声が聞こえた。もしや、挨拶しそこねたって、落ち込んでいるとか?
ちらっと後ろを見た。案の定、彼女の方も赤くなっていた。
「なんだか、可愛かった。彼女」
「うん。桃子さんに雰囲気が似てた」
「性格もだよ。あれは、碧のタイプそのものだよね」
「碧って、マザコンか~~」
「うん。ママ大好きっ子だから」
「あはは、でも、シスコンでもあるよね。凪のことも大好きだよね、碧」
「……う、うん。それは、一昨日、思い知った」
「だよね。でもいいね。兄弟がいるってさ」
空君はそう言うと、黙って走り出した。私も空君のちょっと後ろを走っていた。
駅に着き、改札を抜けた。すると、
「凪、空君。またいるよ」
と千鶴がすっ飛んできて、そう言った。
「いるって?」
「山根。と、そのお友達まで」
「え?」
空君がそれを聞き、引きつった。
「ま、いいや。無視しよう」
そう空君は言うと、ホームにトボトボと歩いて行って、山根さんたちからうんと離れたところに立った。
私と千鶴も横に並んだ。そしてしばらくすると、鉄がやってきた。
「おはよう、鉄ちゃん」
「……ああ」
うわ。すごい無愛想だ。
「空、熱は?」
「下がった」
「榎本先輩の家に行ったのか」
「そうだけど。なんで?」
うわ。空君も無愛想だ。
「……別に」
鉄はそう言うと、ちょっと私たちから離れた。でも、そこにゾロゾロと山根さんたちがやってきて、鉄の周りを囲んでしまった。
えっと、なんで鉄?
「ねえ、鉄ちゃん。お願いがあるんだ」
「何?」
「山根っちのこと応援してあげて」
うわ~~。丸聞こえだよ。
「はあ…」
隣で空君が大きな溜息をついた。そりゃそうだよね。いい加減うんざりもするよね。
でも、私にはどうすることもできないしなあ。
千鶴も、
「しつこすぎ、あいつら」
と小声でそう言っている。だけど、何も出来ないでいる。
「俺、応援とかしないよ。だって、空のやつは榎本先輩が好きなんだろ?」
「だけど、付き合ってないみたいだし」
一人の子がそう言うと、いきなり空君はてくてくとその子達の方へ歩いていき、
「俺と凪、付き合うことにした。だから、もういい加減、諦めてくれない?」
と山根さんにそう言った。
「え?」
山根さんは顔を引きつらせ、ほかの子達も一斉に空君を見た。そしてそのあと、私のことも。
「そんなの嘘でしょ?だって、昨日まで付き合うってわかんないって言ってたじゃない」
「じゃ、付き合うってどういうことを言うの?」
また空君が聞いた。
「好きな人同士が、デートしたり…。それから、えっと」
「俺、凪のこと好きだし、凪も俺のこと好きだし。だから、付き合ってるってことだよね」
「それだけじゃないよ。交際するってことは、その…」
「何?デート?二人でどっかに行くの?行き帰り一緒にいたり?」
「そう」
「それ、もうしてる」
「他には?メール交換したり、電話したり」
「そういうのはないけど、直接会っちゃうから。昨日も俺、凪の家に行ってた」
「そんなの、親戚なんでしょ?」
「…じゃあ、他には?何をしたら付き合うってことになんの?」
イライラしてる空君。それにこんなに話す空君って珍しいかも。
「キスしたり。恋人ならそういうこともするよね?」
山根さんの隣の子がそう言った。山根さんも、うんうんと頷いた。
「なんか、低レベルな話をしてないか」
鉄がそう言うと、千鶴が、
「あんたに低レベルなんて言えないと思うけど」
と言い返した。
そして、
「でも、キスならしたもんね。凪」
と小声で私に言ってきた。
「う、うん」
でも、それ、大きな声では言いづらいな。
「キス…?」
「そうだよ。恋人ならそういうこともするの。空君、まさか榎本先輩と、そこまではしないよね」
「……?なんで?」
「なんでって、それは、その。本当は付き合ったりしていないんでしょ?」
「しつこい」
空君はぼそっとそう言うと、溜息を吐き、
「したことあるけど。それで付き合ってるって認めてくれるわけ?」
と淡々とした口調で聞いた。
「キスだよ?榎本先輩としたことあるの?」
山根さんが顔を引きつらせてそう聞くと、空君は顔色一つ変えずに、
「ある。何度も」
と答えてしまった。
うっわ~~~~~~~~~~。
「何度もって言った?」
隣で千鶴が赤くなっている。鉄は青くなっていた。
「違う。子供の頃のこと言ってるの」
私は慌ててそう言うと、空君に聞こえたらしく、
「最近もした。それで、満足?」
と山根さんに言い放った。
確かに、したけど!でも、でも、でも~~~~!!!!
山根さんは、悔しそうな顔をしたけれど、いきなり平然とした顔を取り戻し、
「もう、いいや。人のものになった空君なんて、面白くないもん」
と、後ろを向いてどんどんホームの端まで歩いて行ってしまった。
「待って、山根っち」
その後ろを友達が追いかけた。
「ああ、プライドズタズタかな」
千鶴がそう言ってから、
「でも、付き合いだしたんだね。本当に」
と私と空君に言ってきた。
空君は、ちょっとだけ黙り込み、腰に手を当て、
「よく、わかんないんだけどね」
と、そう呟いた。
ああ、空君の中ではまだ、付き合うってどういうことなのかわかってないんだよね。
恋には程遠いのかな。




