獅子とアンティーク
「待ってよ。たしかめたいことってなに? 明日じゃだめなの?」
隣に並んだ大和が詰めてくる。
俺は足を止めず、たったいま気づいた可能性を口にした。
「……獅賀貴嗣の遺言は、この入霞を差してるのかもしれない」
「えっ」
短い声が上がる。絶句する気配が後方からも押し寄せた。
「ど、どういうこと?」
「まだあくまで可能性の話だが……織目さんの祖父は、人形に『この人生は春先の露と消ゆ』という文句を書いた。この“露と消ゆ”は死を意味する表現だったよな?」
「ああ、たしか秀吉公の辞世の句に使われたんだっけ」
大和の補足に頷く。
かの太閤の話は知らないが、それだけわかれば問題ない。
「だが、この助詞“と”は二種類の意味が読み取れる。一つは『のように』という例示、もう一つは『と一緒に』という接続。これを後者として読んだ場合、問題の箇所は“春先の露と一緒に消える”となる。
その“露”が消えたあとに出てくるものはなんだ」
「露が消えたあとってなにさ?」
「そのままの意味だよ。露はここでは夜露を差す。さっきの話にあっただろ。春の朝、入霞はどうなると言ってた?」
そこまで説明して、偏屈な昔なじみはようやく「ああ」と頷いた。
「……霧だね」
「そうだ。そして霧小路さんはこうも言っていた」
――“山頂からのその眺めが、地名の由来とも、言われている”
「だが地名に使われているのは霧ではなく“霞の文字だ。そこでふと思ったんだが…………ひょっとして霞っていうのは、春特有の言葉なんじゃないか?」
確認の意図も込めた質問は、とくに誰に向けたものでもなかった。
とはいえ答えたのは、やはり文系の問題に強い桂姉だった。
「そうね。霞は春の季語だわ。たしか、平安時代から秋の霧と区別されるようになったって、なにかで読んだと思うのだけど……」
「待って暁彦、つまりあれかい? 獅賀の前当主の遺言に『春先』とあるから、きみは入霞になにかあると判断したってこと?」
「まあ、そうだな」
「いやー、それはちょっと短絡的すぎるんじゃ……」
呆れる昔なじみを「まあ待て」と制止する。
俺だってそれだけで判断を下したわけじゃない。
実はずっと前から引っかかっていることがあった。
「織目さん、お祖父さんが亡くなったのはいつ頃だ?」
『は、はい!? ……あの……四月の終わり、です』
……やっぱり、そうか。
それでも予想より早かったが。
俺が確信を深めると同時に、桂姉と大和が息をのんだ。
「わかったか? ――春先ってのは、二月の終盤から三月。遅くても四月の初旬までだろう。これがただの日記なら気にするほどのズレでもないが、獅賀貴嗣は遺言としてこの一節を書いている。もし遺された人形がなんらかのメッセージだとするなら、無視するにはあまりにも違和感が大きい」
誰もが気を遣って触れなかった話題。
あの人形に書かれた時期を鵜呑みにして、すっかり獅賀貴嗣は「春先」に亡くなったものだと思い込んでいた。
よく考えればわかることだった。
織目さんが『商会』と仮契約を結んだのが八月。祖父が遺言通りの時期に亡くなったとすれば、それまでに半年近い時間が経っていることになる。
弔事の事後処理があったとしても、さすがに遅すぎだ。
ミシェルがそこまで悠長な性格とも思えない。
さらに、この地には獅賀貴嗣と縁のある人物もいるという。
露と共に消え――――深い深い、霞の中に入る。
符合を疑うには充分だ。
ただ……
『そんな単純なことにも、私は気づけなかったのですね……』
「いや、それは仕方ないだろ。織目さんもミシェルも、この文章の真意を探れるような状況じゃなかったんだから」
むしろこれは第三者だからこそ思いついたとも言える。
大切な人に恨まれていたかもしれないと思い込んで、摩耗しきった精神状態では、とても冷静に可能性を模索することなど不可能だ。俺が同じ立場なら、たぶんもっといろいろと拗らせていたんじゃなかろうか。
などと余計なことを考えていたところに、あどけない声が割り込んだ。
俯いて、なにごとか思案していたミシェルだった。
「仮にニーヤの説が正しかったとして……じゃあ、タカツグの言う“人生”とはなにを意味するのかしら?」
まるで自問するような口振りだった。
しかし、俺もその疑問に答えることはできない。
「わからん……もしかしたら、件の教師とやらが、なにか知っているかもしれない」
だからたしかめに行く。
獅賀貴嗣の恩師だという人物に。
できる限り、早く。
急がなければ――――おそらく“ヤツ”は、すでにこのことに気づいている。
◇
傾きだした日暮れの中、旧式のセダンが静かな街路を進む。
病院には、乗車できる人数の関係もあり、当事者の織目さんとミシェルに、地元の有力者の孫娘である霧小路さんと俺を加えた四人で向かうことになった。
運転席の小金井さんを含めば五名だが、
「……大丈夫。課題は解いた。私の役目は果たした。大丈夫、大丈夫、だいじょ……」
さっきから青ざめた顔でブツブツと謎の呪文を繰り返しているので、たぶん大丈夫じゃないだろう。小金井家の最長老との交渉は、俺たちで行わなければならないようだ。
彼女の顔も知らないが、いまからもう気が重い。
「小金井さんのお母さま……そんなに、怖い人……?」
「この反応を見る限り、かなり面倒そうではあるな……織目さんはなにか聞いてないのか?」
『いえ…………アンティーク関連でなら何人かお会いしたことはありますが、祖父が私的に付き合っていた方のお話は、あまり……』
期待はしていなかったが、やはり祖父の人間関係は把握していないらしい。
……それにしても、いつにも増して生気が乏しいな。
まさかまださっきのことを気にしているのか。
「タカツグは穏やかで温厚な性格だったけど、その反面、秘密主義的な思想もあったの。彼のプライベートに関しては、あの家の連中も詳しくは知らないはずよ」
断定する口ぶりでミシェルが言う。
こいつはこいつで、親しい相手とそうじゃない人間の落差がすごい。
「随分と獅賀の前当主に詳しいじゃないか。特別な思い入れがあるのか?」
「こっちにも事情があるのよ」
興味本位で訊ねると、ものの見事にはぐらかされた。
むっつりと真一文字に引き結ばれた唇は、その件に関して話す気はないという意思の表示に思えた。
事情か。彼女は織目さんの祖父に多少なりとも心を開いていたのだろう。その辺は呼び名でわかる。ミシェルは、自分が認めた者でなければ名前を呼ばない。
ただ、わざわざ掘り下げるような話題でもないことはたしかだ。
いまは他に集中すべき案件が目前に迫っている。
「……着きました」
病院の駐車場でエンジンを切ると、血色の悪い小金井さんが、いまにも倒れそうな声でそう告げた。
小金井さんの案内に従って、リノリウム貼りの通路を進む。
古くも新しくもない市民病院の廊下には、薬品とも消毒液ともつかない、医療施設特有のにおいが漂っていた。
「まずは私が先陣を切りましょう。新屋君たちは、しばらく経ってから入ってくだされ」
殿を任された兵士のような顔つきで、小金井さんが言う。
武者震いなのか全身が瘧のように痙攣しているが、そんなに激しく緊張して大丈夫なのだろうか。主に、血圧とか。前期高齢者の過剰な興奮状態に不安を覚える。
そんな俺の心配をよそに、悲壮な決意を固めた小金井さんは引き戸をノックした。
すこし間が空いて、中から『……誰だい』としゃがれた声が聞こえた。
名前と来訪を告げた小金井さんが「失礼します」と病室に入り、立ち尽くす俺たちの前で引き戸がゆっくりと閉まる。
『や、やあ、母さん……その、元気?』
『入院中の人間が元気なわけないだろッ、このボンクラが!!』
『ギャアアアアアアア!?』
罵倒とともに壮絶な悲鳴が響いた。次いで重いものが倒れるような音が聞こえたが、いったい中でなにが起きているのだろう。
怯えた霧小路さんが「……もう、入る……?」と訊ねてくる。「いや、しばらくって言ってたから、まだだろ」俺は首を振って答えた。『あ、あの……助けに行った方がいいのではないしょうか?』おずおずと織目さんが提言するが「やめなさい。この国では、内輪揉めに首を突っ込むと馬に蹴られるんでしょう?」とミシェルが呆れた溜め息をもらした。
それは他人の恋路を妨害した場合だと思うが、意見には全面的に賛成だ。
小金井さんの尊い犠牲を無駄にしてはならない。
所在なく佇む俺たちは、罵声と悲鳴が止むのをひたすら待った。
しばらくして出てきた小金井さんは「むしろこの人こそ病人なのでは?」と思えるほどやつれていた。血の繋がった母とのやりとりで、いったいどうすれば、シャツがほつれるほどボロボロになるというのか。
「…………お待たせ、しました……どうぞ」
現金な好々爺はもはや虫の息であった。
頭の中に警鐘が鳴り響いているが、いまさら逃げるわけにもいかない。
開かれた扉から病室に入る。
がらんとした個室だ。骨折で入院したからか、点滴の類も見当たらなかった。
恐る恐る足を進めると、ベッドから半身を起こした人物と――目が合った。
瞬間、自然と背筋が伸びた。
周囲からも強張ったような空気が伝わってくる。
なぜかはわからない。ただ、気がつくと身体が勝手に緊張していた。
枯れ枝のような細い腕。入院中だというのにきっちり結われた髪は見事な白色で、皺だらけの顔の中に、頑強な意志を感じさせる眼差しが鋭く尖っている。
……なるほど、この人は怖い。
それはまさに、厳格な教師の前に立たされた素行不良の生徒の心持ちだった。
こちらを睥睨した老婆は、ふんとつまらなそうに鼻を鳴らす。
「アンタかい。あのふざけた童謡の仕掛けを解いたってボウズは」
年輪を重ねた声だ。嗄れて、けれど芯の通った声。
詰問するような口振りに、反応が遅れた。
さらに鋭く睨まれた気がして、慌てて頷く。
「そ、そうです……急に押しかけてしまって、すみませんでした。俺は新屋暁彦と言います」
「紋切り型の謝罪なんざいらないよ。さっさと用件を言いな。アタシは暇じゃないんだ」
バッサリ切られた。
これが素なのか、それとも機嫌が悪いせいなのか。いずれにせよ俺たちは歓迎されていないのだろう。初対面の赤の他人だし、ここが病室なことを考えれば、当然ではあるが。
ただ、こちらも時間が押しているのは事実だ。
余計な手間が省けたと思うことにして、俺は率直に目的を告げた。
「今日は訊きたいことがあって来ました……獅賀貴嗣という人物をご存知ですか」
視線が険しさを増す。
なんだ? 気に障ることでも言ったか、俺は。
「……またあのバカタレ絡みの客かい。死んでからもロクなことしないね、アイツは。とんだ置き土産を残してくれたもんだ」
背筋が冷える。うしろで誰かの息をのむ音が聞こえた。
その言葉だけでわかった。
……来たのだ。
織目さんの兄――――獅賀明臣が、ここに。
「あの! その人、いつ来ましたか!」
「三日前だよ。突然連絡もなく押しかけて来たんだ。アンタらも大差ないが、人様の迷惑ってもんを考えないのかねえ」
チクチクと刺されるが、釈明する余裕もない。
すでに敵は動きだしていた。それも、こちらが気づくよりずっと早く。
当り前だ。あいつには情報収集のアドバンテージがある。祖父の交流を調べるぐらい、遺品を探ればツテはいくらでも見つかるだろう。
……自分の考えの甘さに苛立ちが湧く。
わかっていたはずだ。最初から不利な勝負だと。
駄目だ。冷静にならないと……そう言い聞かせても、火のついた焦燥はジリジリと言いようのない不安を増長させ、まるで鎮まる気配がない。
「先に言っておくが、アタシはなんにも知らないよ」
そんな言葉で、我に返る。
いま、なんて言った。
……知らない?
「え……」
「当たり前だろう。どうしてアタシが、教え子の遺言なんざ預からなきゃいけないんだい。順番も守れないような大バカの世話を焼くほど耄碌しちゃいないよ。そんなふざけた理由で訪ねて来たら、おもいっきり尻を蹴りあげてやる」
不機嫌そうな顔からは、いっさいの心情が読み取れない。
どっちだ。この人は、本当に知らないのか。
思考がカラカラと空回る。
なにかを掴めそうな予感は、熱を失くして完全に霧散した。
「ああ、だが……一つだけ忠告しておいてやろう」
呆然としながら、まっすぐ向けられた指先を見た。
皺の寄った口端が、皮肉げに吊り上る。
「アンタじゃあ、正しい答えは見つけられないよ」
その言葉は、まるで呪縛みたいに。
停止しきった心に、真っ黒な影を伸ばす。
「そ、それは、どういう……?」
「言ったままさ。そっちの事情なんて知らないが、こっちは長らくガキどもの顔を見てきてるんだ。考えてることぐらいだいたい読める。
新屋といったか……アンタ、いまは誰のために動いてるんだい」
意図のわからない質問だった。
……誰のため?
そんなこと決まってる。
俺は――――
――……声が、出なかった。
息が苦しい。
心臓が、壊れそうに脈を打ちはじめた。
鈍痛を感じて胸を押さえる。
しかし一向に、その疼くような痛みが遠ざかることはなかった。
「人は生きてりゃ誰だって大きな決断を迫られる。そういう時、最善の道を引き寄せられるのは、迷いを振り切ったヤツだ。思いきりの悪いヤツはいつも中途半端なところで挫折する。
その点、獅賀の坊々には迷いがなかった。アイツはいずれ欲するものを手に入れるかもしれないね。それが良いことか悪いことかは知らないけど。
……だが、アンタにはそういった“軸”が見えない。
それじゃあ失敗する。断言してもいい。このままじゃアンタ、いつか取り返しのつかない失敗を犯すよ」
理解できない。
言葉の意味はわかるのに、頭がそれを受け入れようとしない。
考えがまとまらず、空気のように立ち竦む俺に――容赦なく時間切れの宣告が下された。
「……用が済んだらさっさと帰りな。アタシはこれから不味い夕食の時間なんだ。部外者に居座られたら迷惑だよ」




