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獅子とアンティーク  作者: 結木さんと
第7章 ふたごの月
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ふたごの月 8







 最後の準備を終えて家の中に戻ると、全員の待ち侘びたような表情に出迎えられた。


「遅いよ、アキにぃ」

「仕方ないだろ。廊下が入り組んでるせいで、どこに行くにも遠いんだから」


 文句ならこんな仕事場を建てた澤切慈天に言ってほしい。

 おかげでこっちは無駄に歩き回らされているのだ。


「なあ、兄ちゃん……月なんてどこにあるんだ? 本当にここなのか?」


 いまだに信じられないという様子の達矢が問いかけてくる。

 隣の弟も半信半疑の面持ちだ。

 ……そんな孫たちを小金井さんは余裕のある顔で見ているが、おそらく先に答えを知っていなければ同じような反応を示しただろう。

 実際、自分でたしかめるまではずっと疑うような目を向けていたのだ。


 祖父の現金な性格は確実に孫へと受け継がれている。

 なんだか微妙な遺伝だ。


「見ればわかるよ」


 短く返して、壁に手を当てる。

 下方には桜を模した“花”の絵。

 木目とシミの浮かぶ古い壁は、暗い色の木材で構成されていた。


 ――だが、この部屋には扉がない。


 トリックハウスに散見された、用途不明の小さな空間の一つだった。

 乾いた木肌の無愛想な手触りを指先でたしかめるように撫でる。

 一拍の呼吸のあと、俺は弁論をはじめた。


「さっきの続きだ。月があるのはこの“花”が描かれた部屋。『ふたごの月』だと、仲間はずれがいれば手が届かないと言われている」


 場の意識がこちらに集中する。

 四月から騒動に巻き込まれ続けたせいか、もうこんな状況にも慣れてしまった。


「考慮すべきは、澤切慈天の息子が小金井兄弟と同じくらいか、あるいはもうすこし小さかったこと。そしてこの部屋が窓のない、取りつけられた妙な煙突以外は完全に外界から隔離された密室であることだ」


 その説明で、大和がふと思いついたような顔をした。

 居間での反応を鑑みると、『ふたごの月』の正体に気づいたのかもしれない。


「暁彦、それって……」

「丁度いい。先に見てみるか?」


 大和なら背も足りるだろう。桂姉や織目さんは余裕で届く……霧小路さんでギリギリといったところか。

 好奇心を疼かせたような旧友に、俺は壁の一部を指し示した。


「ここに目を当ててみろ」


 指で触れた場所には、木目に紛れて小さな穴が開いている。

 すでに俺やミシェルたちは確認済みだ。

 大和がゆっくりと覗き込んだそこには――


「うわ…………こ、これはすごい!」


 興奮した声が上がる。

 ……傍から見ると絵面が非常にアレだが、まあその気持ちはわかる。

 しばらく部屋の中を眺めた大和は、ようやく身体を離して、こちらを振り向いた。


「――“プラネタリウム”だね、これは!」


 喜色に満ちた表情で告げる。

 そう。最初に見た時、俺も同じものを思い浮かべた。

 あるいは――「万華鏡」がこの仕掛けを表現するにはふさわしいか。


 煙突のように見えた幅広い筒は、排気ではなく「採光」こそが真の役割だった。

 極めて小さな部屋の、こちらから見て対面の壁には鏡が貼りつけられ、それ以外の真っ黒に塗り潰された壁と天井には、暗闇で光る無数の星が埋め込まれている。

 採光口の傾斜は陽射しを取り込むためのものだ。

 位置からして季節は夏。夕暮れの手前に差し掛かった穏やかな光は、筒を潜って小さな部屋いっぱいに降り注ぐ。

 そして鏡に映る景色の中心に、一際大きな二つの月が輝いていた。


 ――それは人工的に作られた“星空”だった。


 現実では有り得ない……『ふたごの月』を抱いた、幻想の夜の空。



「ちょ、あたしも見たい! アキにぃ!」

「はいはい」


 両手を挙げた蕗を後ろから持ち上げる。

 陸上で引き締まった体型をしているわりに、Tシャツの生地越しに伝わる肌の感触はいかんとも言いがたく柔らかい。

 ……こいつ、そういえば中学生なんだよなあ。

 身内でもたまに忘れそうになるけど。

 ミシェルの時に同じ方法をとろうとしたら、また蹴られたあげく問答無用で馬にさせられた上、躊躇なく背中に乗られたんだが……。

 羞恥心をどこかに落としてきたのかもしれないわが妹は、赤ん坊を高い高いするような格好で抱え上げられて、しかし微塵も気にせず「ふわぁ」と感動したような溜め息をもらす。

 さっき見た時はぼんやり明るくなる程度だったが、陽射しを吸収したいまは、もうすこしはっきりと光を発しているだろう。


「ねえ、あれなに? あの青白く光ってるやつ!」


 大和と同じく頬を紅潮させた蕗が気勢よく訊ねる。

 答えたのは、ソレの情報をよく知るミシェルだった。


「――『蓄光(ちくこう)ガラス』よ。紫外線を吸収・蓄積して、暗闇で発光する素材を練り込んだ人造石。塗料は時計の文字盤や避難経路の目印に使われる。当時はまだラジウムを使っていたはずなのだけど、それが検出されなかったとすれば新素材の可能性もあるわね。『商会(ウチ)』の研究部が興味を持ってたわ」


 詳細に説明された蕗がぽかーんとした顔をしている。

 たぶん、ミシェルの見た目と知識量のギャップに慣れていないのだろう。俺だっていまだに違和感がある。さっきどこかに連絡した時も、フランス語らしき会話はまったく聞き取れなかったが、せいぜい確認する程度のやりとりしかしていなかった。

 織目さんといい、『商会』に連なる人間はみんなこうなのか。


「それにしても、暁彦もよく思いついたもんだね、こんな部屋があるなんてこと。いったいどこで気づいたんだい?」

「どこと言われてもな……小金井さんが澤切慈天の作品について話したのを覚えてるか? その時、夜になると目が光る彫像がどうこう言ってただろう。思いついたのは問題文の解き方がわかったあとだが、室内ならこういう仕掛けもあるかと思ったんだ。ミシェルに蓄光塗料の存在を教えられるまでは確信すらなかったぞ」

「えー……またあやふやな判断だねえ。いやはや暁彦らしいというか、いまいち締まらないというか……」


 うるさいな。仕方ないだろう。

 何度も言うが、俺は天才じゃない。

 基本的に運頼りの一般人に、過分な期待をすることが間違ってるんだ。


「兄ちゃん! オレにも見せてくれよ!」


 見ると、達矢がうずうずした表情を浮かべていた。

 そのうしろには、ふてくされながらもこちらを盗み見る弟の姿もあった。

 理屈っぽいやつだが、どうやら天体関連に興味があるらしい。さっきも星座の話だけはやけに饒舌だったしな。

 態度は違えど純粋な期待を抱く兄弟に、俺は笑って、


「お前らは駄目だ」


 小さな目が落っこちそうなほど開かれる。

「え……」と声をもらした達矢は、自分がなにを言われたのか理解できないように、その表情のまま硬直してしまった。


『に、新屋さん!』


 慌てて織目さんが駆け寄ってきた。

 この圧迫感だけは、いつまでも慣れそうにない。


『ど、どうしてそんな意地悪をするんですかっ?』

「失礼な。別にいじめるつもりなんてない」

『ですが……』

「そうだよ。大人げないよ、アキにぃ」


 蕗まで参戦して非難の目を向けてくる。

 思わず溜め息が出た。

 せめてもうすこし考えてくれないか。ここから先は俺が答えるわけにはいかないんだ。


「童謡をよく思い出しなさい」


 ふいに、予想外の方向から援護が入った。

 驚いて目を向ける。

 そこには、いかにも不機嫌そうなミシェルの顔があった。


「え、えっと……それは、どういう……?」

「まったく」


 嘆息して彼女は言う。


「……せめて最後は自分で歩いてみなさいな。これはあなたたちの問題なのだから。いつまでもママの手にしがみついている坊やに、女はなびかないわよ」


 ミシェルが真正面からブッ刺した。

 研ぎ澄まされた鋭い一撃に、胸を押さえた双子の表情が絶望に染まる。

 ……その、だからもうすこし手心を。

 そもそも横から割って入ったのは俺たちの方で、根本的な悪因はヒントの一つも出さなかった小金井の大婆さんなんだから。


「じ、自分でがんばります……っ!」

「ええ。そうしなさい」


 しかし、なんとか兄弟は持ち直した。

 達矢は腕を組み、和磨は顎に手を当てて考えはじめる。

 ……もしかして激励になったのか? あれで。

 本人はさながら冷厳な女主人のごとく、信徒と化した二人を眺めているが。


 なんにせよ、自分で考えてくれるなら助かる。

 むしろそうしてもらわないと困るのだ。

 小金井兄弟が自力でこの答えに辿り着くことが、たぶん課題の目的だと思う。


「ふたごの月……仲間はずれ……」

「高くて、手が…………あ」


 やがて、和磨が小さく声をもらした。

 どうやらなにか思いついたらしい。

 口を半開きにした弟は、戸惑うような顔で兄を見た。


「? なんだよ?」

「あー……いや、その……」


 月を見る手段に気づきはしたが、まだ踏ん切りがつかないらしい。

 そうだろうな。あれだけ張り合ったあとだ。それをすんなり実行するには、どうしても幼いプライドが邪魔になる。

 澤切慈天の息子たちはどうだったのだろう。

 やっぱり素直になれず、いくらかは葛藤したのだろうか。


 膠着した状況を動かしたのは、「ああ!」と声を上げた達矢だった。

 どうやら遅れて気づいたらしい。すると弟よりもストレートな性格の達矢は、迷わず覗き口の下でしゃがんでみせた。


「に、兄さん……」

「おい、早く乗れよ。見たいんだろ?」


 なんでもないように達矢が言う。

 先を譲ったのは、弟が天体好きであることを知っているからだろうか? ……そんな風に考えるあたり、俺も澤切慈天の願いに毒されたのかもしれない。

 達矢は弟の和磨よりも幼かった。

 しかし、それは美徳となり得る素直さでもあるのだろう。

 他意もなく促された和磨は、気恥ずかしそうにしながらも兄の肩をまたぐ。


「ゆ、ゆっくりだよ」

「わかってるっつーの」


 素っ気ない口振りとは裏腹に、達矢は慎重な動きで立ち上がる。

 澤切慈天が童謡の歌詞に隠した指示――――弟を“肩車”した兄は、ゆっくりと月が見える場所まで送り届ける。


「――……わあ」


 それは、吐息に近しい、感嘆の声。

 小さな部屋に広がる宇宙は、素直になれない子供の心も掴んだようだ。

 目をキラキラと輝かせる弟の足下で、土台になった兄が「にしし」と笑う。


「なるほど、そういうことか」


 隣の大和が納得したようにつぶやいた。

 そう。

 これこそが、かつて詩人が望んだ結末なのだろう。


「……澤切さんは、兄弟を仲直りさせたかった?」

「たぶんな。元気な兄と身体の弱い弟じゃ行動の範囲がまるで違う。テレビやゲームなんかの娯楽でもあれば別だが、昭和の初期頃にそんなものは当然ない。……言ってみればこれは、二人が歩み寄る場所を作るための舞台装置だったんだろうな」


 もしかすると、その病弱だったという弟も、和磨のように星が好きだったのかもしれない。

 現代よりも「死」が間近にあった時代。

 体調を崩しやすい身体では、きっと満足に夜空を眺めることも許されない。


「おい、もういいだろ。交代しろよ」

「も、もうちょっと……うわあ、ちゃんと夏の大三角形もある」

「重いんだって! 降りろバカ!」

「ひいっ!? あっ、危ないじゃないか!? 揺らさないでよ!」


 賑やかな双子を見て、思う。

 ……澤切の子供たちも、こんな風になれたのだろうか?


 詩人は覚悟していたのかもしれない。

 やがて訪れるその日を。

 怒って。笑って。ケンカして。

 どこにでもいる、普通の兄弟になって。

 すれ違い続けた兄と仲直りした弟は、そのしあわせな記憶を抱いたまま――



 ――――袖を引かれた。

 目を向けると、ライオンの黒い双眸と視線がぶつかる。

 もの言いたげな織目さんは、けれど声を発することなく、手のひらをぎゅっと握りしめた。

 ……いかん。つい感傷的な気分になってしまった。

 慌てて意識を引き戻すと、蕗や桂姉までもがこちらを見ていることに気づいた。

 不安そうに眉尻を下げた表情に苦笑する。

 ただの憶測だというのに、われながら馬鹿な話だ。


『新屋さん、あの……』

「違う。……いや、違わないが、大丈夫だ。できれば見なかったことにしてくれ」


 気遣うような声を遮った。

 なんて間抜けな自爆。

 澤切の子供の気持ちなんて、それこそ確証もない妄想じゃないか。

 俺は気まずさをごまかすように首を振る。

 視線を周囲から逃がして、くすんだ古壁に向き直った。


 かつて、変わり者の詩人とその息子たちはここで同じ時間を過ごした。

 幻想の夜空を閉じ込めた部屋。

 外界から隔離された小さな空間には、いまも変わらずに輝くふたごの月が浮かぶ。


「……ちゃんと生きてるぞ、あんたの“想い”は」


 そんな、意味のないつぶやきを。


 誰にも聞こえないよう、ひそかに声に乗せて、この騒動の幕とした。



        ◇



「いやー、助かりました! 新屋君たちにはなんとお礼をしていいやら!」


 憑きものでも落ちたような顔の小金井さんが、大口を開けてがははと笑う。

 ここに来たばかりの時とはえらい違いだ。

 盛り上がるのはいいが、この現金な老人は肝心なことを忘れていないだろうか?


「……では、お母さまに、会える?」

「はっ!? あ、ああ…………そう、ですな」


 テンションが急落した。

 この表情、どこかで見たなと思ったら、月曜の朝の会社員が同じような顔をしていた。

 さながら絞首台に向かう囚人のごとき有り様である。


「連絡……いや、大丈夫。課題はクリアした…………すくなくとも、怒られることは……」


 ぶつぶつと暗い声をこぼしながら、ケータイを手にした小金井さんがどこかに消える。

 あのまま失踪しそうで怖いな。六十過ぎの老人が、母親に怒られることを恐れて家出するのは、字面だけでもちょっと悲し過ぎる。


「なあなあ、兄ちゃん。大ばっちゃの宝物、見てみる?」


 手持ちぶさたになった俺に、達矢がそんな提案をしてきた。

 課題を解決してからというもの、俺はなぜかこの双子の兄に懐かれている。

 ……なにか好かれるようなことをしただろうか?

 弟の方には、ひたすら遠くから警戒するような視線を送られているので、その可能性は薄そうだが。


「宝物って……北原白秋がどうとかいうやつか?」

「うん! よくわかんねーけど!」


 お前はそうだろうな。

 かくいう俺も大して詳しくない。せいぜい教科書でちらっと名前を見たぐらいだ。

 さて、どうするか。

 遊んでいる暇はないが、邪険にするのも少々心苦しい。

 あの様子だと、おそらく小金井さんが戻ってくるにはまだ時間がかかるだろう。


「そうだな。すぐに見られるなら、お願いしようか」

「大丈夫! オレ、大ばっちゃが金庫開けてるのこっそり見てたから、番号覚えてるんだ!」


 ……それは他人に見せるとマズイのではなかろうか?

 瞬時に不安が湧き上がったものの、勢いのついた野生児は止まらない。

 仕方なく、全員で兄のうしろに続いた。


「大ばっちゃはさ、オレたちが宿題を解けたら、宝物を売って好きなものを買っていいって言ってくれたんだ」

「それはまた、随分と気前の良い話だな」

「だろー? ……オレ、もらったおこづかい全部で、うまい棒を買いしめるんだ」


 俺は織目さんに顔を向けた。


「……その白秋の初版本とやらはいくらなんだ?」

『え、えっと……状態にもよりますが、相場では六十万円ほどかと』


 小金井兄弟の住む街から棒菓子が姿を消しそうだ。

 ついでに和磨にも使い道を訊いてみると、


「屈折望遠鏡が……ほしい、です……」


 ここまで警戒されるとさすがに悲しくなるな。

 どちらかといえば、致命傷を与えたのはミシェルの鋭利な毒舌だと思うのだが。

 ままならない現実を嘆いているうちに、大ばあさんの私室だという部屋に辿り着いた。


 遠慮なく(ふすま)を開けた達矢は、一直線に重たそうな金庫の元に向かい、ジリジリとダイヤルを回し始めた。

 ほどなくして分厚い扉が開き、中から箱に納められた書物が取り出される。


「はい、これ」


 もはや自分の所有物であるかのように気安く手渡されたが、どうしたものか。

 とりあえず紐を解いて開封すると、なにやら古びたケースが見えた。

 へえ、こういう形状なのか。時代性を鑑みるに、和綴じの本を想像していた。

 厚紙らしき箱に布製らしき背表紙。歴史を感じさせる色の褪せ具合だが、それがかえって高価そうに見えて、手を出すのを躊躇ってしまう。


『白秋の処女詩集は、当時の出版物でもとりわけ装丁が豪華なことから、蒐集家の方にも人気があるんです』


 なるほどな。言われてみれば、なんとなく贅沢な作りのような気もする。

 受け取ったはいいものの、これを見て感想を述べるようなセンスが俺にはない。

 早々に専門家とバトンタッチすることにした。


「ほら」

『え? あ、はい……では――――遥か遠き昔日のカケラを、拝見いたします』


 とくに鑑定の必要もないとは思うが、儀式のようなものなのだろう。

 いつものように手袋をした織目さんは、恭しく詩集を手に取ろうとして…………硬直した。


「? なんだ、どうした?」

『いっ、いえ!? な、なんでもありません……』


 本当にどうした。

 慌てふためいた織目さんが慎重にページを捲る。

 ああ、あれが小金井さんが言ってた北原白秋のサインか。やけに力強い字で……なんだ。織目さんの肩が震えだしたぞ。


 まるでイタズラが見つかった子供のような態度に、さすがの俺も勘づいた。


「織目さん、まさか……」

『………………す、素敵な、本だと思いますっ』

「おい、無理するな。声が裏返ってるぞ」


 詰め寄ると、絶望的に嘘が下手な織目さんは、詩集を手にしたまま項垂れた。

 その姿は二時間サスペンスの終盤で追い詰められた犯人を彷彿とさせる。

 どこからかもの悲しいバラードが聴こえてきそうだ。


『……この詩集は、ケースと表紙以外はすべて偽物です。サインも白秋本人のものとは似ても似つきません……おそらく、まともな売り値はつかないかと』


 しん、と部屋の中が静まり返った。

 まさかの事態に、誰も反応が追いついていない。

 ということは、あれか。小金井の大ばあさんは、粗悪なレプリカを後生大事に保管してきたってことか? ……いや。

 ふと、ある可能性が浮かんだ拍子に、詩集からひらりと小さな紙片が落ちた。

 畳に着地したそれを取り上げる。

 まだ新しいメモの切れ端には、やたらと流麗な文字が記されていた。


“そう簡単に金が手に入ると思ったら大間違いだよ”


 それは疑いようもなく二人の曾祖母が仕込んだものだった。

 もはやなんの言葉も思い浮かばず、愕然とする兄弟にその紙面を見せる。

 限界まで開かれていた顎が、さらに一段ガクンと落ちた。


「な、なな…………なんじゃそりゃあああああああ?!」


 心情的にはさもありなんといった兄弟の絶叫が、家中に響き渡った。



        ◇



 小金井さんが居間に戻ってきた頃には、悲惨な顛末の動揺も多少は落ち着いていた。

 気のせいだろうか。

 電話を終えた小金井さんが、さっきよりも十歳ほど老けこんで見えるのは。


「病院に連絡がとれました……ですが、現在の母は猛烈に機嫌が悪いそうで」

「なにかあったんですか?」

「どうも今朝の食事で、母の嫌いなニンジンが出たらしく…………面会は可能ですが、会えば身の安全は保障できないと病院の先生から忠告を受けました」


 猛獣の子供か。

 厄介すぎるだろ、小金井の最年長者。


「どうする? アキにぃ」

「うーん……」


 俺は呻きながら手の中の紙片に目を落とす。

 性根のひねくれた、いかにも面倒くさそうな文言が視界に飛び込んできた。

 ……はたしてこの老婆に会ったとして、素直に情報をよこすだろうか?

 病院までは車で二十分ほどの距離らしいが、無駄足になるとわかっていれば往復の時間が惜しい。

 いまは午後の五時をすこし回ったところ。

 話を聞いて帰ってきたら、それで今日はもうタイムアップだ。

 しばらく考えて、


「……面会は明日でも大丈夫ですか」

「ええ。私もその方がいいと思います。いまの母は、おそらく誰の話も聞かんでしょうから」


 どこかホッとしたように小金井さんが頷く。

 くそ……思うようにいかない。なにもかも。


 焦れば正道を見失うことも理解しているが、こちらに余裕がないことも事実。

 刻一刻と迫る期限が、重圧となって肩に喰い込んでくる。

 とはいえ、いまは探すしかない。

 獅賀貴嗣の遺志につながる道を。

 ――その先に、一人の少女を救う未来があると信じて。


 頭を一つ振る。

 俺は澱む感情を鎮めるように、深く息を吐いた。





 水田を見下ろす道を、沈黙したまま歩く。

 結局、得られた手がかりはなかった。一応は明日に希望をつないだかたちになるが、そこで有益な情報が出るかはわからない。

 息苦しさを感じる。

 チリチリと、透明な紐で首が絞まっていくような。


「……大丈夫?」


 意識が浮上する。

 声がした方を向くと、こちらを覗き込む霧小路さんと目が合った。


「あ、ああ……考えごとしてた」

「根の詰めすぎは、よくない。頭が疲れて、ちゃんと働かなくなる」


 ぐうの音も出ない。

 まったくもって正論である。

 真摯に見つめ返してくる瞳に根負けして、肩から力を抜いた。


「……わかった。ちょっと休憩だ」

「それが、いい」


 霧小路さんは無表情のまま頷いた。

 ミシェルといい織目さんといい、周りに強情な女が増えた気がする。蕗もそうだし、意外と桂姉も、ああ見えて折れない時は徹底して譲らない。

 なにかそうなる要素があるのか。

 女性は慎ましく従順である方がいい、などと古くさい考えを持ち出すつもりはないが、このままだと自分の裁量が完全に消失しそうな気がして、すこし不安になった。


「美味しい山の幸を食べて、温泉にゆっくりつかれば、悩みも小さくなる」

「まあ悩みの解消は、俺より必要な人がいると思うが……随分とその天然温泉とやらを推すんだな。そんなにいいのか?」

「自信、あり」


 ぐ、と親指を立てる。

 変わらない無表情との対比がなんともシュールだ。

 しかし、温泉か。

 そのためにわざわざ遠出するほどではないが、ついでに気安く入れるのなら行ってみたいとは思う。

 などと現金な考えの俺の隣に、ととっ、と大和が寄ってきた。


「温泉がメインの観光地ってことは、やっぱり入霞を堪能するには秋や冬に訪れるのが正解なのかな?」

「それもいい……けど、入霞の旬は、春」

「へえ、そうなんだ」


 頷いた霧小路さんは、山の裾を指差した。


「春の早朝、この辺りには、深い霧が立ち込める。日によっては、街を覆い尽くすほど……朝陽に照らされる一面の霞は、この世のものと思えないほど美しい。山頂からのその眺めが、地名の由来とも、言われている」


 ゆったりとしたペースで、けれど、歌うように彼女は言う。

 生まれ育った土地を案内するその声には、どこか誇らしげな雰囲気が滲んでいた。

 本当に好きなんだな。こうも熱の入った説明を聞くと、無粋な俺でさえその絶景を体験したくなってくる。

 そして、感化されたのは俺だけではないようだ。


「すごい……あたし、見てみたいです」

「あたしはごはんかなー。あ、いや、景色もいいんだけど…………どっちかと言えば、お肉が……」

「じゃあ、その時、また遊びに来てほしい」


 魅力的に響く提案に、中学生の二人は喜色満面で賛同した。

 まあ、いいか。今度はもっとちゃんとした土産を持ってこよう。

 明るくなった空気の中で――――――足を止めた。


 かちり、と音がする。

 それは誰にも聴こえない。

 ひどく、ゆっくりと。

 ぎしぎしと軋みながら。

 燃えるように速度を上げて。


 頭の片隅で……歯車が、回りはじめた音。


「……暁彦?」


 旧友が呼ぶ声にも反応を返せない。

 気がつけば俺は、道を逆行しはじめていた。


「ちょ、ちょっとアキにぃ! どこ行くの!?」

「戻ろう」


 手短に告げて、視線だけで振り返る。

 急がないと。

 待ち望んだこの衝動が、冷めきってしまう前に――――


「……たしかめたいことがあるんだ」


 吐き出した声は、自分でもたやすく認識できるほど、強張っていた。





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