一、旅籠ケイン、竜と出会う
そこは溶岩の燃え滾る火山の頂上だった。いや、吐く息も凍る極寒の雪山のほうが画になるか。とにかくとても厳しい環境だと言うことは間違いない。
邪悪な竜に攫われたお姫様を救うため、ケイン一行は愛馬に鞭打って竜の住処である頂上を目指すのだ。馬や仲間たちとは道中で分かれる方が劇的で良いかもな。あんまり大勢で押しかけたら活躍の場が減るかも知れないし、なにより強大な敵にただ一人立ち向かう姿にこそ姫は、いやさ見聞きするもの全てがきっと心打たれるに違いない。
まあそんなわけで身を挺して旅を助けた仲間たちの思いを胸に、一人山道を駆け上がるケインはとうとうその頂へとたどり着いたのである。
そこで彼を待っていたのは身の丈百間を優に超える、いや百は大き過ぎる。五十、二十間、とにかくとても大きな竜と、その腕に抱かれて眠る麗しき姫君の姿だ。
ケインは魔法の長剣エクセロンを抜き放ち竜に告げる。
「姫を放せ、醜悪な化け物め! さもなくばこの騎士ケインが愛剣エクセロンの錆にしてくれようぞ!」
虹色の輝きを放つ剣身にたじろぐ竜は、それでも腕にかき抱いた姫は放さず、怒りの咆哮でケインに応える。
ケインは「えいや!」と大地を蹴ると頭上に高く長剣を振りかざして巨大な竜に飛び掛った。
竜が生臭い炎を吐き出せばケインは剣の一振りでそれをかき消し、大木のように太い尻尾で殴りつければすかさず剣を立てて受け止め、違うな、ちょっと無理がある。風のようにひらりと舞ってそれをかわした。
一進一退の攻防を続けること三日、長いか。一日、いや半日あまり。ケインの繰り出すエクセロンの刃がついに竜の体を真っ二つに両断し、そのごつごつした太い腕に抱かれる苦しみからようやく姫は解放された。
あわや地面に激突しようかと言う姫の身柄を何とか抱きとめた騎士ケイン。彼の腕の中で目を覚ます姫。
「遅くなって申し訳ございません、姫様」
と、ケインが囁けば、姫は涙で潤ませた目でこう答える。
「いいえ、騎士ケイン。助けに来てくれてありがとう。きっとあなたなら竜を倒してくれると信じていましたわ。むしろあなた以外のいったい誰にこんな偉業が成し遂げられるというの? 天下一の騎士、聖アルテュールの再来、ケイン・フォスター様。どうか私と結婚してくださいませ、あぁ、どうか」
見つめ合う二人の顔は自然に近づいてゆき、竜の炎と同じくらい熱い接吻が交わされた。姫の唇は思いのほかざらざらとして生臭く、生臭く?
「どわぁあああああー!」
素っ頓狂な叫び声を上げて、ケインは仰向いたまま草の上を這い逃げた。
美しい姫の顔は一瞬で醜悪な竜のそれに変わっていた。
否、そうではない。竜に捕らわれた姫などは初めから目蓋の向こうには存在しなかったし、ここはいつも昼寝する時に来る近所の川べりだし、彼、ケイン・フォスターは魔法の剣を操る天下一の騎士でもなんでもなく旅籠に生まれた今年十五歳になる極々平凡な少年なのである。
しかし姫も騎士も魔法の剣も、全てが妄想のはずなのに、何故か恐ろしい竜だけが夢から覚めた後の彼の目の前に存在していた。想像していたより幾分、いやかなり小さく、見た目も地味な砂色で羽も牙も生えていないようだ。竜と言うよりは大きなトカゲに見えるその生き物は澄んだ瞳でこちらをじっと伺い、かと思うと不意に興味をなくしたように先ほどまでケインが寝転んでいたあたりの草花を大きな口でむしり食っている。
「なん、なん、な、なんだテメェは? や、やんのか、ここの野郎」
ケインは腰を抜かしたまま慌てて武器になりそうなものを捜した。が、生憎とその辺りは柔らかい草花ばかりで石ころ一つ落ちていない。彼は何故ここが自分のお気に入りの昼寝場所だったのかを否応もなく思い出させられた。
依然として立ち上がれないまま竜との睨み合い(と言うより竜の方は彼に全く関心を示さなかったので一方的にガンを飛ばしているだけなのだが)を続けていると、
「すいません! すいませーん!」
川岸の辺りから上がったのは慌てた様子で駆けて来る青年の声だった。
「本当にすいません。うちの馬が何か失礼なことを?」
水浴びの途中だったのか、毛先からぽたぽた滴を垂らしながら、青年は黒い髪を深々と下げる。その傍らで目を細めて鼻面を青年の足にこすり付けている大トカゲを見て幾分警戒を解いたケインは、それでもまだ訝しげに尋ねた。
「馬って、そいつが?」
「はい。馬竜といって、砂漠では普通の馬の代わりに飼われてる、一応魔獣で竜の一種らしいんですが、あ、でもこの子は人によく馴れていて、何か危害を加えたりされない限り人に襲い掛かるってことは絶対ないはずで」
顔を上げて答えた青年は犬猫のようにじゃれついてくるトカゲの頭を優しく撫でる。嬉しそうに小さく声を上げるその生き物の様子に、ようやくケインも当初感じたような恐怖を忘れることができた。
「別に、何かされたってことはねえけど」
危険がないと分かると悲鳴を上げてしまった自分が急に恥ずかしくなった。ケインは頭をかいて相手の様子を見やる。幸いにも初対面のようだ。
「おたく、旅の人? 砂漠ってことはラ・フルトの方から来たのか?」
飾り気のない布の服、野暮ったい黒髪、無駄に丁寧なしゃべり方に極めつけはこの珍妙な大トカゲ。腰帯に小奇麗な装飾の短剣など差しているがどう見ても貴族ではなさそうだ。
ケインが予想したとおり、青年は相手のやや不躾な問いかけを気にする風もなく答えた。
「ええ、ちょっと、ヴィラゼ大学に用があって」
「ヴィラゼ大学? 近所だぜ。そこの街道沿いを真っ直ぐ歩けば、一刻もしないうちに学生街だよ」
「そうですか。教えてくれてありがとうございます」
礼を述べて踵を返そうとする青年をケインは呼び止めた。
「あ、待った待った、その用事って日帰りの予定?」
「まだ、何とも言えないですけど、どうしてですか?」
「この時期、こんなところで水浴びなんかしてるってことは、今夜の宿はまだ決まってないんだろ?」
眉根を寄せて首肯する青年に、ケインは微笑んで続けた。
「いい旅籠知ってんだ、俺。案内してやろうか?」
にこやかに尋ねられて、青年は一瞬目を見開いた。が、すぐに困ったような笑みを浮かべると言いにくそうに言葉を濁して答える。
「あー、とても、ありがたいお話だとは思いますが」
「まあまあそんなつれないこといわずに、いいじゃねぇかちょっとくらい」
しかし流石にケインもこの手のやり取りには慣れっこだった。青年が押しに弱い人間だと見て取るや、相手が言い終わらないうちに口を挟んで強引に会話の主導権を握る。
「どっちにしたって通る道だろ? 大学のついでにちょっと寄って、軽く見てみるだけでもさ。大体、学生街は日が落ちると聖職者か神学生以外は締め出されちまうって、あんた知ってるかい? 悪いことはいわねえから俺の話に乗っときなって。自慢になるほど立派なもんじゃねえけど、安さと日当たりは保証するから。それに今なら厩も空いてるはずだ。そのでかいトカゲだってつないどけるぜ」
「あーまあ、そう、ですね」
あと一押しってところか。青年の様子にケインはもう勝利を疑わなかった。日暮れまでに決めたら一割引か、ちょうど昼飯時だし昼食無料とかでもいいかな。
いざ、用意した手札を切ろうとしたケインは下服を引っ張られる感覚が気になって、つと足元を振り返った。
「おわ! 何だよ、今度は」
ケインは思わず声を上げた。いつの間に現れたのか、見覚えのない灰色の犬が彼の下服を噛んでぐいぐいと引っ張っているのだ。
振りほどこうと払ったケインの手を苦もなくかわすと、その犬は青年との間に割って入って鼻先をつんと彼に向けた。
困惑するケインの前でやさしくその灰色の毛並みを撫でて見せた青年は、相変わらず困ったような笑みで言った。
「あの、じゃあ、犬も一緒で大丈夫なら」
男一人に、でかいトカゲと犬が一匹ずつ。ケインは未だ混乱する頭でその奇妙な取り合わせを眺め、自分自身を納得させるようにゆっくりと肯いて答えた。
「もちろん犬も……俺の口利きがあれば、多分ね」
聖アルテュールの時代から、かれこれ創業二百年を数える旅籠「キザナンドの風」の主人オーソン・フォスターは、得意満面で戸口をくぐる少年の頭に重い拳骨を落とした。そして隣近所の住民たちにとってはすでに時報代わりとなっている怒声を、これでもかと界隈へ響かせる。
「仕事もしねぇでどこほっつき歩いてやがった、この馬鹿息子が!」
脳天を押さえながら早くも激痛から立ち直ったケインは、当然のごとく抗議した。
「痛ってぇな! 殴るこたねぇだろ! 必死に外回って客捕まえてきた孝行息子に対する仕打ちかよ、これが!」
「あぁん!? 馬鹿野郎テメェ何が客だ、適当抜かしやがって! そんなもんがいったいどこに」
激昂する彼が厩に馬と犬をつないできた客の姿を視認したのはちょうどその時だった。沸騰していた彼の怒りはすぐ収まり、振り上げた拳を瞬時に揉み手へと切り替えて、オーソンはにこやかに応対した。
「や、どうもこれはお見苦しいところをお見せしまして」オーソンは軽く咳を払うと普段より気持ち高めの声で続けた。「ようこそおいでくださいましたお客様。私、当宿の主人のオーソンでございます。ささ、長旅でお疲れでしょうから、まずはゆっくりお掛けになって、すぐ宿帳をお持ちいたしますので……ケイン! 気の利かねぇ野郎だなテメェは! お客様に林檎酒の一杯でもお持ちしねぇか!」
「あ、いや、林檎酒はいりません。これから少し用があるもので」
「は、左様ですか」
記名を終えた客の青年から返された宿帳を恭しく両手で受け取ると、彼の不肖の息子が横からそれを覗き込む。
「エイジ・ナイトー? 変な名前――痛ッ!」
素早い鉄拳で息子の不用意な発言を止めた主人は鬼の形相を応対用の笑顔でなんとか隠しながらぺこぺこと頭を下げた。
「すみませんお客様。なにぶんまだまだ礼儀を知らない若造なもので」
「だ、大丈夫ですよ。よく言われますから」
客の青年が気を悪くした風もなく苦笑を返すと、面白くないのは殴られ損の息子である。ケインはここぞとばかりに父を非難した。
「ばかすか殴んなよ! これ以上馬鹿になったら親父のせいだぞ!」
「減らず口叩く暇があったら部屋の用意をしてこい馬鹿息子。それとも、もう一発食らわされたいのか」
またも拳を振り上げる父から即座に距離を取ったケインは、不敵に口角を上げて軽やかに戸口を出る。
「悪いけど親父、そいつはあんたの仕事だ。俺にはもっと大事なお仕事が待ってるんでね」
「何?」
立てた親指で往来を示すケインは眉根を寄せる父ではなく座したまま親子のやり取りを見守る青年に向かって言った。
「ほら、ついて来いよエイジさん。ヴィラゼ大学、行くんだろ」
「ああ」少しの間の後、エイジは相手の意図を理解して肯いた。「ありがとう。助かります」
腰を上げて主人に軽く頭を下げると、すでに歩き出している旅籠の倅の後を追う。
一人取り残されたオーソンは慌てて息子を呼び止めた。
「お、おいコラ、待て、ケイン」
その声にケインは足を止めた。が、それは父の願いを聞き入れた為ではなかった。不敵な笑みを浮かべたまま顔だけ振り返った彼は、ひらひらと手を振って答えた。
「じゃ、まあそうゆうわけだから、部屋の用意よろしく頼むぜ。晩飯は久々の客だし奮発して肉料理がいいなぁ。あとそれから馬の世話も、忘れんなよ、お、や、じ、さ、ま」
おちょくるように舌を出すとケインは足早に大通りを折れた。戸惑いながらも客はその後を追いかける。旅籠の主人の怒りが沸点に達して、とうとう爆発してしまうより早く、二人はすっかり街の喧騒の中にまぎれてしまった。
「この野郎ケイン! 覚えとけよ!」
オーソンの怒声はもちろんケインの耳に届かない。この後しぶしぶながら見に行った裏庭の厩で思いがけず巨大なトカゲと対面することになった際、堪らず発してしまった素っ頓狂な悲鳴も同様に。




