獅子とアンティーク 2
“……アンタ、いまは誰のために動いてるんだい”
乾いた声が反響する。
答えはわかっていた――わかっている、つもりだった。
織目さんを助けると決めたのは、借りを返すためだ。
かつて自分が受けた恩を他の誰かに手渡すため。……そうすることで、過去に区切りをつけられるのではないかというかすかな期待があったのも、否定はしない。
この動機は偽善だ。
それぐらい自覚している。
推測が必ずしも正しいとは限らないことも。
会ったばかりの人間の言葉を鵜呑みにする危険性も。
わかっている。
…………わかっては、いるのだけど。
◇
薄闇に包まれた道を歩いていた。
左右を竹垣と背の高い木々に囲まれて、古めかしい屋根からぶら下がるフードつきの電球にぼんやりと照らされた、飛び石の道。
昼間は青々と陽射しを透かしていた初夏の葉も、いまや黒いシルエットしか確認することができない。
山中の冷やりとした風が枝を揺らす。
カサカサと葉擦れの音が、静まり返った夜の空気の中で、いやに大きく不気味に響いた。
「いやー、盛り上がってきたね!」
「……周りをよく見てみろ。そう思ってるのは、どう考えてもお前だけだ」
「なに言ってるのさ。いま向かってる場所を忘れたのかい? ――秘湯だよ、秘湯! 普通じゃ味わえない名家秘蔵の温泉に向かおうって時に、ガラス張りの廊下なんて歩かされたら興醒めもいいとこだよ。この廃頽的な寂れた背景こそ、秘境の天然温泉を楽しむための最高の演出というものさ!」
お前はいつから温泉の評論家になったんだ。
意気揚々と持論を語った大和は、上機嫌に玉砂利をまたいで進む。
……その目線が一瞬だけ逸れた。気づきはしたものの、だからといって論うつもりもない。適当に流して、進行方向に視線を戻す。
薄暗い通路に合宿メンバーの背中が見えた。
霧小路さんの先導で歩く集団には、かすかな困惑の気配がいまも残っている。
それはこのおどろおどろしい情景だけが原因でもないのだろう。
気づいたのは、たぶん夕飯のあと。ひょっとすると、もっと前から兆候はあったのかもしれない。けれど俺にはその差異を見抜くことができなかった。
わざわざ口に出すほどでもない違和感。
むしろ歓迎されて然るべき変化。
最後尾を歩く俺の場所からは、メンバー全員のうしろ姿が見える。
――この場に、織目さんがいる。
なんのため? 当然、温泉に入るのだろう。
それがどんなに奇異なことか、この場の誰もが理解している。
俺の視線に気づいたのか、斜め前を歩いていたライオンの頭が、くるりと振り向いた。
相変わらず覆面の下の表情は見えない。
しかし、穏やかに微笑む顔が浮かぶような声で、彼女は語りかけてくる。
『温泉、楽しみですね。新屋さん』
「あ、ああ……そうだな」
実際のところ、男と二人きりの風呂が楽しみかと言われれば微妙だ。ついてこようとする霧小路家の父を奥さんが止めてくれた(物理)おかげで、ようやく安堵できたというレベル。あんな巨体でも、腋の下をフルスイングでド突かれると戦闘不能になるらしい。
そんな珍事はこの際どうでもいいのだが……どうして織目さんは、急にみんなと温泉に行くなどと言いだしたのか。
てっきり内風呂で済ませるか、時間をずらすものだと思っていたのに。
事情を知ろうにも、なにをどう訊ねればいいのかわからない。
小金井の婆さんとの会談以降、思考はすっかり鈍りきっていた。
結局、些細な変化の発端すら掴めないまま――目的の温泉に辿り着いた。
簡素な脱衣所の扉を開けると、視界を白い湯気が覆った。
おお……露天風呂だ。
我ながら貧困な感性で恐縮だが、それ以外の感想が出てこない。
簀のような床板に、暗い木造の壁。植込みと申し訳程度の天井の間には、森の夜色と広大な星空が広がっている。これらがすべて私有地だというのだから、霧小路家は真の富裕層なのだろう。今後、霧小路さんには敬語で接した方がいいのかもしれない。
脱衣所と地続きの洗い場も実にシンプルで、大和の言うような秘湯としての趣きがあふれているように感じられた。
ざっとかけ湯をして汚れを落とし、もうもうと蒸気をあげる石造りの浴槽に足をつける。
じん、と痛むほどの熱が爪先から伝わった。
初夏とはいえ夜間の山中はまだ寒い。身体がすっかり冷えていたようだ。
おそるおそる足先から湯に入る。
うしろから突き飛ばされた。
「おあああっ!? 熱ッ!」
「遅いよ、暁彦。こんなのはいっきに入った方がいいんだって」
悶える俺の背後で、呆れたような大和が肩まで湯につかった。
あちち、と声に出してはいるが、その表情は余裕である。
「お、おま……っ! ふざけるなよ!」
「まあまあ、そう怒らずに。こっち来て座りなよ」
満足げな笑みを浮かべて手をこまねく大和。
おのれ……。
「成長しても治らないんだね。きみの……猫舌、っていうのかな? それ。熱いのが苦手なやつ。暁彦の場合は全身だけど」
「やかましい」
憮然としながら馬鹿の隣に腰を下ろす。
まだ肌がひりつくが、最初の衝撃に比べれば幾分かましなように感じられた。
ゆっくりと腰を下ろして、大きく息を吐く。
「で? なにがあったの?」
「お前、ちょっとぐらい待つ気はないのか……」
「だってきみ、のんびりしてたらすぐにのぼせるじゃないか」
それは否定しないが。
面会を終えて帰ってきてから、ここに至るまでの間も、大和はなにも訊ねてこなかった。
どこかで質問がくるだろうと思っていたが、ついに待ちきれなくなったらしい。
俺は再び息を吐いて、病院での経緯を教えてやることにした。
「……なるほど、それでみんな様子がおかしかったのか」
話を聞き終えた大和は、ぽつりとそんな感想をもらした。
案の定、軽くのぼせてきた俺は、湯から上がって浴槽の縁に腰かける。火照った身体に、冷やりとした風が心地いい。
「言い得て妙だね」
「俺に主体性がないってくだりか」
「それは卑屈になりすぎじゃないかな? まあ、おれとしては、そのお婆さんの知ったかぶった発言も失笑ものなんだけど……近頃の暁彦に余裕がないって話なら、同意はするよ」
言葉に詰まる。反論のしようもない。
たしかに最近の俺は、お世辞にも余裕があるといえる状態ではなかっただろう。
「時間がなくて焦るのはわかる。厄介な相手も出てきちゃったしね。……けど、本当にそれだけかい? 暁彦が追い詰められてるのはさ」
「……」
確信めいた問いだった。
しばらく考えて、慎重に答えを手繰り寄せた。
けれど――
「……わからん。正直、自分でもどうしてこんなに焦ってるのか、説明が浮かばないんだ」
煮えきらない回答に、苦笑する気配。
ぱしゃりと湯が跳ねた。大和の目線が近くなる。同じように石造りの縁に腰かけた旧友は、目を細めてこちらを覗き込んだ。
「なつかしいね。まるで最初の頃みたいだ。覚えてる? はじめて会った時も、きみはいまみたいにわかりやすく追い詰められてた」
覚えている。
忘れようにも、あの頃の記憶は鮮明すぎて、頭から離れる気配がない。
「ああ……そうだな」
居場所を探そうと必死だった。
未来を。生きる道を、見つけるため。
必要とされる役割をこなそうと、できないなりに足掻いていた。
「おれが暁彦に近づいたのは、正直に言えば、ただの興味本位だったんだ。当時の担任はぼかしてたけど、狭い街だからさ。『口さがない噂』ってやつは、もうとっくに広がってた。そりゃあ両親を亡くして、親友の家族に引き取られた子供なんて、大昔のホームドラマぐらいでしかお目にかかれないからね」
「随分とぶっちゃけるな」
「この際だし。それに、いまさらこの程度で気まずくなるような間柄でもないでしょ」
まあ、それもそうだ。
そもそもこいつの性格は、長い付き合いで充分に把握している。
「でも、だんだんときみ自身に興味が移っていったんだ。自覚ないかもしれないけど、きみという人間の行動はいつも人の想像を上回るんだよ。有り体に言っておもしろかった。おれも含めて、ごく一般的なクラスメイトよりも、ずっとね」
「褒められてるのか、それ……」
「もちろんさ! おれ史上最大の讃辞だよ!」
芝居がかった動作で両手を広げる姿は、やっぱりどうにも胡散くさい。
咎める視線から逃れるように、くつくつと喉を鳴らした大和は、ざぶんと湯につかり直す。
話しているうちに、身体が冷えたのかもしれない。
「だからさ、好きにやりなよ。暁彦は。周りの雑音なんて気にしないでさ。案外その方が上手くいくんじゃないかって、おれは思うけどね」
この段にきて、俺は驚くべき事実に気づいた。
「……ひょっとして、慰められてるのか?」
「そうだよ。知らなかった? こう見えておれ、友達オモイのいいやつなんだ」
わざとらしくおちゃらけた大和が言う。
その耳がやたらと赤いのは、はたして温泉だけのせいなのか。
「なあ、こういう時は、礼の一つでも言った方がいいのかな」
「あー…………やめてもらえる? いま、キツくなってきた」
昔なじみの頭が、ぶくぶくと泡を立てて沈んでいく。
……珍しいこともあるものだ。こいつが照れるなど、そうそう見られる光景じゃない。自爆という間の抜けた姿に多少は溜飲も下がった。
あとで似合わない行動を盛大に冷やかしてやろうと思いつつ、星の瞬く空を見上げた。
浮かぶ月は、当然ながら一つ。
冬とは違って、上空の大気に揺らぎはない。
鮮やかに輝く星を眺めていると、壁向こうの女湯から賑やかな声が響いた。
騒がしいのは主に中学生組だろう。はしゃぐ声に合わせて、小さな悲鳴が上がっている。
それはそうと、さっきから『う、浮いてる』だの『すごいくびれ……』だの『こんなキレイな色のひとって本当にいるんだ。うわー……』といった不穏な発言が断片的に聴こえてくるのだが…………あいつら、隣が男湯であることを忘れてないだろうか?
隔てるものが塀一枚のおかげで、大部分の会話どころか物音まで筒抜けになっている。
頼むからあとで気まずくなるような話題は控えてほしい。
耳に入る生々しい声を強引に追い出して、冷えてきた身体を湯につける。
意図せず息がもれた。
霧小路さんが自慢するだけのことはある。この幽玄な眺めと豊かな温泉の組み合わせは、そんじょそこらで気軽に楽しめるようなものではない。
そういえば、霧小路さんも今日の入浴を楽しみにしていたようだ。
訊ねてみれば「……一人だと、あまり、入れない」とのこと。
理由はここへ来るまでにわかった。
彼女はどうも怖い話の類が苦手らしい。
たしかに一人で訪れるには不気味な道だ。大和の語ったような怪談がすぐ近くの森にあるとなれば尚のこと。
とはいえ家族と入るのは年齢的にも厳しいだろう。
はじめての友達を迎えた今日は、絶好の機会というわけだ。
「…………うん?」
なんだ。
いま、なにか引っかかった。
この違和感はそんなに遠くない。
瞑目して一日の記憶を辿る。
そう。そうだ。
あの時、たしか――――
「どうしたのさ。もうのぼせた?」
「違う。……なあ大和、お前が昼間に話してた怪談、あれは有名な話か?」
「怪談って、『朧森の亡霊』? うーん、どうだろうね。全国的な知名度は残念ながらなさそうだけど……この地域に限定すれば有名なんじゃないかな。結構古くからある話だよ。うちのお祖母ちゃんも知ってたし」
すこしずつ思考がまとまっていく。
違和感が浮き彫りになる。
「まさか……なにか思いついたの?」
「ああ。とはいっても、取っかかり程度だが……」
情報を整理する。疑問はいくつか浮かんでいた。
目を丸くする大和に向けて、確認のために問いかけた。
「怪談だと番頭とやらの魂は、そこの朧森をさまよってるって話だったよな?」
「うん。ネットで見た分も含めて、オチはみんな概ね同じだった」
「その番頭は、代官に無礼を働いた罪で処刑された」
「そこの部分は話によって変わるかな。相手が豪族の嫡男だったり、遊山に訪れた殿様だったり……いずれにせよ、若き番頭は捕まって非業の死を遂げるんだけど」
「相手は別にどうでもいい。とにかく、番頭が罪人として捕らえられる展開なのは同じなんだな」
「う、うん。たぶんね」
頼りない返事だが、こんなところで精確性を求めるのも酷だろう。
新たな可能性の手触りを感じつつ、肝心な部分に切り込んだ。
「入霞の宿が集まる場所は、昔と変わらないのか」
「そう、だと思う……ごめん、詳しいことはわからないや。霧小路さんのお祖父さんあたりに訊いた方が正確じゃないかな」
「ああ、そうか」
「で、これってなんの質問? 遺言の件と関係あるの?」
訊ね返す声に頷く。
もちろん、まだ確実というわけではないが。
「仮にその番頭のいた大旅館が、いまと同じ温泉街にあったとしよう。恋に落ちた二人が、親の野望のせいで無理矢理に引き裂かれたとして……番頭が恨むなら、まずはそっちの雇用主の方じゃないか? 好きになった娘を探すにしても、わざわざ遠く離れた森に現れるのはおかしい」
「それはそうだけど……やけにその部分に喰いつくね。おれが言うのもなんだけどさ、怪談って伝言ゲームを繰り返すたびに脚色されていくものだよ?」
「知ってる。ただ、ろくな整合性がないにも関わらず、矛盾する箇所が軌道修正もされずに拡散されているのは妙だ。もしかすると、その裏づけになる理由があるのかもしれない」
大和が首を傾げる。濡れた髪から、ひとしずく水滴が落ちた。
「人形に書かれた遺言の冒頭だ。あの怪文章の一列目は“罪人よ”だったろう。この朧森に、もし該当する場所があるとすれば……」
明るい瞳が見開かれる。
思い浮かんだものはいくつかあった。だが、可能性として最も高いのは、
「――――刑場……」
呆然としたつぶやきがもれた。
首肯して、推論を続ける。
「そう考えれば、怪談の奇妙な点には説明がつく。処刑に関連する施設がある場所なら、怪談のオチに選ばれてもおかしくはない。そして遺言の“罪人”との関係も……調べてみる価値はあるだろう」
もちろん、これはまだ憶測の域を出ない。
すべては事実をたしかめてから。
霧小路さんのお祖父さんに訊けばわかるだろうか?
俺は急いで温泉から上がって…………その場に、膝をついた。
「あれ……暁彦?」
「………………まわ……る……」
頭がふらふらする。視界がぼやけて、手足にうまく力が入らない。
この症状は……
「……の、のぼせたのかい? まさか、この状況で? ……はあ、きみってやつは、つくづく締まらない男だねえ。まったく、生まれもっての芸人気質というか、なんというか……」
「く……」
悔しいが、もはや反論できる状態ではなかった。
結局、俺は大和に担がれるようにして温泉を出た。
途中で合流した蕗にからかわれたり、織目さんや霧小路さんに心配されたりしながら、俺が学んだことは一つ。
――――風呂場で長考してはいけない。
たぶん自分ぐらいにしか役に立たない教訓を、荷物のように運ばれる俺は、深く胸に刻みつけた。




