・とある精霊の願い(後)
あの黒い玉が精霊を封印する魔法具だと気づいたのは、玉に吸い込まれてから、思うように力が使えないことが分かったときでした。
その後、私の入った黒い玉がどのように扱われたのかは知りません。ただ、気づいた時には私はどこかの朽ち果てた教会のような建物にいました。
私がこの玉から出るには、契約者が必要でした。しかし、ここには誰も訪れはしません。少し前にやって来た村人ふうの男数人は、ここに封じられているのが私であると分かった瞬間、怯えと恐怖、そして嫌悪に満ちた顔で慌てて逃げ去って行きました。それ以来、人がここに来ることはありませんでした。
壁も天井も崩れ落ち、古びた長椅子と装飾の剥げた祭壇、瓦礫に覆われた教会の中で、祭壇の上にぽつりと置かれた黒い玉の中、私はどれほどの時を過ごしたのでしょうか。
ただ教会内の様子をぼんやりと見ながら、徐々に力が失われていくのを感じていました。そして、それと共に私自身が消えていくのを。
人がいなければその影も存在しえないように、私は人と契約しなければ存在し続けることの出来ない精霊。契約者を失って後、多くの時を過ごし、もはやこのまま消え去るしか道は無いのだと、全てを諦め、ただ自らが消えるそのときを待つだけでした。
そんなある日。
木が腐り、片方しか残っていなかった教会の両開きの扉の間から、一つの影が真っ白な光を背に現れました。
教会内に足を踏み入れたその人に、私は最後の力で必死に訴えかけました。その時の私の声は、ひどく小さく掠れていて、その人に声が届いているのかも分からないほどでした。
しかし、その人は躊躇うことなく私へと近づき、静かに私の話を聞き受け、そして、私の願いを聞き届けて下さいました。
穴の開いた天井から差し込む日の光の中で、ふんわりと微笑んだその笑顔の神々しさを、私は決して忘れることは無いでしょう。
「私は、モクレンにも幸せになってほしいと思うよ」
口に入れられたケーキを嚥下してから、ふと私の方に顔を上げられた咲良様が、ひどく優しい、慈愛に満ちた笑みでそう言葉にされます。私を助けて下さった時と、変わらぬ笑顔。
「私も、我が君の幸せを願っています」
そう、心というものの感じるままに口にすれば、咲良様は楽しそうに笑みを深められ。
「じゃあ、一緒に幸せになろう! モクレンは良い奥さんになりそうだし、いっそ結婚しちゃうか!」
などと、咲良様のお国で言う“オトコマエ”な発言をされます。ここのところのアセスフィア王との結婚騒動のせいか、いつになく突拍子もない咲良様の発言に、私は可笑しくなって「そうですねぇ」と声を上げながら笑ってしまいました。お互いに冗談だと分かっていますから、明るい笑い声が二つ重なります。
「――――今、非常に聞き捨てならん言葉が聞こえたが」
地を這うような、という表現がぴったり当てはまるような、不機嫌を露わにした声が咲良様と私の居る庭園の入り口の方から聞こえてきました。そして、そろって顔を上げた先には、案の定眉間にいくつもの皺を寄せた、この国アセスフィアの若き王の姿が。きっと切りの良い所まで政務を終わらせ、咲良様とお茶を飲まれるためにいらしたのでしょう。
そんなアセスフィア王に咲良様は、一瞬うげっと悪戯が見つかった子どものような顔をされましたが、慌ててお顔を笑顔に戻され、自分の横の空いた席をアセスフィア王に勧められました。
「お仕事お疲れ様です! ほらほら陛下、疲れたときには甘いものですよ。このケーキ、モクレンが作ってくれたんです。美味しいですよ~!」
などと言葉を重ねられ、必死に先ほどの話題からアセスフィア王の意識を逸らそうとしておられます。それでも、一向に眉間の皺を緩めないアセスフィア王が、咲良様に会話の内容を問い詰めようと顔を寄せられたとき。
「「さくちゃ~ん!!」」
はしゃぐような元気な声が、二つぴったりと重なって聞こえてきました。そして、慌ただしく駆け込んできたのは、チックとタックという二人の魔法使いの少年です。
「さくちゃん、何してんの?」
「わー! ケーキだ! 僕も食べたい!」
「僕も~!」
「「モクレン~!」」
同じ形の、しかし色の違う二対の目が私に向けられます。そんな二人の言葉を聞いて私が咲良様に目を向けると、咲良様は苦笑いを浮かべ、しかし微笑ましそうに頷かれたので、私は三人分のお茶とケーキを用意します。その間にも、チックとタックの双子は、咲良様とアセスフィア王の座られていたテーブルの空いた席に座り、こなしてきた任務の報告や街で見た面白いことなど、大きな身振り手振りで話しています。そんな二人の話に、咲良様は笑ったり相槌を打ったり、「それは後で報告書を提出するように!」と釘を刺したりしながら、楽しそうに聞いておられました。
咲良様の隣に座られたアセスフィア王は、変わらず不機嫌な様子でしたが、さり気なく咲良様の方へ椅子を寄せられ、密かに咲良様の腰に手を回しているようでした。少々変態じみた行為でしたが、咲良様が黙って受け入れていらっしゃる以上、私も黙って様子を見るだけに致します。
咲良様と契約を交わしたとき、咲良様が望んだことは私にこの世界のことを色々と教えて欲しい、ということでした。咲良様は異世界から来られたということで、この国の言葉すら満足に話せる状態ではなかったため、この世界での一般常識や生活習慣などをお教えすることになったのです。しかし、咲良様のお傍で過ごすうちに、咲良様の暗殺を目論む者がいることを知り、咲良様の身の回りの世話も私が行うようになりました。
そんな日々の中、咲良様は私に「モクレンの望みは何?」と聞いてこられました。いつもお世話になっているので、自分に出来る範囲で私の望みを叶えてくださると。
その時私は、「いつまでもあなたの傍にいること」と答えました。咲良様は驚きに目をくるくるされながら、「お、おう」と頷いておられました。咲良様は私の真意が分からず戸惑っておられたようですが、それは紛うことなく私の本心からの願いなのです。
どうか、私を置いて行かないで下さい。――あなたの命が尽きるときでも。
あなたはきっと分かってらっしゃらないでしょう。
あなたと過ごす日々を、私がどれほど愛しく思っているかを。
あなたやあなたの周囲の人達が起こす、大小様々な騒動を、私がどれほど楽しく思っているかを。
あなたの影で眠る夜が、どれほど暖かく安らぎに満ちているかを。
あなたと契約して後、騒々しく賑やかに過ぎる毎日が、どれほど輝かしく彩りに満ちているか。喜びに溢れているか。
あなたの傍はとても明るくて穏やかで、畏怖も嫌悪も何の隔たりも感じられない、私が私の思うままに存在できる優しい場所。
けれど。あなたはただの人であるから、その生は短く儚いのでしょう。そして、あなたがこの世界を去られて後も、私はまた永遠の時を生きていかなければならない。それが耐えられないのです。
精霊に思い出の忘却はありません。ですから、まるで昨日のことのように、あなたと、あなた達と過ごした日々を、恋しく思い出し、愛おしく抱き締め、そして次の瞬間にはその喪失に絶望するのでしょう。あなたの居ない空虚な世界に手を彷徨わせながら。そんな苦しみを永遠に味わいながら生きていく日々は、きっと私を狂気の中に堕としめる。
この先あなた以上に、私に“幸せ”を感じさせてくれる契約者など現れることはないでしょう。希望の無い未来にしがみ付くほど、この身への執着など無いのです。
だからどうか、いつまでも傍にいさせてください。私を残して消えてしまわないで下さい。共に逝くことを許して下さい。
あなたが命の音を止める瞬間に、誰かが私を消してくれればいい。
私と離れるくらいなら、自ら消えてしまおうと刃を抱いた少女の気持ちが、今なら少し分かる気がするのです。
他の連載で手が回らないので、このシリーズはいったんここで完結とさせて頂きます。お付き合いありがとうございました<(__)>




