六、ささやかな幸福
《くだらない》
悩むエイジから相談を聞かされたアティファの、第一声がそれだった。
「くだらない、っすか」
エイジがなお不満そうに尋ね返すと、アティファは端正な顔を横向けて繰り返した。
《くだらない》《全くくだらない問いだ》《エイジ》
「どうして、その」
そのように思うのか、と続ける隙をアティファは与えなかった。
《理解の悪い男だな》《何度も言ってるはずだぞ》
《善と悪》《お前の中にはそれしかないのか?》
アティファはエイジのつむじ辺りに置いた手に力をこめた。
《善と悪》《単純な二元論》《何故それが真理だと思う?》
エイジは返す言葉に窮した。アティファは続けた。
《例えば太陽》《例えば水》《それが生命を育む時は善であり》《奪う時は悪となる》
《善の面もあれば悪の面もある》《正の面もあれば負の面もある》《それが人》《否》《全ての事象を形作る》《世界を構成する》《原則》《真理》
《お前も私も》《鳥もトカゲも》《砂も水も太陽も風も》《全てがその上に存在している》
《自分の中の悪性ばかりを見るな》《悩んでるお前は》《少なくとも善人だ》
照れのためか、アティファは乱暴にエイジの頭を撫でた。エイジは抵抗せずそれを受け入れた。深刻だったはずの彼の悩みは、最早彼の心を苛まなかった。罪の意識をこうも容易く忘れてしまった自分自身には呆れてしまったが、脳内に響くアティファの声は誰のどんな言葉よりエイジの心を救った。
「善でもあり、悪でもある」
つぶやいたエイジは頭の中にある図柄を想起した。真円の内を勾玉のような形で曲線が区切り、その曲線を境に白と黒で塗り分けられた二つ巴。黒い勾玉の中には小さな白い円が、白い方には黒い円が描かれており、両者は身を寄せ合うように相克している。
《何だ?》《これは?》
「インヨウタイキョクズって言って、ドウキョウ……ある宗教の、象徴みたいなものなんだけど」エイジは自信なさげに続けた。「万物は陰と陽、双方の要素を持っていて、この二つが程よく調和することで成り立ってる、とかなんとか」
《陰と陽》《影と光か》《黒い方が影で》《白い方が光か》
「そう、だったと思う」
《小さな円は?》
「あれは、陰の中の陽と、陽の中の陰、だったかな。影の中にも小さな光があって、光の中にも小さな影がある。そうやってその、どっちか一方に染まることなく、均衡を保ってる、みたいな意味だったような」
《興味深いな》《それについて》《もっと知りたい》
「俺も、あんまり詳しくはないけど」
《それはお前の頭に聞く》
アティファが目を閉じると、エイジの頭に載せられていた彼女の手が熱を持って微かに輝いた。
《集中しろ》《どこで見た?》《あの図柄を?》
エイジは目を閉じ、記憶を辿った。
「学校の授業……哲学……いや、史学……だった気が、するな」
教壇に立つ教師の顔を、エイジは思い出した。眼鏡をかけてて頭が薄い所は哲学概論の栗林先生と似ているけど、東洋史の中川先生は小太りで背が低く、そうだ、特徴的なだみ声だった。気さくで親しみやすい人柄の先生で、東洋史以外の科目でも何度かお世話になった覚えがある。
《哲学よりも理解が大雑把だな》《もっと詳しく覚えていただろう》《ジュンシとモウシは》
「あっちは試験に出るから必死で覚えたんだ。タイキョクズの由来やドウキョウとの関連なんて、普通基礎の科目では掘り下げない部分だから」
それなのにエイジはその授業のこと、陰陽太極図の構造などをよく覚えていた。中川先生の授業は本筋から脱線することがしばしばあった。エイジは面白おかしく無駄な話を聞かせてくれる彼の授業が、好きだったのだ。おかげで試験前はいつも苦労させられた。授業時間内に試験範囲を終わらせられないものだから、足りない部分を自主学習で補填しなければならなかった。きっと自身の授業のやり方に責任を感じていたのだと思う。落第ぎりぎりだった小論文に優をつけてくれたこともあった。先生が好みそうな主題を選んだためだけでは、なかったはずだ。
記憶が鮮明になると自然口数は減った。アティファはエイジの無意識に残っている記憶を映像として読み取る作業に集中していたし、エイジはそんな彼女の作業を邪魔しないよう思考をなるべく平板にする必要があった。
広い部屋に二人きり。それも互いの息がかかる程の至近距離だが、色っぽい雰囲気には決してならない。それがこの二年で築かれた二人の関係だった。
二人は対等の友人として良好な関係を築いていた。アティファはエイジの過去、取り分け日本での生活や思い出に深い関心を持っていた。エイジはエイジで、彼女に記憶を掘り返されることで自身すら忘れていた日本の景色を細部まで鮮明に思い出すことが出来て嬉しかった。ペペやボリスやヴァルター、隊の仲間の誰に話しても決して理解はされないエイジの生い立ちも、彼女だけは理解出来る、それが嬉しかったのだ。
心の内に強い恋慕を自覚しながらも、エイジは友人としての距離を決して越えようとしなかった。彼は好意を寄せる相手と一緒に過ごせるこの時間をこれ以上ない程の幸福に感じていた。彼女の興味が彼自身ではなく彼の記憶や思い出にのみ向いているとしても、彼女に必要とされている現状だけで十分満足だった。
故に、からかうヴァルターに向かって彼が返した言葉は決して強がりだけでもなかった。エイジはこれ以上距離を縮めることで今の良好な関係が壊れてしまうことを恐れてもいた。なんとも男気には欠けることだが、会って話せるだけでいいとは半ば以上が彼の本音だったのだ。
しかし、陰陽一対の太極図さながらに、彼の心の半分には現状維持を望まない積極的な情熱が確かに存在していた。
作業に没頭するアティファは両手でエイジの側頭をつかむとその額に自身の額を合わせた。彼女にまったく他意はないのだが、急な接近でエイジの胸は高鳴らずにいられなかった。若者らしい衝動は些細なきっかけで目を覚ます。今回の場合、それは鼻腔をくすぐる甘い香りだった。女性特有の華やかな匂いはエイジに白粉を思い起こさせた。目蓋の裏にちらつく悪戯な笑みは、彼が必死に抑えつけようとしている情熱に囁いた。
――案外お前のその女友達も、お前に口説かれんのを待ってるのかも知れねえや。
悪魔の誘惑に、エイジは思わず目を開けてしまった。いつもなら友人としての関係を保つために決して開けることはなかったはずなのに。
いけないと理解しつつも、エイジは再び目蓋を下ろすことが出来なかった。焦点も合わないほど近くに、彼女の存在を感じる。ゆっくりと視線を上げてみれば、互いの鼻先の間には指三本分の隙間もない。魅惑的な唇はエイジがほんの少し顔を前に出せば彼の唇と接してしまいそうだ。悪魔はなおも囁いた。
――試しに強く抱きしめて接吻の一つでもしてみろよ。
エイジは硬く握っていた拳を開いた。挙動不審な両の手は恐る恐るアティファの肩へと伸びる。釘付けの目は、その時彼女の唇が動くのを見た。
「接吻ならいらんぞ」
吐息混じりにエイジを解放したアティファは眉根を寄せて、静止する彼に告げた。
「集中しろ。お前の意識が乱れると上手く記憶を辿れない」
エイジは数拍視線と行き場をなくした両手をさ迷わせた後、
「で、すよね」と苦笑して両手を膝の上に戻した。
赤面をうつむかせるエイジの頭に手を置いて、アティファは何事もなかったかのように作業を再開した。が、エイジの方はそこまで冷静に振舞えなかった。徐々に徐々に頭を下げ、とうとう土下座するような形で顔を覆いながら、す、す、す、と呼気とも声とも知れぬ声を漏らし、
「すいませんでした」
言って部屋を飛び出してしまった。
アティファは眉根を寄せてその背中を見送った。制止の声くらいかけようと思っていたが、エイジの退出があまりにも早すぎて機を逃してしまった。廊下を駆ける足音が遠のくのに伴って、アティファの頭に耳慣れた声が響いた。
《どうしたのかしら》《あんなに慌てて》
《さてはまた》
アティファはすぐに開けっ放しの扉を閉めようと立ち上がった。しかし、軽い立ちくらみが彼女の体を重くする。手間取る内にたしなめるような声が彼女の名を呼んだ。
「アティファ」
アティファは顔をしかめて扉に背を向けた。声の主は開き戸に手をかけて顔を覗かせた。
「お客様が走って行ってしまったけれど、あなた、身に覚えがある?」
「知らん」
背を向けたまま答えるアティファは、脳内に愉快な感情の働きを聞いた。
《子供っぽい》「嘘ばっかり」《本当に可愛い》《こう言うところが》
いつもなら聞き流す言葉だったが、この日のアティファは少々気が立っていた。
「何の用だ、義姉上」
《まあ》《義姉上だなんて》《お義姉さまと》《呼んでくれていいのに》
兄の一番目の妻に当たるイビサムは、背けるアティファの顔を横から覗きこむように、回り込んで答えた。
「あなたの振る舞いが目に余るから忠告に来たのよ」
「要らん。出て行ってくれ。疲れている」
イビサムはこほんと小さく咳払いし、アティファの願いを無視して続けた。
「あまり殿方をからかうものではないわ。皆がみんなあなたのお兄様のように寛大ではないのよ」
アティファは一瞬出かかる悪態を何とか飲み込んで義姉を無理やり後ろ向けた。
「ご忠告痛み入る。さあ、もう出て行ってくれ」
義妹に背中を押されながら、なおもイビサムは口を挟んだ。
「折角訪ねて来てくれたのに、つれなくするのも良くないと思うわ。あなただって、彼に会えないと寂しいでしょう?」
「出、て、行、け!」
アティファは強引に義姉を押し出して扉を閉めた。木戸越しに、愉快そうな義姉の感情が誰憚ることなく響いていた。
《お冠ね》《何があったのか》《確かめなくちゃ》《エイジに》
遠ざかる義姉の気配に、どっちが子供だとアティファは思った。実際不機嫌なのはしつこい義姉のお節介に理由があった。作業の途中で逃げ出したエイジに多少腹も立ったが、不快と言うほどでもない。高い感応力によって無意識に人の感情が含まれたマナを感受してしまう体質の彼女にとって、異性から向けられるあの手の感情は慣れっこだった。エイジの気持ちだけは直に触れて確かめてみるまでわからなかったが、それでもこれだけ頻繁に接していれば察しもつく。
アティファは不意に微熱を感じて額を撫でた。手の甲に触れるのはエイジの情熱の名残だったかも知れない。そう思うと自然、彼女は微笑んでいた。垂れ流されている大抵の男の感情は彼女を不快にさせたが、触れなければ感じることの出来ないエイジのそれは彼女を不快にさせなかった。むしろ自身を求める激しい感情に、アティファは安堵を覚えていた。すまし顔で隠そうとしてみても、考えてることは大抵の男たちと何も変わらないのだ。
そんなに、私が欲しいのか?
記憶の中の青年に問いかけると、彼は慌てて赤い顔をうつむけた。その様がおかしくて堪らず噴き出したアティファは、一人きりの部屋でしばらく笑うのを止められなかった。
夕食の席にアティファの姿はなかったが、この家にとってそれは珍しいことでもなかった。ラフィークが気にしたのは消沈気味の友人の様子だった。時折食事の手を止めては、エイジに話を振った。
「随分精強らしいな、君の傭兵隊は」ラフィークは酒の入った水差しを掲げて尋ねた。「大勝したのだろう? ここらまで噂が届いているぞ」
「隊長殿が優秀なもんでね。おかげさまでまた命拾いしたよ」
エイジは杯を受けて答えたが、酒には口をつけないで卓に置き、豆と野菜の煮込みを円匙にとってすすった。食事が始まって半刻は経つのに主菜の肉料理に手をつけた様子はない。
ラフィークは苦笑して尋ねた。
「あれに、何か言われたのか?」
不意の問いかけにエイジはむせ込んだ。面白いくらいに分かりやすい動揺ぶりでラフィークに尋ね返す。
「な、何かって」
「君に元気がない時は大体あいつのせいだ」
ラフィークは微笑を浮かべて断言した。それが真実であることは即答出来ないエイジの様子が物語っていた。酒もそれほど飲んでいないのに、エイジは急な体の火照りを感じざるを得なかった。
「い、いや、別に何かってことは」
言葉を重ねるだけ、体温が上がっていく。エイジは話題を変えることにした。
「あ、ラ、ラフィークは、自分が善人か悪人かって考えたことある?」
「何だ、突然?」
「俺は、自分も周りも、人間はみんな善人だってずっと思って生きてきた。根拠があるわけじゃなくて、願望なんだけどさ。でも今、傭兵なんかやって生きてる自分自身を善人かって考えると、全くそんな気がしない。
薄々感ずいてるんだ、俺は悪人なのかも知れないって。でもそれを、認めるのが怖くて、それでアティファに聞いてみた」
「あれは何と?」
「くだらないって、ばっさり言われたよ」エイジは苦笑した。「善とか悪とか、そんな単純な分け方は正しくないって」
「なるほど、そうだな」ラフィークは干した杯を卓に置いて答えた。「君とこうして酒を飲んでいる時、俺は自分が善人だと思う。飲み過ぎた君が俺の着物に粗相をしても怒りは湧かないだろうし、千鳥足を何かに引っ掛けて転んでしまったとしても笑って済ませてしまうだろう」
水差しを取り、酒を注ぐ。濁りのない蒸留酒の渦に視線を落としてラフィークは続けた。
「だが、一族の長として下々に命を下す時、俺ほど冷酷な人間もこの世にいないかも知れない。神の名を借りて誰かに死を命じることも厭わないし、女子供であっても罪を犯せば容赦なく裁く。その責任が俺にはあるからな」
ラフィークは杯に少量の水を混ぜた。棒匙でかき混ぜると、程なく酒は白濁した。
「人の持つ善悪の性質とはその者が置かれた状況によって左右するのではないか、と俺は思う。環境や状況がそうさせるなら聖職者だって人を殺めるし、夜盗だって子供を愛することだろう。傭兵として戦場にいる君は、確かに悪人かも知れない。しかし今、この杯を受けてくれるなら、俺にとって君は善人だ。俺より先に酔い潰れてしまったら、少し恨むがね」
ラフィークは杯を掲げた。エイジがその杯に自分のものを合わせ、澄んだ陶器の音が鳴った。
「流石、兄妹だな」エイジは杯を軽く呷った。「過程は違くても、似たような結論に落ち着くんだ」
透明な蒸留酒がすぐに彼の体を熱くする。アティファは哲学の見地から、ラフィークは心理学的分析から、それぞれが人間の性質を中庸と判断した。
善でもあり悪でもある。あるいは善にも成り得るし、悪にも成り得る。
どちらもエイジの抱いていた絶対善の幻想を否定するものだったが、エイジは彼らの言葉に反論を持たなかった。過去にもそのような思想があったことを知っていたし、その推論を裏付ける研究や実験について学んだことがあったからだった。アティファとのやり取りで、ラフィークとの会話で、それらを思い出すことが出来たからだった。
安堵がエイジに酒を進めさせた。自身の至らなさが恥ずかしくて、エイジは酒を飲まずにはいられなかった。
「悩むくらいなら傭兵なんて辞めてここにいればいいだろう」友人の調子に合わせるように、ラフィークもぐいと杯を呷る。「食客一人養うくらい造作もない。家の者も君なら歓迎するぞ」
ラフィークは目顔で食卓を促した。公用語を解さない彼の二人の妻とその子供たち、家令のバァキィまでもが会話の内容を理解しているかのような微笑でエイジに肯いた(衛士のナーゼルだけはつれなく顔を背けていたが)。
「とても、ありがたい話だけど」エイジは素直な笑みで応え、頭を振った。「やめとくよ。これでも人を任されてる立場だし」
それに、ここにいたら彼らの好意に骨の髄まで甘えてしまいそうだ。口を出かけた本音をぐっと飲み込む。
「残念だ」ラフィークは言って水差しを傾けた。
「俺もだよ」エイジは全くの本心から応えた。




