第86話 レックスとフリアエ
「よもやあそこまできて、鱗を奪われるとはッ!!」
泥水を滴らせながら、紫の騎士がそう毒づいた。
アレクセイによって沼地へと激しく吹き飛ばされたこの男は、何事もなかったかのように陸地へと戻ってきた。裂帛の気合の込められた≪盾押し≫をくらえば、普通であれば全身の骨が砕かれていてもいいはずである。だが騎士の身体には傷一つ見られない。但しそのプライドはいたく傷つけられたようであるが。
「ま、まさか白竜を使って逃げるとは思わなかったもので……」
紫の騎士の言葉に怯えるように、レックスがそのように弁明する。だが騎士は使えぬ協力者を一瞥すると、せせら笑うように鼻を鳴らした。
「無能めが」
これにはレックスも頭にきたらしい。表情を歪めるとしばし騎士を睨みつけていたが、思い出したように顎を掻いた。
「はっ!大きな口を叩いておきながら、何度も沼にぶち込まれたのはどっちかね。俺が無能なら、あんたも似たようなもんだろうさ」
「貴様……」
さきほどまでと態度を一変させたレックスに、紫の騎士は唸りながら向き直った。レックスは恐怖に身を引きつつも、意外にもその目には挑むような光が残っている。
「おっと!俺をぶっ殺す前に、これからどうするか考えた方がいいぜ?手ぶらで帰ったら怒られるのは、お客人も一緒だろう?」
「……」
へらへらと笑いながら言うレックスの言葉に、紫の騎士が反論を述べることはない。神竜の鱗は依然奪われたままであり、計画の一端を知った連中もいまだに生きている。深手を負った女騎士は死んだだろうが、息絶える前に他の人間に話を伝えた可能性はある。
特にあの黒騎士はかなりの手練れであった。此度の任務にて集められた冒険者たちは、鱗奪還作戦のための使い捨て兼デーモン化の生贄であった。実験の意味も兼ねていたため無作為に集められたはずだが、それにしては腕が立ちすぎる。≪ヴァート湿原≫に訪れる冒険者としては破格の強さであった。
「あるいは、どこかで計画が漏れたか……?」
そう零す紫の騎士の呟きを、レックスが聞き咎めることはない。彼は首を切り落とされ倒れ伏す多頭竜のもとにいたからだ。
「まさか俺の生きているうちに、こいつの死体を拝めるとはね。それともひょっとして、そんなに強くなかったのか?」
レックスはそう言いながら多頭竜の躯を足蹴にしている。仮にも自らが育った街の迷宮の主だというのに、そこに尊敬や畏怖の念は見られない。半笑いで多頭竜の死体を弄び続けるレックスに、紫の騎士は歪んだものを見た。が、それを口に出すこともない。この男がどうしようもなく小物であることなど、初めから分かりきったことだからだ。
そのとき男は、レックスの前の死体から微かな魔力の波動を感じた。
「む?これはもしや……」
そう言ってレックスを押しのけると、多頭竜の体に魔剣を突き立てた。そして死体を切り開くと、その切り口に躊躇なく腕を突っ込んだ。
「お、おいあんた。何して……」
「喜べ。我々はまだツいているようだぞ?」
死体から引き抜かれた紫の騎士の手は、子どもの頭ほどもある巨大な魔石を掴んでいた。
「で、デケェ!こんなデカい魔石なんて、見たことがないぜ」
迷宮に住まう魔物は全て、魔力が結晶化した魔石をその身に持つ。迷宮主ともなればそれは大きな魔石を持つものだが、この主のものは特に巨大なようだ。
考えてみれば先ほどの戦いでは、魔物から悠長に魔石を採取する暇などあろうはずがない。両陣営が奪い合っていたのは神竜の鱗であり、迷宮主の魔石ではない。女騎士が多頭竜を動員してくるとは予想外だったが、それを一介の冒険者が倒したのも予想外である。多頭竜相手では、三つ目のデーモンが数体ばかりでは厳しかろう。デーモンは強力だが、何事にも相性というものがあるのだ。
「そういえば些か戦力が減っているな」
紫の騎士は魔石を手にしながら、周囲を見回した。雑兵であるレッサーデーモンが目減りしたのはいいとして、四体召喚されたはずの三つ目のデーモンが一体足りない。確かめてみれば、木々の向こうに杖を持ったデーモンが息絶えているのが確認できた。恐らくはあの騎士に敗れたのだろう。四肢があらぬ方向へと捻じ曲がっている。
「で?これからどうすんだ?」
丁寧な口調をすっかり止めてしまったレックスが、口の端を歪ませながら問うてくる。鱗の行方は知れぬが、手配されている白竜に乗ってこの迷宮を抜けることはできないだろう。それに迷宮の入り口には網も張ってある。とすれば事はまだ迷宮内で間に合う。
紫の騎士はゆっくりとレックスの方へと向き直った。
「喜べ、人間よ。私がお前に力と機会を与えてやろう」
誰にも見えぬその兜の下で、男はレックス以上の酷薄な笑みを浮かべていた。
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「え、首が……?」
「首だけではないぞ。私に肉の身体は存在しない。さまよう鎧だからな」
呆気にとられるフリアエに、アレクセイは右手に巻いていた布を解くと、その先を見せてやった。そこには本来あるべき手首も、それどころか傷口すら見当たらなかった。見えるのは空虚な籠手の内側だけだ。神竜の鱗に弾き飛ばされた右手の先は、逃げる際にそのまま置いてきてしまっていた。
フリアエは目を丸くしているが、不思議とそこに恐怖の表情は見られない。そんな彼女に、今度はソフィーリアが手を伸ばした。
「夫だけではありません。その妻たる私、ソフィーリアもまた人ではないのです」
なよやかなソフィーリアの指が、フリアエの肩をすり抜ける。再び驚く彼女はその手首を掴もうとしたが、やはりその手は空を切るのみである。
「こ、これは……」
「我々は定命ならざる存在、アンデットなのだ。無論心は、人のつもりだがな」
アレクセイはそう説明すると兜を被り直した。しばし放心していたフリアエであったが、やがて何かに納得したように何度も頷いた。
「り、理解はしきれませんが、納得はできました。鱗に反応してその身体が燃えていたのも、そのせいだったのですね」
怖がるそぶりも見せないフリアエに、アレクセイは内心で安堵していた。自らの正体を他人に明かすのは初めてである。
民の守護者たる帝国騎士のフリアエが、魔性の存在であるアレクセイたちを敵視しないというのはありがたいことだった。当然、妹のフェリシアによく似た彼女に嫌われたくはないという想いが一番強い。
アレクセイとソフィーリアがそれぞれ胸を撫で下ろしていると、今度はフリアエの方から驚くようなことを告げてきた。
「アレクセイにソフィーリア……もしかしてお二人は、あの"竜狩り"と"白竜の聖女"様なのでしょうか?」
なぜか居住まいを正して窺うようにこちらを見つめるフリアエに、アレクセイはうまく言葉を返せない。よもや自分たち以外の口から、かつての字名が出てこようと思いもしなかった。
「わ、私たちのことを知っているのですか……?」
つんのめるように身を寄せてソフィーリアがそう問いかけると、フリアエは遠慮がちに頷いた。
「は、はい。ご先祖様の日記に、そのような名がありました。北の地ヴォルデンいちの勇者、竜を狩る者、大盾のアレクセイ。そしてその伴侶、炎神ゾーラの生まれ変わり、聖炎の戦乙女ソフィーリア、と。そしてその二人は、私のご先祖様の血族であるとも……」
ここまでついぞ聞くことのなかった故郷と、信ずる神と、自分たちの名。それらが立て続けに出てきたことで、アレクセイは不思議な心持ちになっていた。例えるならば久方ぶりに会った友のような、あるいは待ち続けた料理がやっと来た時のようなものか。
(いや、この感情を言葉では言い表せまい)
だがそれがとても喜びに近いものであることだけは確かだ。ソフィーリアが感極まったようにこちらの手を握ってくる。いまだ亡き息子の詳細が分かったわけでもないが、しかし大きな一歩であることは事実だ。故郷は、ヴォルデンは確かにそこにあったのだ。
そんな夫婦の様子とは反対に、フリアエは思いつめた表情をしている。そしてそれをアレクセイらが問う前に、彼女の方からその胸の内を明らかにしてきた。
「貴方がたは、私たち子孫を誅するべく、この世に舞い戻られたのですか?」
どこか許しを請うようなその瞳に、アレクセイは彼女の想いを理解した。
鱗を売ったのも、悪事に利用しようとしたのも、それを守れなかったのもみなヴォルデンの血を引く者たちなのだ。そして張本人のフリアエ自身が、アレクセイの血に近しい存在でもある。こちらの人となりや逸話を知っていれば、彼女がそのように考えたのも納得がいく。
「いや、それは違うのだフリアエ。此度の件と、我らが不死となったことは関係がない。我らはまた別の目的で故郷の言い伝えを探していた。その途中で、君たちに行き当たっただけに過ぎない」
そうしてアレクセイは自分たちの目的をフリアエに話した。息子ウィルと、故郷ヴォルデンの行方を探していること。その中でこの街へと行きつき、リーデルと知り合ったこと。名士の娘であるフリアエならば、街の古い記録に心当たりがあるかもしれないと彼女から聞かされたことなどだ。
「それにフェリシアの血がこうして残っていることが、私には何よりも嬉しい。街の人間たちはともかく、正義を貫こうとした君は立派だ」
アレクセイが肩に手を置いてそう言うと、フリアエは少しだけ嬉しそうに頬を緩めた。だがすぐに目を伏せると、彼女は懇願するように深く首を垂れた。
「アレクセイ様、どうかお願いがあります。騎士レックスを、我が兄をお止めください」
「……あの男が兄というのは、私の聞き間違いではなかったか」
震える彼女の頭を見下ろしながら、アレクセイは嘆息した。フリアエがレックスの剣に貫かれた際、彼女はあの男を兄と呼んだ。ただの同僚ではないと思っていたが、よもや肉親だとは思わなかった。銀髪に紫の瞳と、確かにレックスもヴォルデンの血が色濃く出た容姿をしている。そして彼女らが兄妹であるということは、あの卑小な男もまたフェリシアの子孫ということになる。
アレクセイはフリアエの前に膝を突くと、上げられた彼女の瞳を見ながら静かに告げた。
「無論我々とて、鱗を取り戻したからといって奴等を野放しにしておくつもりはない。相手の正体が何にせよ、魔王の復活などを目論む者たちを捨て置くことはできぬ。そしてお前の兄がそれらに加担している以上、斬って捨てることもあるだろう」
「もとより、そのつもりでお願いしています」
悲し気ながらも強い光を湛えた彼女の瞳の奥に、アレクセイは強い決意を見た。あるいは、初めからそのつもりでレックスとの対決に臨んでいたのかもしれない。
「兄は道を踏み外し過ぎたんです。人をデーモンに変えて、あまつさえ魔王の復活に手を貸すなんて……私は伯爵の狙いを調べていく中で、兄が数多くの非道な行いに手を染めてきたのかも知りました。鱗を手に入れる前からも、たくさん……」
そうしてレックスは伯爵の命を受けて、あるいは自らの意思で様々な悪事に手を出していた。同じ主に仕えていながら、そんな肉親の様子にまるで気が付かなかったことを彼女は悔いているようだった。
「騎士として、あるまじき行いであるな」
仮にも同じ"騎士"として、アレクセイはレックスの在り様を認めるわけにはいかない。
「仰る通りです。ですが、兄も初めからそうであったわけではないんです。騎士学校に進んでから、彼は少しずつおかしくなっていきました。確かにあそこは、あまりいい場所ではありませんでしたが……」
「ふむ。ということは君もそこで騎士となったのか。君は兄を追って同じ道を選んだのか?」
アレクセイの言葉に、フリアエは照れ臭そうに微笑みながら首を振った。
「いいえ。私はその、幼い頃に貴方がたの話を読んで、騎士になりたいと思ったんです。みんなを守れるような人になりたくて……でも騎士となったのは間違いだったのかもしれません」
彼女の意外な言葉にアレクセイは面食らう。と同時に、バルダーの人々のことがアレクセイの脳裏に浮かんだ。迷宮から得られる富を欲し、街の神器さえ売り払う人々。彼らを想い騎士となった娘が罪人となっても、庇い立てする者などほとんどいなかった。あまつさえ彼女に掛けられた賞金すら求めていたと、リーデルが憤っていたのをアレクセイは覚えている。
そして血を分けた兄妹が、悪の道へと堕ちていったのだ。彼女の失望はいかばかりであろうか。
アレクセイはその場から立ち上がると、レックスたちがいるであろう森の向こうを見据えた。≪生命探知≫をもってしてもその反応は窺えないが、アレクセイには分かる。敵はいまだこの迷宮におり、神竜の鱗を諦めてはいないだろう。このままでは彼女は、一生追われ続けることになる。
なればこそここはアレクセイが、騎士として、兄としての姿を見せてやらねばなるまい。
「フリアエ、君の行く道は、私が切り開いてみせよう」
そうしてアレクセイは、彼女の兄たちがいる方へ向けて歩き出した。
フリアエ相手だと「〇〇君」ってつけるのを忘れちゃうアレクセイさん。
妹そっくりだからね。仕方ないね。




