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獅子とアンティーク  作者: 結木さんと
第8章 獅子とアンティーク
37/37

エピローグ








 騒がしかった一夜から明けて翌日。

 久しぶりに熟睡できたおかげで、やけにスッキリと目が覚めた朝のこと。


 ――彼女との別れは、なんの前触れもなく訪れた。






「え? ……ミシェルちゃん、帰っちゃうの?」

「そうよ。目下の問題も解決したし、これ以上は日本に逗留する理由もないもの」


 朝食のクロックムッシュを優雅にナイフとフォークで切り分けながら、素っ気ない態度のミシェルが驚く蕗に言った。

 どうしてミシェルが新屋家の朝の食卓にいるかといえば、昨夜、霧小路家所有のマイクロバスで自宅前まで(例によって住み込み従業員の善吉さんに)送ってもらった際、蕗が強引に連れ込んだからである。

 問題が片づいた祝いだのなんだのと理由をつけて、こいつらは随分と夜遅くまで怪物のハンティングに勤しんでいた。言うまでもなく、どうせゲームがしたかっただけである。そう何度も会ったわけではないのに、随分と仲良くなったものだ。ゲーマーの繋がりは国境を越えるのか。

 ……おかげで俺はお客様用の朝食を作らされたわけだが。

 寝起きのせいか気だるげなミシェルは、甘いカフェオレで口の中のものを飲み下すと、ぼんやりした眼差しを天井に向けた。


「もうすぐ休暇も終わるわ。次の休みまでに片づけなきゃいけない案件も山積みだし……『商会(うち)』って、慢性的に人手不足なのよね」


 なぜそこで俺を見る?

 嫌な予感がして、ミシェルがなにか言いだす前にそっと視線をはずした。


「大変なお仕事なのねえ……」

「天才と呼ばれるような連中は、みんな気まぐればかりだもの。サヨコなんて随分とかわいらしい方だわ」


 上には上がいるんだな。あれより遥かに厄介とか。

 話を聞いて、ますます関わりたくなくなったぞ。


「次はいつ来られるの? ミシェルちゃん――わが家の豪華な晩ごはんに興味ない?」

「……おい、なんで最後にそれを訊いた? 言っておくが、ミシェルが来たって献立は変えないぞ」

「そういえば、まだチーズハンバーグカレーを食べていなかったわね」

「作るとはまだ一度も言ってないんだけどな」

「ニーヤ、チーズはグリュイエールかサン・ネクテールにしてちょうだい。安物はダメよ。わたしをもてなすなら、ちゃんとチーズにはこだわること。いい? 覚えておきなさい」

「こうなったら、ゆーなも呼んであげないとなー。アキにぃの料理食べたいって言ってたし」

「なあ頼むから話を聞いてくれよ!!」


 やけくそで叫んでみるが、もはや蕗たちはこちらを見向きもしない。

 お前ら、いったい誰が作ると思ってるんだ……?

 なおもカレーの話で盛り上がる二人を見て、桂姉はふわふわと微笑んでいた。

 気づけば足場が削られている現状に危機感を覚えつつ、こんなにのんびりした時間もなんだか久しぶりで、不本意ながら気が抜ける。

 そういえば、うちで身内以外の人間と朝食を囲んだのは、これがはじめてだったかもしれない。それにしてはやけにミシェルがなじみすぎているような気もするが。


 いつもと変わらない日常の風景。

 けれど、たしかになにかが違う新しい景色。

 変わったのは身を置く環境だろうか。あるいは――


 賑やかな食卓を眺めながら、ふいに、そんなことを考えた。



        ◇



 駅へ向かうというミシェルと連れ立って通学路を歩く。

 クラス委員の雑用がある桂姉は先に家を出た。中学生の蕗は方向が逆だ。

 住宅街の区域にはまだ人通りがすくない。

 出勤する会社員や部活の朝練がある生徒はとっくに出かけただろうし、ごく一般的な登校時間にはまだ二十分近く余裕がある。

 がらんとした道は、世界から人が消えたみたいに静かで、二人揃って黙ったまま歩いているとやけに時間が長く感じられる。別に会話がないと苦痛という性格でもないが、しばらく会えなくなる相手と最後まで無言を貫いて別れる、というのもなかなか勇気のいる行為だ。有り体に言って、この状況が気まずい。

 前からミシェルには訊いてみたいことがあった。

 これも丁度いい機会か。


「なあ、一ついいか」


 すまし顔のミシェルは、ついと視線だけを向けて「どうぞ」と短く答えた。

 相変わらず素っ気ない対応である。ここのところは距離も多少縮まっていたように感じたのだが、まさか幻覚だったのか。

 不愛想な横顔を眺めて、かねてからの疑問を口にする。


「ミシェルと獅賀の前当主って、どういう関係だったんだ?」


 ぴく、と眉尻が上がる。

 なんだ?


「……気になるの?」

「え? あ、ああ……まあ、なんとなく」

「そう」


 心なしか満足げな顔で頷く。

 だから、いったいなんなんだ、その反応。


 ずっと不思議だった。彼女がここまで織目さんを庇護することが。

 仕事だという理由づけはわかる。有力な天才候補を保護することは、彼女の豊かな将来に繋がるのだろう。もちろん、その真意が同情や友愛でも問題ない。

 だが……本当にそれだけだろうか?

 彼女が織目さんに向ける感情は、どうも依頼主の孫娘に対するものの域には収まりきらないように思える。

 そして、その根本に獅賀貴嗣がいる気がするのだ。


「別に人目を憚るような関係じゃないわ。そうね、彼のことは“命の恩人”と呼ぶのが最も正しいかしら」

「獅賀の前当主が?」

「ええ。わたしが貧民地区にいたという話はしたでしょう? 世間一般にスラムは無法地帯と思われがちだけど、そこには独自の規律があるの。秩序だったルールというよりも、絶対順守の掟ね。近づかなければ地区に留まることだけは許される。けど、もし破れば……」


 ミシェルはその先を口にしなかった。

 朝にするような話題じゃない、と判断したのかもしれない。

 こちらとしても、ありがたい話だ。わざわざ朝から陰鬱な気分になりたくはなかった。


「わたしはその禁忌を犯した。もう何日も食べていなくて、空腹で死にそうだったから。どうせ最後ならなにをしても同じだと思って、連中が見逃していた貧乏そうな観光客を狙ったの。わたし以外は誰もそれが偽装(、、)だと見抜けていなかったわ…………でも、結果は失敗だった。獲物だったはずの年老いた旅行者に呆気なく捕まって、すぐに諦めもついた。……これでようやくパパのところに行ける、ってね」


 しかし、現実はそうならなかった。


「その日本人は、わたしを野良猫みたいに抱えて、警察署には向かわずにホテルへ連れて行ったの。お金持ち以外は玄関前の敷石すら踏めないって有名なホテルよ。まさか奇抜な性癖持ちの変態に捕まったのかと危ぶんだけど、違った。

 彼はロビーにいた、見るからにおっかない女の前にわたしを突き出して、流暢なフランス語で言ったわ。――“あんたが探してた人材を見つけたぞ”って」


 それが、孤児だったミシェルと『商会』の出会いだった。


 問題の日本人……フランスの知人を訪ねていた獅賀貴嗣と、ミシェルのいう組織の“ボス”は、顧客である古美術品の愛好家を介した知り合いだったという。

 ここまで話を聞いて、俺はある答えに辿り着いた。


 織目さんがよくする突拍子もない行動は、どうやら祖父由来の遺伝らしい。


 自分を狙ってきた子供を企業の代表に紹介するとか有り得ないし、小さな女の子を拘束して異国の地を闊歩するのも有り得ない。下手したら誘拐犯として強制送還だ。……そして、織目さんもそんな状況に遭遇すれば、まったく同じことをしでかすだろう。

 弱りきった子供を抱えて走るライオン頭の女子高生の絵面は、あまりにもすんなりと想像できた。


「きっかけは記憶にないけれど、わたしは見れば“才能を持つ人間”が判別できたの。とは言っても、曖昧なものよ。どんな才能なのかは調べてみないとわからない。ただ漠然と、その個人が凡百とは違うなにかを持っていると知れる。たったそれだけのこと。

 でも、おかげでわたしは『商会』に引き取られた。最先端の教育を受けさせてもらえて、大学も卒業できたわ。だから、これでも彼には感謝してるつもり。今回の件は、サヨコを立ち直らせる目的だったのはもちろんだけど、私情が完全に介入しなかったとは言いきれないわね」


 最後は渋々といった態度でミシェルが言う。

 しかし俺は、ふい打ちで明かされた衝撃的な事実に、それらを聞き逃した。


「だ、大、卒…………まさか、二十歳こえて……?」

「馬鹿じゃないの? 飛び級したに決まってるでしょう」


 窓のサッシの汚れでも見るような冷たい目を向けられる。

 あ、ああ、そうだよな。いくらなんでも、その外見で成人済みなんてことは……。

 浮かび上がった深刻な疑問をなんとか飲み下して、素直に謝罪する。

 女性に年齢の話題を振るなら、次の瞬間には死が待つと心得よ――とは新屋のおばさんの教えだ。今回は完全に俺の失態だった。


「知りたい?」

「……え?」

「わたしがいくつなのか、ニーヤは知りたいの?」


 訊ねられた内容を理解して、自然と喉が鳴った。

 ミシェルは真顔でこちらを見ている。

 どうしても知りたいかと言われれば、そこまで興味があるわけでもない。

 だが、教えてくれるというなら……知りたい。

 彼女の経歴があきらかになり、謎がさらに深まったことで、その欲求に逆らえなくなった。


 ぎこちなく頷くと、ミシェルは指先をこまねいた。

 言われるがままふらふらと耳を寄せる。

 なぜかやたらと緊張していることを自覚しながら答えを待った、次の瞬間。


 ――口の端に、やわらかいなにかが触れた。


 鼻先をくすぐるマスカットの甘い香り。

 反射的な硬直のあと、かなり遅れて脳が現状を把握した。理解した……した、が…………は?


「……な――――っ!?」


 はじかれるように身体を起こす。

 すでに離れていたミシェルは、俺の反応をおもしろがるような顔で……けれど、さすがに気恥ずかしさは誤魔化しきれなかったのか、かすかに頬を染めてこちらを見上げていた。


「わたしのはじめて(、、、、)よ。泣いて喜びなさい」

「み、ミシェルさん? これは……どういう……?」

「文字通り、目ぼしいものに唾をつけたのよ」


 言い方。

 もうちょっと婉曲な表現はなかったのか。

 ちょっとだけ冷静になれた頭で、ミシェルの話に意識を傾ける。


「あなたを口説くことにしたの。これはその前払い」

「口説くって……俺は」

「あら、わたしは本気よ」


 『商会』に行くつもりはない、という言葉は、真面目な声音に遮られた。

 透明な空の瞳が、ひたと俺を見据える。


「もう後悔はしないと決めたの。欲しいものは全力で獲りにいくわ」

「いや、こっちにも都合ってものがだな」

「猟師が銃を撃つ時にキジの都合なんて考えると思う?」


 肉食がすぎる。誰がジビエの食材だ。

 この小さいハンターの教育方針について、上司を小一時間ほど詰めてやりたいところだ。

 ……いや、そうなると『商会』に行かなきゃならないのか。


「ちょっと競合相手が多いけど、それも優れた物件の証よね」

「まさか骨董品に共感する日が来るとは……」


 遠くに意識を飛ばした俺の前で、ふふん、とミシェルが薄い胸を張る。

 そもそも競合相手って誰だよ。志摩木のじいさんか?

 織目さんにでも聞いたのだろうか。正直、どっちも関わりたくないんだが……。

 必死に逃げ道を探していると、不敵な笑みを浮かべた少女がくるりと身を翻した。

 そして、ようやく気づいた。


 ここはもう、駅前に続く十字路だった。


「それじゃあ、わたしは行くわ。正直に言えば、最初はあまり期待していなかったけど、あなたのおかげで約束を守れた。だから一応、お礼を言っておいてあげる。

 ありがとう、ニーヤ。元気でね」


 嵐のように別れを告げたミシェルは、返事も待たずに歩きだす。

 相変わらず勝手なやつだ。

 小さな背中がだんだん遠ざかって……なぜだろう。俺は、


「なあ、ミシェル」


 気づけば、離れていく後ろ姿を呼びとめていた。


「もし……もし、親父さんに会いたくなったら、さ…………連絡してこいよ。次は、俺がついて行くから」


 ピタッと足を止めたミシェルが、慌てたように振り返る。

 そのガラス玉のような目は、まるで二つに割れた月でも目撃したみたいに、大きく見開かれていた。

 ……余計なお世話だったろうか。

 しかし、俺は霊園での礼を言いそびれていた。いまさら掘り返すには気恥ずかしく、あちらも素直に受け取りそうにない。せめて、そのための機会が必要だ。


 “また会おう”と、そんな意味を込めた。

 助けが必要な時には呼んでほしい。

 こちらは、そう願っていると。


 一人で元の世界へと帰っていく、どこか寂しそうに見えた、彼女の背中に向けて。


 十歩ほどの距離で、無言のまま向かい合う。

 静かに時間が流れた。

 やがて、じっとこちらを注視していたミシェルは、


「やっぱり、馬鹿ね……あなた」


 呆れたような声で悪態をつきながら。

 ふわり、と――――子供みたいに、笑った。


 なんのことはない。

 不安だったのだ。

 きっと、お互いに。


 俺たちは別れがあることを知っている。

 どんなに願っても、やがて声さえ届かなくなる日が来ることを。


 未来なんて誰にも予測できない。

 だから、これは約束だ。

 ちゃんと再会できるように。

 何事もなくその日を迎えられるように。

 それまでどうか、お元気で。

 いつか――


「――――またね、アキヒコ」


 微笑んだミシェルが大きく手を振る。

 それはまるで、木漏れ日みたいに温かな声だった。




 海の外からやって来た少女は、こうして、遠く離れた故郷へと旅立っていった。




        ◇



 現実というやつはいつも容赦なく降りかかってくる。

 たとえばいまがそうだ。


『お、おはようございます』

「ぎゃああああ!?」


 道端で佇んでいると、うしろから覗き込んできたライオンヘッドに挨拶された。

 ――ビックリした。

 ちょっと湿っぽくなった別れから、三分も経たないうちの凶事である。

 うっかり心停止しかねないほどの衝撃だった。

 感傷に浸る暇すら許さぬ二段構え。

 この人は出オチに命でも懸けてるのか。


「…………前にも言ったと思うが、登場する時は、ワンクッションを……」

『す、すみません! ……その、なんだか緊張してしまって』


 おかげでこっちは心筋が過剰に緊張したわけだが。

 せめて距離を。

 この人には、パーソナルスペースが現代社会においていかに重要視されるものなのか、いずれ徹底的に教え込む必要がありそうだ。

 今後の緊急課題を胸に刻みつつ、恐縮しきりの織目さんと向き直る。

 言いたいことは多々あるが、いまは――。


「とりあえず、行くか」


 そろそろ登校する生徒も増えはじめる頃だ。

 あらゆる方面に気を遣った提案は、


『……はい!』


 以前よりも明るく感じられる返事とともに、受け入れられた。





 昔から、通学中は一人でいるのが当たり前だった。

 その方が気楽だったのもあるし、朝はなにかと忙しい。

 放課後だってそうだ。まだ料理自体に慣れない間は、さっさと帰宅してレシピと睨み合っていた。それが役割を果たすための効率的な時間の使い方だと信じていたから。

 俺の日常は、すべて自己の世界の中だけで完結していて、そこに他人の都合を受け入れる余白はなかった。


 でも、いつからか。

 見慣れた学校までの道に、奇妙なライオン頭の同級生がいるのが日常になっていた。

 放課後は狭い歴史研の部室に集まって、料理当番は日替わりのローテーション制になった。

 たぶん変化のきっかけはずっと前からあったのだ。

 ただ俺が、差し出された手に気づかないふりをしただけで――。




「……で、さっき帰っていったよ」

『そうですか。ミシェルさんにも、あらためてお礼を言いたかったのですが』

「毎回こんなに急なのか?」

『お帰りになる時は、そうですね……いらっしゃる時も、事前に連絡をいただいた記憶が、あまり…………あ、いえ。きっと、お忙しいのだと思います』


 学校へ向かう道すがら、一応、『商会』のエージェントが帰国したことを教えておいた。予想してはいたが、やっぱり織目さんにも連絡していなかったようだ。

 慌ててフォローしているものの、あれは忙しいというより、単に本人がズボラなだけではないだろうか? 織目さんが通信機器の類をいっさい持っていないことを差し引いても、せめて何日か前には教えておいてやれよとは思う。あるだろ。アパートの管理人に伝言を頼むとか。連絡する手段は、いろいろと。


『寂しくなりますね……』

「まあ、またそのうち、ふらっと遊びに来るんじゃないか」


 そうなると家事における俺の負担が増すわけだが。

 いったい誰が、あいつにあの偏った日本の知識を与えてるんだろう。ネットか? まったくもっていい迷惑だ。


『あの……新屋さん』


 呼ぶ声が遠くなる。どうやら立ち止まったようだ。相変わらず背後を歩かれているせいで、状況が把握しづらい。

 合わせて足を止めて、なぜか身体を強張らせたライオン少女と向き合う。


「どうした?」

『知りたいことが、あるんです。教えていただけませんか』

「? ……ああ。俺がわかることなら、まあ」

『新屋さんがお好きなものは、なんですか?』


 ………………うん?

 す、すきな、もの?


「いや、ちょっと待て……質問の趣旨がわからん」

『そ、そうですよね。えっと……私は、新屋さんに、いろんなことを教えていただきました。なのに、私は新屋さんに関する情報をほとんど知らないんです。これは由々しき問題ではないかと…………あ、いえ……そうでは、なくてですね』


 あたふたと腕をはためかせる。

 随分と混乱しているようだ。説明もぎこちなく、真意がまったく掴めない。

 こういう時に声をかけるのは愚策だろう。俺も先の経験で学んだ。

 織目さんが慌てないよう、彼女が落ち着くのを黙って待った。


『…………知りたいと、思ったんです……』


 やがて、彼女は胸のうちから言葉を一つずつ探しだすみたいに、おぼつかない声で話しはじめた。


『この感情を、どう言い表せばいいのか、よくわかりません……昨夜は、ずっと祖父の言葉を眺めていました。そうしていると、たくさん……とても抱えきれないくらい、いろんな感情があふれてきて……こんな気持ちは、生まれてはじめてで』


 胸の上を細い指が押さえた。

 制服のブラウスに強くシワが寄る。


『……“知らない”ということを、こんなにも寂しいと感じたのは、はじめてなんです。いままで知りたいと思うことはあっても、こんなに苦しくなったことはありませんでした……新屋さんの、好きなもの。みなさんが、なにをすれば喜んでくれるのか……私は』


 喉を詰まらせて喘ぐように、織目さんは言葉を紡いだ。

 整理しきれず散らばった意思はひどく掴みづらい。

 ただ、一つだけはわかった。


「わからん」


 深みに嵌まっていく声を遮った。

 それでようやく息継ぎを思い出したのか、困惑しっぱなしだった織目さんは、長い潜水から浮上してきたかのようにゆっくりと顔を上げる。

 まったく……本当に不器用だな、あんたは。


「好きなものと言われても、いままでまともに考えたことがなかったんだ。そうだな……強いて挙げるなら、俺は白米と焼き魚が好きだ。けど、なくても別に困らない。それは大体の事柄においてそうだ。俺にはこれまで、特別な好き嫌いがなかった」


 われながら曖昧な答えだと思う。

 でも事実だ。いままでは考える必要もなかった。

 好きか嫌いかなんて、ただ生きるだけなら、どうでもいいことだと思っていたから。


「俺も同じだよ。――まだ、その感情を見つけたばかりなんだ」


 目を逸らしてきたものと向き合って、それはようやく見えた。

 きっと、織目さんもそうじゃないだろうか。

 戸惑うのは仕方ない。はじめて出会うものには、誰だってすくなからず混乱する。


『同じ……新屋さん、も……』


 ライオン頭の奥からくぐもった声が聞こえる。

 言葉を噛み砕くように繰り返した彼女は、呆然とその場で立ち尽くす。


「……この答えじゃ期待はずれだったか?」

『い、いいえ!』


 慌てた様子で強く否定された。どうやらそこまで的をはずしていなかったようで、すこし安心する。

 扱いが難しいのだ。この、生まれたての価値観というやつは。

 息をついて続きを待っていると、ようやくなにがしか整理がついたのか、ライオンの黒い双眸がこちらを向いた。

 やがて彼女は、こんな答えを返した。


『とても、嬉しいです…………どうしてでしょう? 不思議ですね』


 顔はライオンのかぶりものが邪魔をして見えない。

 でも――きっといま、織目さんは笑っている。

 そんな風に感じられる、子供みたいにあどけない声だった。


「……そ、そうか」


 対するこちらは、完全に想定外の不意打ちをくらった気分だ。

 こんなことで無邪気に喜ばれても、その、なんだ……反応に困る。

 俺は急いで進行方向に向き直った。

 無言のまま、登校する生徒の増えだした道を進む。


『あ……ま、待ってください!』


 焦ったように足音が追いついてきた。近くにいた見知らぬ男子生徒がギョッとした顔で立ち竦む。こちらまで気恥ずかしくなったが、もう取り繕うような気力もない。


『もう。いきなり置いていくのはひどいですよ……』

「あんたがあんなこと言うからだろうが」

『ええ!? ど、どのことですか?』


 答えない。答えてなるものか。

 なおもしつこく問いかけてくるライオンヘッドを無視して、歩くペースを上げた。

 学校まではあとすこし。

 ふと目をやると、校門の前によく見慣れた二人の姿があった。

 いつも遅刻気味のヤツが珍しい。待ち合わせなんてした記憶はないが……まあ、どちらも友人を出迎えたい気分だったんだろう。今日はそんな気持ちになってもおかしくない、見事な快晴だ。

 やがて、向こうも気づいたらしく、大和と霧小路さんが嬉しそうに手を振る。


『――行きましょう、新屋さん!』


 いつのまにか隣に並んだ織目さんが、前へと足を踏みだす。

 大きくはなくとも、たしかな一歩。

 七月の空が降らせた陽射しの中――――古い呪縛を解いた彼女は、こうして新たな世界を歩きはじめた。






 高校に入っても日常の風景はとくに変わらなかった。

 穏やかで平凡な街並みは子供の時からずっと同じ。

 進学して間もない四月の末、俺はライオン頭の変人と出会った。

 それからも増え続ける数々の奇妙な出会いは、瞬く間に俺の日常を塗り替えていった。

 変わらないはずの景色は、けれど、たしかにその色を変えた。


 ここにきて俺はようやく思い出した。

 春は出会いの季節であり、それはのちに続く奇縁になり得るということを。

 それから、ふとある考えが浮かんだ。

 度重なる出会いは春を越えてもまだ続いていた。こうも次々と短期間で見知らぬ人と交流したことは、いままでにない。

 もしかすると俺は、“出会う”という奇縁そのものに行き会ってしまったのではないか?

 だとするなら、ようやくすべて片づいたと思った騒動は、これからも……。

 いや…………ない。その推論は、いくらなんでも現実味がなさすぎる。

 頭を一つ振って、あり得ない想像を追い払う。

 そうこうしていると、前方から大きな声で呼ばれた。

 見れば、校舎へ続く道の先に三人が立ち止まって、俺が追いつくのを待っていた。余計なことを考えているうちに遅れたらしい。

 急かす声に応えて、すでに熱気の漂うコンコースを歩きだす。

 眩しい夏が、いたるところに降り注いでいた。


 ……もし仮に、万が一そんな奇縁が続くとして。いまはまだ関係のない話だ。

 未来でなにか起きるのなら、またその時に考えればいい。起きてもいないことで思い悩むよりもその方がよっぽど合理的である。

 春の終わりにはじまった出会いの連鎖は、もう幕を閉じた。


 それらの騒がしかった日々に、あえて銘を打つとすれば、そう――



 “獅子と、少女と、遥かなるアンティークの物語”







        獅子とアンティーク 了










長らくお付き合いいただき、ありがとうございました。

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