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騎士の時代  作者: 御目越太陽
第二章「ルオマ」
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九、騎士ヴァルター-2

「見たところ伏兵らしきものはありやせんぜ」ピーノは集中のために閉じていた目蓋を開いて報告した。「近隣の他領もなるべく広い範囲で確認しやしたが、それらしい動きはありやせん」

「東と南の戦線も異常はなしだ」報告にあがった部下を帰して、ルイジも続ける。「ラ・ピュセル侯軍は相変わらずの立ちんぼ。ラ・フルト方面も特に動く様子はないそうだぜ、兄者」


 期待した通りの報告に、マリオはひとまず安堵した。ラ・ピュセル侯軍が動いてきたのは予定外だったが壁を前に立ち往生しているようでは大した脅威にもならないだろう。エスパラムとの戦に負けたばかりのラ・フルトには、ルオマの事情に干渉する余裕はない。東方公領ノラヴドがちょっかいをかけてくる可能性もあったが、地理的にそれは東都の問題である。


 そして、予想もしていなかった白狼率いるエスパラム軍は見たとおりの有様だった。


「大軍なんて言うから焦ったが」マリオは口端を上げた。「実際には精々が二千五百といったところか。あの程度なら物の数じゃねぇな」


 気負いのない兄の様子に頼もしさを覚えたルイジは俄然目を輝かせた。


「どうする兄者、仕掛けるか」

「馬鹿言え。そんな必要はねぇ」


 マリオは一里半ほど先にうごめく敵の軍勢を見た。高々と旗を掲げる騎兵が千弱。それ以外は重装に身を固めた歩兵が大半だった。騎兵だけで三千を超える「リトニアの一角獣」にとっては正しく物の数ではない。それだけにとどまらず、こちらにはこの乱世で幾度となく侵略者を阻んできた「ルオマの壁」がある。かつては無用の長物と揶揄されてきたこの防壁も、十分な兵力で適切に運用すれば天下随一と評せるほど頼りになる防衛施設となった。


「ただでさえ数で勝ってるんだ。加えてこの壁がありゃあ、こちらの優位は約束されたようなもんだろう。この状況でわざわざ相手に合わせてやる必要はない。壁に篭って待ち構えてるだけで、奴らにとっちゃ相当都合が悪いはずだ」


 こちらから全兵力を以って仕掛ければ、確かに勝利は堅いものだろう。だがその勝利には少なからぬ犠牲を伴うこともまた、確かに予想できる事だった。勝敗が即給金の多寡に直結する一介の傭兵隊長ならいざ知らず、一軍を率いる立場となった今のマリオには小競り合いのために出すいくらかの被害を必要なものだとは思えなかった。


「で、でもよぉ、兄者」ルイジは珍しく食い下がった。「奴ら、先遣隊かも知れねえだろ。先に様子を見に来て、後から来る本隊を待ってるのかも知れねえ。だとしたら、叩けるうちに叩いた方がいいんじゃねえのか」

「いや、それはねえな」


 マリオの自信には根拠があった。エスパラムが圧倒的優位な状況でラ・フルトとの戦を止めた理由が、本格化した南西侯領ラ・ロシュの攻勢にあることをマリオは知っていた。全面戦争の構えに出たラ・ロシュと対するのに二正面作戦を続けることが困難と判断したエスパラム公は、ラ・フルト攻略に当たっていた軍勢を呼び戻すために破格の条件で和平を申し出たのである。

 先のことを考えればこの和平はのむべきではなかったが(事実ラ・ロシュとの間にはエスパラム挟撃の密約が交わされていた)、喉元に鋭剣を突きつけられた形のラ・フルト侯には冷静な判断ができず、晴れて停戦は成立し、エスパラム公は全戦力を以ってラ・ロシュとの戦に臨む事となった。


 エスパラムとラ・ロシュの戦は未だ決戦には至っておらず、故に今のエスパラム軍にはルオマくんだりまで大兵力を派遣する余裕はないはずだった。


「奴らだって侵攻が主な目的じゃあねえのかもしれねえ。ルオマ公と縁を作るためか、あるいは我が物顔でラ・フルトを横断することで小心のラ・フルト侯を脅しでもしてるのかもな。万が一停戦を反故にされた際の保険にだってなる」

「そ、そうなのか」

「さらに言うならだ、ルイジ。奴らが先遣隊なら、なおのことこっちから仕掛けるべきじゃあねえ。『ルオマの壁』はそこらの砦よりもずっと頭数が必要な拠点だ。小競り合いのために犠牲を出しちまったら、本隊との戦いで十分にこの防御力を活かせなくなるかも知れねえだろう」

「そ、そうか、確かに」


 マリオは気落ちする弟の肩を叩いた。


「逸る気持ちはわかるがな、雪辱を果たすならなおのこと万全を期すべきだぜ。戦場で何よりも必要とされるのは冷静さだ。今のお前ならそれが分かるだろう、え、ルイジよ?」

「あ、ああ、もちろんだよ兄者」


 その弱々しい笑みに、マリオは苦笑した。

 半年前、「エッセンベルクの白狼」と刃を交えた戦いで、先鋒を務めていた弟ルイジは捕虜にとられていた。敵を小勢と侮り突出したところを包囲され、目も当てられないほどの袋叩きにあったのである。助けに向かおうとしたマリオ自身もあわやと言う状況にまで追い込まれ、戦の後には安くない身代金の支払いが隊の財布を圧迫した。


 俺が下手を打たなければ。それ以来、酒を飲むたびルイジはそう口にした。元々根が明るいほうではなかった弟は、敗戦の責任を誰よりも強く感じて、すっかり自信をなくした。


 マリオは再び敵陣を仰ぎ見た。一里あまり離れた丘の上、少しずつだが近づいてきているようだ。白い狼の旗が、一層はっきりと視認できる。

 相手が白狼ならかえって都合がいい、とマリオは思った。失敗の記憶はそれを上回る成功の体験で上書きできるのだ。弟のためにも、またダオステの領主となった自身の将来のためにも、この戦でこそマリオは下手を打つわけにはいかなかった。


「ピーノ、お前は夜まで休んでろ。何かあるとすりゃあ日の高いうちじゃあねえはずだ」マリオは気合を入れるように強く弟の肩を叩いた。「後は任すぞルイジ。適当に休止を挟みながら、やつらの動きには注意を払え。何かあったらすぐ俺を呼ぶんだぞ」

「分かった」今度こそ、ルイジは力強く肯いた。「任しといてくれ、兄者」





 呼ばれてやって来たのは上背が優に三間に届く偉丈夫だった。秀でた額と大きな鷲鼻が、落ち窪んだ眼を実際以上に小さく感じさせる。赤みがかった栗毛を総髪にまとめ、肩口に垂れた毛先が歩く動きに合わせて左右に揺れる。何が悲しいのか、薄い眉の間には深い縦皺を刻み、引き結んだ唇は縫い合わされたように微動だにしない。


「……呼んだか?」馬車の幌に手をついて、憂鬱そうな金壺眼がヴァルターを見下ろした。

「仕事だぜ、プンスキ」対照的な表情で、ヴァルターは相手を見上げた。


 プンスキの愛称で呼ばれる男は、大きな鷲鼻から不満とも勇みとも取れない息を漏らした。正式な名はアレクサンドル・イワノヴィッチ・クルピンスキィ。ノラヴド生まれの大工の倅で、隊の中では工兵のまとめ役を任されていた。


「投石機が欲しい。二日以内でいくつ用意できる?」


 ヴァルターの問いはクルピンスキィの顔を一層悲しげなものにした。クルピンスキィは少しの間を空けた後答えた。


「……二つだ」

「少ねえな。十機くらいさくっと作れねえのか」

「……二日は」クルピンスキィは苦痛に耐えるような表情でこめかみをかいた。「……無理だ。……なにより……資材がない」

「資材はこっちで何とかする。数は」


「地図、描けたぜ隊長殿」


 快活な声はエンリコのものだった。ヴァルターは馬車から降りてエンリコを手招いた。エンリコは描きたての地図をクルピンスキィにも見えるように地面に広げた。


「どうよ、結構上手いだろ? こう見えてもガキのころは画家を目指してたこともあったんだぜ。ルオマは芸術と文化の国でもあるからな。こんくらいはほら、朝飯前ってやつだ」


 地図は線と点といくつかの記号で構成された簡易なものだった。


「確かにお前、画才があるぜ」横から覗き込むライナーは噴き出しながら言った。「こりゃあ副隊長殿の顔だろ。この×が青筋で、へへ、こっちのギザギザは眉毛だ。上手いことできてら。この副隊長殿、相当お怒りだぜ」

「おお、本当だ」否定するどころか、エンリコはかえって機嫌をよくした。「横から見ると馬にも見えるぜ。なあハインツの旦那、こいつは雄かな、雌かな」

「黙れ馬鹿共め」


 ハインツの冷たい一喝で二人は無駄口を止めた。気を取り直して、エンリコは地図上の黒点を指差した。


「ここが今俺たちがいる辺り。このでこぼこした丘陵地帯を抜けたら、街道がラ・ピュセルとラ・フルトの国境沿いにこうぐーっと伸びてて」

「このギザギザは壁、その上にある×が関所なら、壁の中にある○は都市か」ヴァルターは点在する各印を指差しながら確認した。「おい、この点線は?」

「ジニョー川だよ。こいつが天然の水濠になってるからルオマの西側は守りが堅いんだよな」

「ごちゃごちゃしててわかり辛いな」ヴァルターは点線と壁の交点にある十字を指した。「関所と川が重なってるように見えるけど、あの関は川の上に建ってんのか」

「ああ。ルオマ商人ってのは昔っからがめつくてな、きっちり国境線に沿って壁を建てたんだよ。一(アルク)たりとも損をしねえように、川があろうとお構いなしだ。川の上に石橋を渡してな、そこにどんと関所と壁を建てちまったわけだ。ダオステのマカーリオ橋と言やあ観光名所でもあるんだぜ。橋の上で結ばれた女は必ず神の祝福を受けるが、代わりに男が早死にするっていわくつきの」


「幅は?」止まりそうにない軽口を遮って、ヴァルターは尋ねた。

「川の? 橋の?」

「両方だ」

「川は、ダオステの辺りだと百間弱ってところかな。南に行くと分岐して幅が狭くなるんだ。石橋は、馬車二台通っても余裕があるくらいだったから、十間くらいだと思うけど」


「数が決まった」ヴァルターは一つ肯いて偉丈夫を見上げた。「プンスキ、十機だ。どれくらいかかる?」

「……資材があるなら」クルピンスキィは眉間に皺を寄せて答えた。「……五日で出来る」

「三日でやれ。人手は必要なだけ出してやる」


 にべもない命令にクルピンスキィは渋面を作ったが、結局は「……分かった」と返事をした。


「よぉし」ヴァルターは大きく伸びをして皆を見回した。「っと言うわけだからハインツ、人員をクルピンスキィに融通してやってくれ。材木はエンリコ、お前が中心になって集めて来い。他の奴らはなるべくプンスキとリコの手助けをしてやるように」


「隊長殿、ちょっといいか」


 まとめかけていた話を中断したのはライナーだった。


「何だよ」

「この地図なんだけどさ」ヴァルターに問われ、ライナーは足元の地図を指した。「ほら、関所がよお、あそこ以外にもいくつかあるだろ? 見に行ってもいいかな、俺」

「お前、昔っからこういう面倒臭そうな作業嫌いだったよなあ」

「そんなんじゃねえって。まあ、理由の一つではあるけどさ」苦笑したライナーはヴァルターの首に手を回してささやいた。「その方が隊長殿にとっても都合いいんじゃねえかって思ってさ」


 悪戯っ子の笑みでライナーは片目を閉じてみせた。子供の頃からよく見てきた笑顔だった。この笑顔の対処法を、ヴァルターは一つしか知らなかった。


「分かった」やんちゃをたしなめるような苦笑でため息を吐いて、ヴァルターは肯いた。「いいぜ、好きに動いて。編成もお前に任せる。白犬共も、必要なら連れてけ」


「合点」ライナーは会心の笑みで応えた。





 空位二十一年初夏の十日、夜半。太陽が西の空に沈んでから、八刻以上の時が経っていた。壁上のマリオと彼が率いる「リトニアの一角獣」は煌々と篝火(かがりび)を焚いたまま、どうやら不寝の構えのようだ。壁上を埋め尽くす橙色の輝きが、さながら竜のごとく夜闇に横たわっている様は圧巻と言う他ない。これだけ明るければ壁の近辺は日中とさして変わらないだろう。夜襲など成立する状況ではなかった。


 だと言うのに、「エッセンベルクの白狼」は日の入りから休むことなく立ち働いていた。斬り合わせた木材を荒縄で組み、支柱を打ち立てて設置しているのは投石機である。あろうことか彼らは攻撃の準備を行っているのだった。


「全く、一体何を考えているのだ、エッセンベルク卿は」


 エスパラム公より与力として遣わされた騎士、レオナルド・デ・ラ・バルドは憤慨する思いだった。あれだけ厳重な警戒を前に、夜襲など、正気の沙汰ではない。それも彼らは一番敵勢の厚い正面から仕掛けようとしているのだから、自殺願望を疑われても仕方なかった。


「まあまあ、ラ・バルド殿」とりなすのは頭に白いものが混じり始めた初老の騎士だった。「貴殿の憤りにも一理あるが、ひとまずは落ち着こうではないか」


「しかし、ラ・フレス卿」


 レオナルドと同じく千の兵を率いるエスパラム騎士、サルバドール・デ・ラ・フレスはあくまで柔和に諭した。


「貴殿もエスパラムの騎士なら命を惜しんでいるわけではありますまい」

「無論です。命よりも名を惜しむがエスパラムの騎士道」

「なればこそ、言葉は名を汚すものとなろう。騎士たるもの、戦場においてはすべからく寡黙であるべきですぞ」

「いや、しかし」


 レオナルドは言葉を詰まらせた。騎士としてのあり方を引き合いに出されれば、若輩の彼は黙るしかない。使命に不服を訴える騎士など、確かに彼の理想とする騎士物語には皆無だった。


「此度の策、ラ・フレス卿は御承知のことなのですか」


 レオナルドは憤りの方向を変えた。騎士個人として受け入れることはできても、千の兵を預かる将としての立場が彼を黙らせなかった。理屈より先に感情が動くのは彼の性分だった。


 サルバドールはあごに手を当てて瞑目した。


「確かに、兵法の常道とはかけ離れた下知、命ずるのが若なら、老婆心ながら意見の一つも申し上げていたところです」

「では」

「しかし、今の我らは与力の身の上。いかなる助言も私見も、求められぬのに出しゃばれば、エッセンベルク卿の誇りを傷つけることと相成りましょう。それはエッセンベルク卿を信頼し、我らをお預けになった若への侮辱にもつながるのです」


 レオナルドは返す言葉を失った。自身の誇りばかりを気にして、主の立場に考えが及ばなかった己を恥じた。


 素直さは若者の美徳だった。サルバドールはちらと片目でレオナルドを見やって付け足した。


「それに、小生は不安を感じておりません。自信も根拠もなく無謀な戦を仕掛けるようなら、傭兵として名を上げることなどできぬことでしょう」


 レオナルドは不満を隠さず同僚を睨んだ。


「随分、彼の者を信じておられるようですね」

「しかとこの目で見ておりましたからな」見上げた夜空に在りし日の情景が浮かぶ。「エッセンベルク卿が、エスパラム最高の正騎士たる若を完膚なきまでに打ち負かす様を」


 騎馬槍試合で二度、真剣による試合で三度、「エッセンベルクの白狼」は彼らの主エンリケ・デ・マルソンを降した。エンリケの調子にも技にも落ち度はなかった。ただ、ヴァルター・フォン・エッセンベルクがその全てにおいて上を行っていたというだけの話だった。


「決闘の強さと、戦の巧拙は関係ありませぬ」レオナルドは苦々しげに口を挟んだ。「それに、小生は未だ信じておりませぬぞ、そのような話は」


 レオナルドはエンリケの名代として前線にいたため決闘には立ち会っていなかった。つまるところ彼のヴァルターに対する不信はそこに集約されていた。近習として誰よりもエンリケの実力を知る彼には、その完膚なきまでの敗北とやらが信じられなかったのである。


「まあ、ともかく」サルバドールは跪く従者の手を踏み台にして鞍上に腰を落とした。「白狼の手並み、この戦でしかと拝見させていただこうではないですか」


 篝火がにわかに揺らめきだした。静かな夜空に、悲鳴と怒号がこだまする。いつの間にか、「エッセンベルクの白狼」は、攻撃を開始していた。


作品内単位

一子=約一平方メートル

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