第61話 消えゆく姉妹たち
「お疲れさまでした、あなた」
「うむ」
剣を下ろしたアレクセイの元へ、ソフィーリアがやって来る。彼女の労りの言葉に、アレクセイは頷くと「君もな」と穏やかに返した。
迷宮主の間に満ちていた邪気は、今や綺麗さっぱりと消え去っていた。
そしてまた、アレクセイが解き放った明星の剣の光によって、既にこの空間に魔物の影はない。呪いのようにマユの背後にへばりついていた老人や、周囲を囲んでいた低級アンデットの群れも、浄化の光によってその姿を消している。
苦し気な顔で呻いていた冒険者たちの怨霊も、最後はみな安らかに逝ったことだろう。光をその身に受けた時の彼女らの表情を見れば、それは確かめる必要もないことに思われた。
「マユさん……」
横たわるマユと佇むミオの傍へ、エルサが寄っていく。
聖なる光を受けてなお、しかしマユの姿はまだここにあった。だが彼女から邪悪な気配は感じられない。
不思議とマユの格好は綺麗なものとなっており、胸に空いていた無残な大穴も消え失せている。その頬にはいっそ健康的にすら想える朱色すら見えて、知らぬ者が見れば只の人間が眠っているだけに見えることだろう。
無論、そうではない。
"明星の剣"は魔なるものを治める宥魔の剣ではあっても、死者を蘇らせるような神器ではないのだ。やがて、眠っていたように見えていたマユがその瞼を開く
「……なんか、随分と迷惑かけちゃったわね」
目を覚ましたマユは、目の前のミオではなくエルサたちの方を見やると、開口一番にそう言った。声音は弱弱しくとも、その表情にはちっとも申し訳なさそうな感じは見られない。そんな不遜にも見える態度こそ、彼女らしいものと言えるだろう。
アレクセイたちは決して、マユとの付き合いが深いわけではない。体感としては、一日も経ってはいないのではないだろうか。それでもアレクセイは、彼女の素直ではない、がしかし直情的な気質を好ましく感じていた。それはどこか、アレクセイたちヴォルデン人に通ずるものであるように思えるからだ。
共に過ごした時間は短くとも、ひとたび同じ戦場に立てば相手の性根は自ずと知れるものだ。
だから表情には出さずとも、マユが心の底では深く詫びていることが分かった。
なのでアレクセイもまた、深刻にはならぬよう、至ってなんでもないことのように言葉を返すことにした。
「いやなに、君の火球はなかなかのものであったぞ。私もこの大盾がなかったら、流石に危なかったことだろう」
アレクセイにしては珍しい、といっても目の前の少女はそんなことは知らぬだろうが、巨漢の騎士が言った冗談に目を瞬かせている。そして驚きを現すように一拍の間を置いてから、ふぅと息を吐き出した。
「ゴーレムとかあの爺の魔法を受けてもピンピンしてた奴が、何言ってんのよ、バカ……でも、ありがと」
アレクセイが肩をすくめて見せると、マユは微かに笑って視線をエルサへと移した。
「アンタもゴメンね、こんなことに巻き込んで。それにアンタはアタシを救おうとしてくれていたのに」
「……聞こえていたんですか?」
横たわるマユを前に俯いていたエルサが、少しばかり顔を上げた。後ろに立つアレクセイからは、その表情を伺い知ることはできない。マユはエルサの問いかけに小さく頷くと、先ほどまで傷があった胸の辺りを押さえた。
「聞こえてたよ、全部。アンタはアタシを、もっと安らかなところに連れて行ってくれようとしてたんでしょ?でもあの時は、そんな言葉なんて耳に入らなかった。ここが痛くて、苦しくて、でも傷よりも胸の奥の方が一番痛かったんだ。ミオが……妹が死んでいたことが悲しくて悲しくて、それ以上にどうしようもないほど腹立たしかった。それが何についてなのかは、わかんないけどさ」
アレクセイたちがここへたどり着くまでに、何がしかの事があったのだろう。エルサもまたマユが死者であることに気づいて、それを救おうとしたのだろうか。
(この少女ならば、そうするであろうな)
エルサの小さな背中を見下ろしながら、アレクセイは内心で呟いた。時として手段を選ばぬ非情さを持ちながら、生来の優しさと若さ故の正義感を併せ持つ少女なのだ。あるいはそれは、自身の妻にも通ずる資質かもしれない。
アレクセイが視線を横へと移すと、ソフィーリアもまた穏やかな瞳で少女たちを見つめていた。
「ごめんなさい。私に力があれば……」
エルサが力なくそう零したが、マユは大きく首を横に振った。
「ううん、これでも十分よ。たくさんの娘たちを酷い目に合わせちゃったアタシが、こんな最期でいいのかなってくらい。後で神様にいっぱい怒られなきゃね?」
マユはそう茶化してソフィーリアに目を向ける。彼女はまさしく聖母のような微笑みを携えて、優しくマユに答えた。
「その気持ちを忘れなければ、神は貴方を見捨てたりはしませんわ」
「ありがと、奥さん……そんで、やっと会えたね、ミオ」
そして遂にマユがスライムの少女を見やって、その名を呼んだ。
(やはりこの少女が、探していた妹であったか)
アレクセイはそう思ったが、もちろん声に出すことはない。少女たちの邂逅を邪魔する気はないし、詳しい話は後でソフィーリアにでも聞けばいいだろう。それに、残る時間もそう多くはないはずだ。
スライムの少女、マユの妹であるミオは、先ほどからじっと姉の顔を見下ろしている。そこに表情らしい表情は見られず、たとえ人間の姿を取っていてもアレクセイにはやはり人外としか思えない。
すると、にわかにミオの身体が仄かに輝き始めたのである。
アレクセイたちが驚きに目を見張っていると、その青色の半透明の身体から、一人の少女が進み出てきたのだ。それは、茶色の髪を馬の尻尾のように後ろで束ね、粗末な剣と小楯を持った冒険者の少女であった。
その恰好に目鼻立ちは、まさしくスライムのときと全く同じものであった。但しその頬は健康的な朱に染まり、来ている革鎧の細部までハッキリと分かる。
あたかも蛹が成虫へと変わるときのようだ、とアレクセイは思った。あるいは、真っ青な湖面から少女が現れたようにも見える。これがミオなる少女の、本当の姿なのだろう。
「お姉ちゃん……」
「ミオ……」
その姿を見つめるマユの顔が、ぐにゃりと歪む。綺麗に揃えられた眉がぐっと寄せられ、堪えかねたようにその瞳から涙が溢れ出た。
「やっと見つけた。やっと会えた……!」
「ずっと、ずっと見てたよ、お姉ちゃん」
ミオは姉の横に屈みこむと、その頬に手を当てて涙を拭き取ろうとする。しかしマユの頬を濡らす水は溢れ続けるばかりだ。やがてミオはマユの背中に腕を回すと、その半身を起こさせた。そうしてマユはミオの胸に顔を埋めると、そこで涙と声を漏らし続けた。
妹であるミオは、泣きじゃくる姉を優しく見下ろしている。こうして見れば二人とも小柄ながら、ミオの方がいくぶんしっかりとした身体つきをしている。恰好から見てかつては戦士であったのだろうが、それでも姉妹らしくその横顔はよく似ていた。
やがてマユが顔を上げた。その頬はいまだじっとりと湿ってはいたが、アレクセイたちの視線を感じたのか、怒ったような顔でぐしぐしと手で擦っている。マユは妹の手を借りて立ち上がる。そうして隣に並んだミオの手を離さぬまま、アレクセイたちの方へと向き直った。
「……いっぱい話したいことがあるけど、そろそろ時間みたい」
いまだ気恥ずかしいのか、マユは乱れてしまった前髪を弄りながらそう言った。
霊とは本来、この世界にいるべき存在ではない。死した者の魂はすべからく天へと昇り、神の御許へと送られる。信ずる神が違えども、彼らが住まう国は同じなのだ。少なくともゾーラ教ではそのように説いていたし、またアレクセイもそのように信じている。
だからいずれは、自分たちも再びマユたちに会うことになるのだろう。五百年前の人間にして、神の意に背くアンデットであるアレクセイとソフィーリアも、本当はここにいるべきではないのだ。次にマユたちに再会するときは、真の姿へと戻ったソフィーリアと共に、兜の下の顔を見せてやりたいと思う。
マユの言葉を合図にしたように、彼女の身体が足元から黄金の粒子へと変わっていく。それはミオもまた同じであった。彼女は穏やかな顔を、スライムへと向けた。
件の幽霊スライムはなぜか、ミオの魂が抜けてなお人の形を保っている。
「キミも、長い間不自由にさせてゴメンね?そしてありがとう、私を食べてくれて。あの日記を、食べないでくれて」
「……」
当然ながら、幽霊スライムは喋らない。ミオに似た形をとっていたとしても、スライムである以上目玉などないはずで、そこに魂などないはずだ。だがアレクセイにはスライムが、親愛の気持ちでもって姉妹を見つめているように思えた。
そして不意に、スライムがゆっくりと手を上げた。腕を胸の高さまで上げると、ミオたちに向けて小さく振ってみせたのである。
「ほう!?」
後ろの方で、カインが興味を示したような声を上げる。ここまで随分と大人しくしていたようだが、流石にこの場ではよろしくない。ちらと視界の端に捉えてみれば、アネッサがカインを抑えてくれているようだ。
スライムの行動に驚きを覚えたのは、当のミオも同じであったらしい。目を丸くしていたが、少女らしくニコリと笑うと「私を食べたのがキミでよかった」と呟いた。
そうこうしている内に、光の粒子はすでに姉妹らの胸元にまで達してきている。残された時間はもういくらもないだろう。するとマユがアレクセイの向こう、後ろでアネッサと揉み合うカインへと声を掛けた。
「あんたにも、一応礼を言っておくわ!」
またもアネッサを引きずりながら幽霊スライムへと迫っていたカインは、はたと動きを止めるとその声の主の方へ頭を巡らせた。
「いやいや、まぁ面白い経験ができたので礼は不要だよ。僕としては、是非とも君ら姉妹に僕の研究を手伝って欲しいと思うんだけどねぇ?」
「お・こ・と・わ・り・よ!!」
マユはここにきてようやっと彼女らしい顔を見せると、歯を見せて笑った。カインも眼鏡を押さえつつ、肩をすくめている。彼らもまた、短い時間ながらささやかな縁を結べたのだろう。
そしていよいよ、彼女らの身体が完全に消え去ろうとしていた。
「マユさん、ミオさん……さようなら」
一同を代表するように、エルサがそう述べた。
すると少女たちは姉妹らしい、よく似た笑顔を返してきたのであった。
「「ありがとう。さよなら!」」




