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アレクの意思を正確に汲み、ユーシェはどうしようもないことを考える時間を減らし、とにかくしっかりと食事を摂るように意識した。後宮はアレクに仕えるものが住む場所だから。仕える者として、まずは一目見て健康だとわかる姿を手に入れようと奮闘していた。
それでも余計なことを考えてしまいそうな時は、ティナの勧めで刺繍をするようにしていた。集中し、無心で針を挿すのは、ユーシェには合っている作業だった。
もともと孤児院でも繕い物をしていたこともあり、針と糸の扱いは慣れていたが、貴族の令嬢がするような立派な刺繍とは無縁だったため、ティナに指南してもらっていた。そこで初めて、ティナも貴族の娘なのだと知ることになり、ユーシェは酷く驚いた。
正真正銘貴族の令嬢が、気まぐれで養女になった孤児の侍女をするなど、屈辱なのではないかと、さらに焦った。が、ティナは優しく笑って、気にすることはないのですよと言うだけだった。それでも当然ユーシェはティナに気を遣ってしまい、苦笑されてしまった。
「養女だろうが何だろうが、ユーシェ様が伯爵令嬢であることに変わりはないんですよ」
「でも、ティナは生まれた時から貴族でしょう?私は貴族としての教育もマナーも何もかも身についていないもの」
「そんなもの、今からどうにだってできますよ。それに、私は貴族と言っても末端です。華やかな貴族の生活など送っていません。ここにいるのも、他の方のように行儀見習いや花嫁修行ではなく、家計のためのお給金目当てなのですよ」
「そう…なのね…」
2人並んで椅子に座り、刺繍をしながら話をしていた。時々ユーシェがティナに教えを請い、ティナはユーシェの手が迷っているのを見ては声をかけた。
「以前から思っていたのですが、ユーシェ様は立ち振る舞いがとても綺麗ですよね。言葉遣いもそうです。伯爵様からご指南を?」
「いえ、特に受けていないわ。でも、時々貴族の方が孤児院にいらっしゃることがあってね。色々寄付をしてくださるのだけど、その時に簡単にだけど教えて頂いたの。貴族ほどしっかりしなくてもいいけれど、少しでも姿勢が綺麗だったり、言葉が綺麗な方が、将来孤児院を出る時に役立つこともあるでしょう…と」
「そうだったのですね。その方の言う通り、本当に役に立ちましたね」
「そうね。…よかったかどうかは…分からないのだけど…」
困ったように笑ったユーシェを見て、ティナも笑った。
「何をしている」
突然部屋の入り口から声がし、2人は急ぎつつ音がしないように立ち上がった。
「刺繍の…練習を、しておりました」
テーブルの上に広がった道具を手早くティナが片付け、ユーシェはその人に返事をした。ユーシェの部屋を訪ねて来る人なんて、皇帝陛下1人しかいない。
「練習か」
「はい。簡単なものならばできますが、大きな模様や色をたくさん使っての模様は難しいので、ティナに教えてもらっていました」
「そうか。菓子を持ってきた。茶にしよう」
「………」
道具を片付けたティナが、続いてお茶の準備を始める。ユーシェは茶菓子を受け取り、皇帝が座るのを待って自分も座った。
「朝食はしっかり食べたか」
「は、はい。頂きました」
「そうか。刺繍はいつ頃出来上がりそうだ」
「明日か…明後日には出来上がると思います」
「出来上がったら見せろ。どんなものか知りたい」
「…あ、は…い……」
そこでティナがテーブルに茶と茶菓子を並べた。ユーシェは一息つき、皇帝をじっと見た。
「あの…、大変失礼なことを申し上げますが、あなた様は…どなた…なのでしょうか…?」
「え?」
「……」
ユーシェの言葉に、ティナは驚きの声をあげ、皇帝は微動だにせず、言葉もあげなかった。
「ユーシェ様、何を…」
皇帝を前におかしなことを言うユーシェに、ティナは不敬にならないようにと諫めようと近づいた。しかし、ユーシェはそれを手で制し、戸惑いながらも皇帝を見上げた。
「陛下では…ありませんよね…?陛下の…従者の方…でしょうか…?」
「何故そう思う」
確かな思いを胸に、しかし恐る恐る尋ねるユーシェに、疑われた皇帝は怒った風でもなく言葉を返した。ティナはいつもの落ち着きを忘れたかのように、ハラハラして二人を見ていた。
「声が……違います」
「喉の調子が悪いんだ」
「……瞳の色も…違います」
「……」
「その…はっきりとどこがどうとは言えないのですが、いつもの陛下とは…纏う気配が…違うように思います」
「執務で疲れているからだとは思わないのか」
「……」
「お前とは一月の付き合いもないというのに、大層な言い分だな。この国の皇帝陛下のことを全て分かったつもりでいるのか」
「そのように驕った考えで申し上げたのではありません。生意気なことを申し上げているのは承知しています。ですが、今私の眼の前にいらっしゃるお方は、私の存じ上げている皇帝陛下とは違って見えるのです。本当に申し訳ございません」
「申し訳ございません。ユーシェ様は今朝方からお体の調子が優れないとおっしゃっておりました。正常な考えができていないのだと思います。私が体調管理を怠ったせいでございます。罰ならば私に」
「ティナっ」
椅子を降り、床に這いつくばるように頭を下げたユーシェの横に、かばうようにティナも続いた。自分の代わりに罰を受けるつもりのティナに、ユーシェは咎めるような声を落とす。
「体調が優れないのに針を挿していたのか」
「…っ」
ユーシェをかばおうとしたティナの嘘を受け入れるつもりはない。ティナに免じてユーシェを赦すつもりはないし、その嘘をついたティナをそのままにしておくつもりもない。そういった意味の発言をした皇帝に、ティナは息を飲んだ。そしてユーシェはさらに慌てた。自分のせいでティナまで処分されてしまう。ティナだけは守らねばと、ユーシェは必死の形相で顔を上げた。
「お許しください!ティナはまだ…っ」
「もういい」
「そんなっ」
「こんな状況になってもまだ、俺のことは皇帝ではないと思っているのだな」
「…それは…っ」
「そうだろう?」
「…申し訳ございません!ですがこれは私の勝手な考えでございます。ティナは違うのです!私を諫めようとして…」
「あ〜、もういいんだ。悪い、君を試した」
「え?」
男の口調が変わったのを感じ、ユーシェは再び下げていた頭をあげ、ティナも恐る恐る顔を上げた。
「こちらこそ悪かった。君の言う通り、俺は皇帝じゃない」
「え、あの…」
「まさかこんなに早くバレると思わなかったな。君たちをいつまでもそんな格好にさせていたとバレたら殺されそうだから、とりあえず起きてくれる?」
「は、はい…」
ゆっくりと起き上がろうとしたユーシェを、ティナが支えた。まだティナも混乱していたが、ユーシェを椅子に座らせると、冷めてしまったお茶を変えるべく、声をかけてテーブルの上のお茶を下げた。
「あ、あの…」
ユーシェは、恐る恐る目の前に座る皇帝陛下ではない男の人に声をかけた。皇帝陛下ではないのなら、この人は一体誰なのか。後宮に足を運べる男性など限られている。護衛騎士を除けば、皇帝陛下とその側近だけ。
「怖い思いをさせて悪かった。俺はディル。アレクの、皇帝陛下の側近をしている」
そういってディルは自身の髪の毛を引っ張り、金色の髪の毛を剥がし、金色に近い茶色の髪を曝け出した。その顔はアレクにとても似ていたが、アレクの澄んだ空のような青い瞳と似ているけれど違う、海のような青い瞳をしていた。




