獅子とアンティーク 6
考えていた。
これまでのこと。
これからのこと。
春の末から続いてきた出来事を思い返して、紐解いて、最初から組み立て直して。
考えて、考えて。
結局これしか道はないのだろうと、夕焼けの中にひっそり佇む古いアパートを眺めて、結論を出した。
あちこち駆けずり回っているうちに気づいたらもうこんな時間だった。
ミシェルとはあのあとすぐに別れた。依頼の内容がやっぱり簡単ではないらしく、駅前でタクシーを拾うとそのままどこかへ行ってしまった。
頼んだのは保険だ。念のため、調べてもらいたいことがあった。
解決に繋がるような用件ではないというのに、彼女は「貸し一つね」と、いつものすまし顔で引き受けてくれた。
今日はやけにミシェルがやさしい。なにか心境の変化でもあったのか。
貸しっていったいなにを請求されるのだろう。……ちょっと怖くなってきた。
思考を脇道に逸らしていると、通りすがりのおばさんがこちらを凝視していた。目つきが不審者を見る時のそれだった。
自然と溜め息がこぼれる。今日は厄日なのか。おそらく二度と触れ合うこともないだろう赤の他人から、やけに精神を削られる。
まあ、いつまでも現実逃避していても仕方ない。
ここをなんとかしないと、いままで積み重ねてきたことがすべて無駄になる。もちろん俺にそれをどうにかする責任も義務もないのだが、彼女を説得するのに最適な立ち位置にいるのが俺である以上、なんとか努力はしてみたいとも思う。
儀式的に頬を叩いて気合いを入れる。
――さあ正念場だ。
心持ち姿勢を正して、メゾン・アルルの玄関に足を踏み入れた。
◇
事前に連絡していたおかげで、住人からの襲撃もなく目的の部屋に辿り着いた。
まず住人の襲撃を心配しなければならない時点でこのアパートはどこかおかしいのだが、自分が住んでいるわけでもないので文句は言えない。
たしかにセキュリティーは抜群だろう。保障されるのは住居者の安全のみだが。
ここが無法地帯であるという別の角度からのプレッシャーに晒されつつ、最奥の扉をノックする。部屋の主からの返事はなかった。
すでに確認はとったので、ここにいることはわかっている。
ならば居留守か、それとも気づいていないのか。
再び、今度は強めにドアを叩いた。やっぱり反応はない。
やむをえず、最終手段に出ることにした。
「すみませーん! 受信料の集金ですがー!!」
『ひえええ!? う、うちにテレビはありませんっ!』
「なんだ、やっぱりいるじゃないか」
『…………』
いまさら黙っても遅い。
あと、織目さんの部屋にテレビがないことは知っている。最低の手段を使っておいてなんだが、もっと落ち着いて対応した方がいい。じゃないと押し入り強盗みたいな業者の下っ端どもはすぐ調子に乗る。
「……ていうか、集金業者がここまで入ってくるのか?」
『……私はまだ遭遇していませんが、前に一度、アパートに無断で入ってきたのを管理人さんが見つけて、警察を呼んだことがあったそうです』
「物騒だな……」
『ただ、おまわりさんが駆けつけるより先に、帰宅した住人の皆さんがちょっと特殊な手段で追い返してしまったそうで……どんな方法かは教えてもらえなかったのですが』
「物騒だな!」
アパートの住人の方が危険だった。確実にアウトな撃退法だろ、それ。
どうりでさっきから複数の視線を感じると思ったんだ。
頼むから背後でコツコツ硬い音鳴らすのはやめろ。訪問者を当然のごとく威嚇するんじゃない。ここは薩摩隼人の隠れ家かなにかなのか。
おもむろに振り返る。バタンッ、とすべての扉が閉まった。
もう嫌だ。帰りたい。
へし折れそうな心を全力で堪えて、目の前の扉に向き直る。
いまは余計なことをしている場合ではないのだ。
「あー……なんだ。その……調子はどうだ?」
気まずさのあまり、思春期の娘と久しぶりに会話する父親のような質問をしてしまう。わずかながら冷静に自分を客観視できてしまうのがつらい。
しかし、扉の向うの織目さんは茶化しもせず律儀に答えてくれた。
『そうですね、お人形はもうすこしで仕上がると思います。……ご心配をおかけして、もうしわけありません』
「ああ、いや、いい。それはいいんだ……変なこと訊いてすまん」
奇妙な謝罪合戦になった。
……違う。今日はこんな話をしに来たんじゃない。
萎みかけた気持ちを奮い起こして、俺は一歩踏み込んだ。
「なあ、明日は行かないのか?」
行き先はあえて言わない。
この間、ミシェルづてに指示があった。
“遺産探しは日曜の午後五時、入霞にて行う”――と。
これで入霞になにかがあることは確定したも同然だ。もはや隠すつもりもない伝達は、絶対に負けないという自信の表れなのだろう。
獅賀の嫡男が得た手がかりは依然として知れない。
だが、いまの俺にはそれ以上にするべきことがあった。
織目さんはずっと黙ったまま。
しんと静まり返った廊下に立ち尽くして、俺は彼女を呼ぶ。
「行こう、織目さん。――このまま逃げたら、あんたは二度と立ち上がれなくなる」
古い扉が軋む。まるで、悲鳴をあげるみたいに。
あえて選んだ厳しい物言いへの応答は、色褪せたドアに圧しかかる彼女の重みだった。
痛いよな、織目さん。……それ、俺もなんだ。
ずっと逃げてきたくせにどの口が、と、もう一人の自分が嗤う。
でも、これだけはわかる。
織目さんにとって、ここが踏ん張りどころだ。
他のどんなことから逃げてもいい。
憎悪を向けてくる家族も、ただ一人の生徒すら守れない学校も。
すべて、無視したってかまわない。そんなものは所詮、自分が生きるための踏み台でしかない。敵に回った時点でこっちから関係を放棄してやればいい。
たとえ織目さんが学校を辞めようと、それで『商会』の人形師になる道を選んだって、俺たちはずっといっしょにいる。またみんなで出かけられるよう、休みのたびにスケジュール調整だって必死にやってやる。
だけど、本当に向き合うべきものだけは――――自分の“声”からは、逃げちゃだめだ。
『……怖い、です…………私のせいで、大切な人が傷つくのが……』
「ああ」
『でも、傷つけられるのも、怖いんです。心が痛いのも、怖いのも……もう、いや……』
「そうだな。当然だ。誰だって傷つくのは怖いし、痛いのは……」
『どうしてですか!!』
叫ぶ声に言葉を遮られる。
俺の前ではじめて口調を荒げた彼女は、俺たちの間に横たわるぬるい空気を粉々に破壊するかのように、大きな声で叫ぶ。
『どうして、新屋さんは、そんな……っ! ……も、もういいんです! 見捨ててください! ほうっておいてくださいっ! …………もう、私を、一人にして……っ!』
まるで血を吐くみたいに。
……嫌いです、と彼女は言う。
顔を合わせるだけで睨んでくる義母が。こちらを見ようともしない父が。悪口しか言わない兄が。よく知りもしないくせに母を嘲笑うクラスメイトが。いやがらせを目撃しても見て見ぬふりをする教師が。つらいことしかない学校が。家が。
変な人形と言葉を遺した祖父が。
たくさん苦労をかけているミシェルが。
自分と関わったせいで傷つけてしまった俺が。
いつかいなくなるのが怖い大切な人たちが。
やさしくないこの世界が…………嫌い、だと。
けれど、
「……わたしが、いちばん、大っキライ…………っ!」
絞り出すように、あるいは、重たい荷物をぶちまけるみたいに、織目さんは呪詛を吐いた。
……それが、彼女の背負い続けてきたもの。
なまじ真面目で辛抱強かったばかりに、逃げることすら許されず、ひたすら恐怖と苦痛に耐えてきた。親を亡くしたという身の上こそ同じであれ、俺にはその痛みを共感してやることはできない。……共感できると思ってはいけない。痛みとは本人だけが背負えるものだ。
周囲の人間にできることは、本当に限られる。
「ああ……いいさ、それで」
嗚咽がぴたりと止んだ。
次いで、引き攣れたような悲鳴が扉の向こうから聴こえる。
驚かすつもりはなかったが……仕方ない。
俺はなけなしの勇気を振り絞って、強張る喉が閉じないうちに、怯える彼女に言った。
「たとえ嫌われたって、俺はあんたを助けに行く。絶対に――――自分のことが大嫌いな織目小夜子を、何度だって俺が助けてやる」
きちんと彼女まで届くように。
たしかに、そう伝える。
……いつしか俺が置き忘れてきたものを、織目さんは丁寧に拾い集めてくれた。
蓋をした心では気づけなかった。
誰かといっしょにいる放課後。知らなかった家族や昔なじみの一面。これまで意識することさえなかった、知らない世界。
ずっと踏み込むことを避けてきた新しい景色は――こんなにも色鮮やかで、眩しいのだと。
ここは思ったよりあたたかくて居心地がいい。
だから、今度は俺の番だ。
今度は俺が、あんたを冷たい殻の中から引きずり出してやる。
『どう、して……っ…………わたし、にいやさっ、なにも……っ』
「あのな……そんなもん、大事だからに決まってるだろ? もう恩とか過去とか関係なく、俺はあんたを大切だと思ってるんだ………………あ、いや、俺だけじゃないぞ? 霧小路さんも大和も、うちの姉妹もミシェルも。と、とにかく、みんな織目さんを心配してたから」
すこし冷静になってみると、自分がとんでもない言い回しをしたことに気づいた。
これではまるで……。
い、いや、大丈夫。こちらにそんな意図はなかったし、織目さんはそういう感情から遠い人だ。鑑定と人形制作の天才だし、ライオンの頭もかぶってる。そっち方面の誤解で気まずいことにはならない。確実に。……たぶん。
などと一人で取り乱している間に、泣き声はどんどん大きくなっていく。
子供みたいな号泣を聞いて、すこし……ほんのすこしだけ、この距離がもどかしく感じた。
目の前の扉がなければ、肩を叩いてなぐさめるぐらいはしてやれただろうか?
同時に、姿が見えなくてよかったとも思う。
いまの織目さんを見れば、きっと俺はさらに醜態を晒していただろう。
あの夏の日から、女の人の泣く姿はどうにも苦手だった。
「……たぶん、織目さんが本当に望む結末は難しいと思う。だが次善のラインぐらいまではなんとか持っていく。それでもよければ、もう一度、俺を信じてくれないか?」
返事はない。咽ぶ声だけが無人の廊下に響いていた。
彼女が落ち着いて答えを出すには、まだしばらくかかりそうだ。
俺は黙ってその時を待つ。
決着まであとわずか。
どう足掻いても明日の夕方にはすべて終わってしまう。
――けれど、もう目指す場所は間違えない。
以前よりクリアになった頭で、これからするべきことを考えた。
◇
日曜の午後四時。駅前のロータリーには、まばらな人並みがあった。
家族連れや友達同士、あるいは旅行客。ちらほらとカップルの姿も見えるが、幸ヶ瀬の若者が遊ぶ時は基本的に大鷹宮などの繁華街まで出かけるため、数はそこまで多くない。
この街に来てから何度も目にした風景が、今日はいつもと違って見える。
……どうも緊張しているようだ。
以前のような焦りこそないものの、どうしたって気がかりは残る。
そもそも、当の本人が来ないと話にならないのだが……。
「不安そうだね、暁彦」
ぼんやり柱にもたれていると、大和がからかうように話しかけてきた。
ここに来てからというもの、しばらく暗かったこいつはすっかり元の調子に戻っていた。
「……他人事だと思って気楽なもんだな」
「そりゃあ、もうおれにできることなんてないからね」
当たり前のように大和が言う。実際にその通りなのだが……もっとこう、あるだろ。労うとか、励ますとか。
まあこいつに妙な気を回されても気持ち悪いだけなので、要か不要かで言えば、まったくいらないのだが。
「大丈夫だよ、織目さんも同意したんだろ? なら心配しなくても来るって」
「別に心配はしてない。このあとのことを考えてただけだ」
「はいはい。まったくもっていまさらだけど、素直じゃないねえ」
呆れたように嘆息するのが見えた。
やかましい。これでもし来なかったら、お前にライオンの頭をかぶせて連れて行くからな。
「でもさー、あっちはなんか重要な手がかり持ってるんでしょ? ほんとに大丈夫なの?」
逆側から今度は蕗が顔を出す。
なにやら懐疑的な表情だが、あいにくと安心できるような答えは返せない。
「わからん。正直に言うと、今回ばかりは完全に運任せだ」
「ダメじゃん! そんな状態であのエリートと勝負するつもりなの!?」
「仕方ないだろう。向こうがどういう手で来るかわからないんだから」
織目さんの前で大層な啖呵を切ったものの、確信を持てるような状況ではない。
他人の心が読めるわけじゃないのだ。不測の事態なんてものはいくらでも起こり得る。いかにも潔癖そうな獅賀の嫡男が相手なら、万が一ということもあるだろう。
「問題ない……もし勝負に負けても、織目さんのフォローは、ちゃんとする」
「そうです! あんなイヤな男、いざとなったらぶっ飛ばせばいいんです!」
「ゆ、ゆーな? 殴るのはだめだからね? ……ねえ返事して。聞こえてる?」
芳倉さんの瞳に昏い炎が燃えている。殺意をたぎらせる親友の姿に、めずらしく蕗がうろたえていた。……この反応、過去にそういう実例でもあったのだろうか? 芳倉さんは多少まともそうだと思っていたのだが、ここにきてまさかの裏切りである。もはや俺には期待することさえ許されないというのか。
などと呆然としているうちに、桂姉が嬉しそうな声をあげる。
「来たわ」
慌てて振り向くと、そこには――――異国の少女と連れ立って歩く、ライオン頭の女子高生が見えた。
『すみません……お待たせしました』
一週間ぶりに俺たちの前に姿を現した彼女は、相変わらずの綺麗な姿勢でおじぎをする。
それが合図のように、蕗や芳倉さんが駆け寄って飛びついた。出遅れた霧小路さんまであとから抱きついていた。
きっと予想外だったのだろう。熱烈な歓迎を受けた織目さんは、大いに慌てふためいていた。
「ニーヤ。これ、頼まれていたリストよ」
少女たちの熱い抱擁には目もくれず、とことこと歩いてきたミシェルが資料を差し出した。
どうやら感動の再会には興味がないらしい。
「悪いな。無理させて」
「気にしなくていいわ。対価はきちんと払ってもらうから」
むしろそっちの内容が気になるのだが。
やや疲れたような顔色を見る限り、これを手に入れるのには想像より苦労したようだ。『役に立つかは不明』と事前に聞かされていれば徒労感もさぞかし色濃かっただろう。実際、この資料は特殊な条件下でしか役立たないのだ。こちらを見上げるミシェルの目はまったく笑っていなかった。
ひょっとして俺は大きな間違いを犯したんじゃないか……と危機感を抱きつつ、手渡された紙面に目を通す。
好奇心に駆られた大和が話を聞きたそうにしているが、相手をしてやる時間はなかった。
駅前のロータリーに予定時刻をきっちり守ったバスが滑り込む。
「……行くか」
ぴりりと空気に緊張が混じる。
口をつぐんだ全員が、真剣な面差しで頷いた。
以前にも増して森の中は静まり返っていた。
夏期に入って日照時間も長くなったというのに、鬱蒼と木々の乱立する空き地は晴れ間であってもどこか薄暗い。
ざらざらと枝葉の擦れる音がする。季節感のない冷たい風が、じっとりと首筋を撫でながら通りすぎた。
淀んだ空気の掃き溜めのような場所で、相手を待つ。
腕時計を見れば、ちょうど約束の時間になったところだった。
姿はまだない。だが、この近くにいることはわかっていた。特徴的なエンジン音が遠くから聴こえた。
やがて、彫像めいた顔立ちの男が姿を現す。
男はこちらが勢ぞろいしていることになんの反応も示さず、ただつまらない風景を眺めるように、居並ぶ顔ぶれを見渡した。
「思慮の浅い野良犬とはいえ、不利を悟って逃げるほど恥知らずではなかったか」
平然と見下して、青年が独りごちる。
当たり前みたいに自分より年上のスーツ姿の男性を従えて。
それが「当然」だと、生まれた瞬間に定められた支配者の厳格な雰囲気を漂わせながら。
獅賀明臣はまっすぐに俺を見据えて、凍てつく眼差しは微塵も動かさずに告げた。
「――このような些事に割く時間は一秒でも惜しい。さっさとはじめて、終わらせよう」
その、あまりにも無機質な呼びかけを合図に。
旧家の因縁にまつわる勝負が、幕を開けた。




