第65話 戦士の道
四章の開始です。
よろしくお願いします。
東部州を流れる大河のほとり。
そこでアレクセイは、剣を手に立ち尽くしていた。珍しく愛用の大盾は持たず、マクロイフの大剣を両手で握り、正眼の位置に構えている。
(この河の如く、澄んだ瞳をしているな、ソフィーリアよ)
目の前の相手の目を見て、アレクセイはふとそんなことを考えた。アレクセイの前には、単槍を凛々しく構える妻のソフィーリアの姿があった。
十五、六の娘の姿をしているが、その構えの隙の無さは本来の長身の身体のときと変わっていない。むしろ身長差が広がった分、アレクセイとしては些かやりにくさすら感じられた。手足が短くなったためリーチの差は大きくなっただろうが、むしろ素早さは上がったくらいだろう。
もっとも≪闇霊≫たる彼女に、現実の物理法則は無意味であろうが。
アレクセイがそんなことを考えていると、不意にソフィーリアの姿が掻き消えた。目にも止まらぬスピードで地を蹴ったのである。だが多少の考え事をしていても、それを見落とすアレクセイではない。
一気に距離を詰めた彼女が放った鋭い突きこみを、僅かに剣を当てて逸らすことで回避する。
霊体のため肉の身体を持たないソフィーリアであるが、攻撃をする瞬間だけは限定的に実体化するのである。そこを逃さず剣を重ねることで、アレクセイは次々と繰り出される彼女の攻撃を全ていなしてみせた。
巨体であるがゆえに、アレクセイの動きの一つ一つはどうしても大きくなってしまう。それは大陸有数の巨躯を誇るヴォルデン人である以上、仕方のないことである。なのでアレクセイは動きを最小限に抑え、かつ効率的に身体を動かすことでこれに対応してみせたのだ。
これは生前、アレクセイが≪さまよう鎧≫となる以前の騎士時代に体得した戦い方である。
するとそんなアレクセイとは対照的に、流れるように槍を振るっていたソフィーリアの姿が、再び掻き消えた。
更に動きのスピードを上げた、というわけではない。一瞬にしてその場から消え去ったのである。姿はおろか、気配も感じない。
(後ろ、いや、上か!)
歴戦の騎士であるアレクセイが、ある種の勘でそう看破したその瞬間、まさに自身の真上から彼女の槍が降ってきた。
「ぬぅん!」
天から落ちる稲妻の如き速さで繰り出された一撃を、アレクセイは咄嗟にスキル≪強固な身体≫を使って防いでみせた。一時的に実体化した槍の穂先がアレクセイの脳天に当たると、硬質な音を響かせて大きく弾かれた。
銀色の槍がくるくると放物線を描いて宙を飛んでいく。その先に突如としてソフィーリアの姿が現れると、飛んできた槍をその手で掴んで着地した。
どうやら彼女は≪闇霊≫の特殊能力のひとつである≪転移≫にて空中に移動し、眼下に槍を投げ放ったらしい。
「ほう!君の手を離れても消えることがなくなったのか、ソフィーリアよ!」
アレクセイは文字通り妻の”離れ業”を称賛してみせた。
霊体である彼女は、現実の理とは別のところにいる。彼女が銀の鎧を身に着け槍を持っていても、それはソフィーリアの意識下にあるものであって、現実にそこに存在しているものではない。
だから彼女は自由に槍を出し入れできるし、槍から手を離せばそれは地面に落ちるではなく宙に消えてしまう。
むろん意識すればその限りではないのだが、手足と同じように無意識に認識しているものの存在を、自らの中で切り替えるのは難しい。下手をすれば、自分の存在そのものが揺らいでしまうからである。
だが先のソフィーリアの一撃はそれを可能なものにしてみせたのだ。この理屈で言えば、彼女は愛槍を今まで以上に自由にコントロールできるということになる。例えば、こんな風にだ。
「では、今度はこのようなのはどうでしょう?」
少しばかり悪戯っぽくソフィーリアは微笑むと、不意に槍を放って見せた。アレクセイに向けて投げたのではない、宙に放りだしたのだ。
槍はまるで本当にそこにあるかの如く、地面へとゆっくり落下する。そして地に付くかいなかのところでソフィーリアが人差し指を立てると、いきなりアレクセイ目掛けて飛び込んできたのである。
意表を突かれたアレクセイではあったが、しかし動じることはない。先ほどと同じように≪強固な身体≫を発動させると、槍を弾き飛ばした。
ソフィーリアもまた慌てることはない。空中に文字を描くように人差し指を振ると、その動きに従って槍が飛び回り始めたのである。そうして彼女は己が武器に触れることなく、再び連撃を繰り出してきた。
(しかもこれらは、ソフィーリア自身が振るうのと遜色ない攻撃だな)
スキルのおかげで痛痒は全くなかったが、ひとつひとつの技が必殺の威力を持っていた。しかも槍のみが動き回っているため動きが読みにくい。全身を隙間なく闘気で覆う≪強固な身体≫だからこそ、全方位の攻撃を防御できるのである。
「どれ、こちらもひとつ試してみるか」
ソフィーリアの攻撃を全身で受け流しながら、アレクセイは一歩を踏み出した。
サルビアンのスキル教官であるアネッサ曰く、≪強固な身体≫のスキルは高い防御力を使用者に与える代わりに、動きを阻害するというデメリットがあるのだそうだ。それは近接攻撃を主体とする戦士には不利な要因であり、ゆえにほとんどの戦士はこれを攻撃時と防御時で完全に使い分けるのだという。
いかに素早くこのスキルを切り替えできるかが、よりよい冒険者の戦士になるための胆だと聞いていた。
(ならば私はあえてそれに挑戦してみせよう)
アレクセイはスキルを維持しながら、放たれた矢の如き速さでソフィーリアへと斬り込んだ。アレクセイが両手で振るう凄まじい威力の剣戟が彼女を襲うが、相手もさるものでそれら全てをひらりひらりと躱していく。
「やはり、常より速さは落ちるか」
「そのようですね」
剣を振るいながら思案するアレクセイに、踊るように回避を続けるソフィーリアが答える。
こうして動いていると、身体の表面に分厚い膜が張ってあるような感じがするのだ。その異物感が、アレクセイの本来の動きを遅めているようだ。
(ふむ……だが盾を構えずとも鉄壁の防御を維持しながら戦えるというのは、悪くない)
感覚としては戦技の≪打ち砕く者≫を使用している感じに近い。あれは自身の力と防御を飛躍的に増大させる技だが、ヴォルデン重騎士団の奥義のひとつなだけあって消耗も大きい。
アンデットの身になってそのような生者特有の疲労とは無縁になったが、己を律する意味でもあれの多用は控えた方がよいだろう。あれを使うと、精神まで無駄に高揚するからである。
「血と戦いに溺れることなく、一定の効果が上げられるというのは使い勝手がよいな」
アレクセイたちがこうして暇を見つけて鍛錬に勤しんでいるのにはわけがあった。
先の地下墳墓の騒動の際、折角教えてもらったスキルを戦いで有効に使えなかったことが、心残りであったのだ。もちろん素のままでも問題なく戦えたのだが、新しい技を実戦に組み込めなかったことは、アレクセイにしてみれば怠慢に思えた。
(かつて王の四騎士となり、今は不死の身となった。だが、己が最強の戦士であったことはないはずだ)
アンデットになりここまで旅を続けてきて、いくつかの騒動に見舞われた。その中で慢心せぬよう事あるごとに己を律してきたつもりだが、精進を重ねたかと言えば必ずしもそうとは言えないだろう。
「死してなおこうして動けるのだ。己が可能性をもっと見つけていきたいと、私は思う」
そのようなアレクセイの提案から、ソフィーリアとの稽古を始めたのである。
彼女もまた≪闇霊≫としての新たな戦い方を模索しているようである。戦士としては闇の力に溺れることなく腕を磨き、聖職者としては神の力にその身を焼かれることを恐れずその威光を正面から受け入れる。それが今の彼女なりの、身の振り方であるようだった。
「まだまだ私は強くなるぞ、ソフィーリアよ!」
「ええ!私も、また炎の如く生きられることを、嬉しく思いますわ!」
そう答えるソフィーリアの顔は、楽しそうに笑っている、おそらく自分もそうであろう。アレクセイには肉の身体などないが、きっと自分の魂は笑っているだろうと思えた。
「とはいえお二人とも、これはやりすぎです!」
珍しく眉を逆立てて怒るエルサを前に、アレクセイは妻と並んで小さくなるしかなかった。
「ごめんなさい、つい興に乗ってしまって……」
しょんぼりと肩を落として、ソフィーリアがうなだれた。
アレクセイたちが稽古をしていた河原が、見るも無残に荒れ果てていたからである。地面のいたるところが大きく抉れており、もともと河原に合った石や岩などは粉々に砕けている。ソフィーリアが用いた炎の奇跡の影響で炭化している草むらもあり、辺りはまるで竜でも襲ってきたかのような惨状であった。
慢心せず、己を律するとは何だったのか。やはり戦士の道は、まだまだ深いと見える。
「無念だ。戦いの中で、戦いを忘れるとは……」
「冗談は聞いてません!」
「う、うむ」
いつになく語気の強いエルサに、思わずアレクセイもたじろいでしまう。
「アレクセイさんたちは目立たないように旅をしたいんじゃないんですか?修行は結構ですけど、もう少し控えていただかないと」
彼女の言うことはごもっともである。
「それに、ミューさんに悪い影響が出てしまったらどうするんですか!」
そう言ってエルサは傍らの球体にひしっとしがみついた。何を隠そう、≪アガディン大墳墓≫から付いてきた幽霊スライムであった。
「あぁっ、そうでした!確かに、あまり乱暴な所をミューちゃんに見せるのはよくないやもしれません!」
「おいおい……」
妻までそのようなことを言い出して、アレクセイは苦笑した。
"ミュー"とは、件の幽霊スライムの名前である。
この魔物を一行に加えてからしばらくは、名前をどうするかでエルサとソフィーリアが揉めていた。結果として、このスライムがこうなる原因から名前を貰うことに落ち着いた。といってもそのまま貰うのはなんなので、幽霊姉妹の名前から少しずつとって"ミユ"となったのである。そしてそのままではあまりに人間的すぎるので、少しもじって"ミュー"となったのだ。
アレクセイとしては妻が上げていた"スーちゃん"とさして変わらないのではないかと思ったのだが、ようやく終戦を迎えた二人の間に無用な争いを再燃させるつもりはなかったので、言わぬことにした。
そのような経緯から、エルサとソフィーリアはスライムのミューをいたく可愛がっていたのである。もともと霊狼のネッドを使役しているエルサは魔物を傍に置くことに抵抗がなかったようだし、ソフィーリアも実は生前からペットが欲しかったらしく、この水玉をかなり気に入っている様子であった。
ちなみにミューは、河原で戦うアレクセイたちの様子をじっと見ていたのだ。普段はこうしてスライムそのものの丸い姿を取っているが、先ほどなどは人の姿に変身していた。スライムに憑依していたのが人間の少女戦士の霊であったため、その姿もどことなく戦士風の見た目なのである。もしかしたらアレクセイたちのような戦い方に興味があるのかもしれない。
「でもこんなぷにぷにした可愛らしい子をいくさ場に出すなど、私にはとても……」
「そうですね。でもミューさんが戦士になりたいというのなら、私にはそれを止めることなどできません……」
ソフィーリアはまるで我が子を可愛がるかのようにスライムに頬ずりしている。エルサもなぜか悩まし気な様子だ。
アレクセイとしては戦闘のためにスライムを連れてきたつもりではないし、また戦力的にもその必要はない。食事などの日常の場で活躍してもらえればそれでよいのだが。
だが少女二人はスライムの育成方針であれこれと話を続けている。
「う、うむ。それでは私はミューの餌でも獲ってくるとするかな」
アレクセイはおもむろにそう言うと、速やかにその場を離れることにした。スライムを挟んで語り合う少女二人の話が盛り上がってきたからだ。こうなると女性の話は長い。それは五百年前も今も変わらないだろう。
そうしてアレクセイはひとり、河沿いを歩き始めた。
「釣り竿などないが、まぁ衝撃波をぶち当てれば何匹かは浮いてくるだろう」
川幅は広く、この分なら魚もそれなりにいることだろう。そんなことを口走って剣を抜こうと柄に手をかけた、そのときのことである。
アレクセイは奇妙な違和感を感じて、ピタリと動きを止めることになった。
(……何か、いるな)
それもかなり近い。
ここまで近づかなければ気配に気が付かないとは、ただ事ではない。アレクセイは剣にかけた手をそのままに、足音を殺して気配の主の方へと進んでいった。アレクセイほどであれば、重厚な鎧を来ていようともある程度の隠密はこなせるものだ。
日はまだ高いが、賊が出ないとも限らない。あるいは魔物の可能性もある。
アレクセイはやがて大きな岩が散乱する川岸へと近づいていった。どうやら相手はこの先の大岩の向こうにいるようである。
(ここまで接近してもなお気配が読み切れないとは、ただの人ということはあるまい)
同時に肌がピリピリと焼け付くような感じがする。鎧の表面ではなく、その内側、つまりアレクセイの魂に影響しているようだ。
アレクセイは意を決して大岩を越えると、その先にいる相手に呼びかけた。
「おい、そこにいるのは何者だ……む」
「えっ!?」
目の前の光景に、アレクセイは思わず動きを止めてしまった。
そこにいたのが、一糸まとわぬ銀髪の娘であったからである。水浴びをしていたらしく、膝から下を川の水に入れたまま、突如現れた巨漢の黒騎士に驚き固まっている。
だがもちろん、アレクセイは娘の裸を見たから動きを止めたわけではない。
アレクセイの視線はただ一点、娘の面相に釘付けとなっていた。
そこにいたのは五百年前にとっくに死んでいるはずの、アレクセイの妹そっくりの娘であったからである。




