オールドカメラは知っている
日ごとに陽射しが強くなっていくのを感じる。
天気予報を見る限り、今年はどうも空梅雨のようだ。
とはいえ長期の予報は毎度のごとく外れている印象なので、あまりあてにはならないが。
まだ人通りのすくない交差点に立って、ぼんやりと空を眺めているうちに、そんな益体のない考えを際限なく頭の中で繰り返していた。
つまるところ、俺は緊張していた。
とくに俺自身がなにかするわけでもないのだが、やはり話を持ちかけた立場としては気にしないというわけにもいかない。
目の前を通りすぎていく背広姿の会社員をなんとなく数えていると、こちらに急ぎ足で近づいてくる人影に気づいた。
商店街の時計を見る。時刻は待ち合わせの十分前。
早起きが習慣になっているせいか、俺が着くのが早すぎた。
『す、すみません! お待たせしました』
息を切らして謝るのは、おなじみライオン頭の織目さんである。
ギョッとした顔でサラリーマンたちが振り向く様子も、もはや見慣れた光景だった。
「大丈夫か? まだ時間はあるから、ちょっとぐらい休んでもいいが」
『だ、大丈夫、です……』
そうは言うものの、肩を上下させる姿はあまり大丈夫じゃなさそうだ。
その格好でよく走ったな。途中で酸欠にならないか心配になる。
胸に手を当てた織目さんの呼吸が整うのを待って、俺は目的地に足を向けた。
「それじゃあ、行くか」
どこか緊張した気配の織目さんがおずおずと頷く。
彼女は普段と同じ制服のブレザー姿。
そして俺も学校指定の制服に袖を通している。
この出で立ちで向かう場所は知れていた。
――今日、織目さんは高校入学以降はじめて、学校に登校する。
◇
何度もすれ違う人たちを驚かせつつ、辿り着いた校門の前にはすでに人の姿があった。
六十代頃の小柄な女性である。
しかしその堂々とした立ち姿は、年齢を感じさせない凛とした雰囲気が漂っていた。
「おはようございます。あなたが織目さんね? お会いできてうれしいわ」
溌剌とした声であいさつをする。
にっこりと笑うその顔を見て、ふいに『女傑』という言葉が頭に浮かんだ。
俺は何度か顔を合わせているが、どうもこの静かな迫力の前では自然と緊張してしまう。
それは織目さんも同じだったようで、慌てて深々と腰を折っていた。
『お、お世話になります……織目小夜子と申します』
「ええ、はじめまして。幸ヶ瀬高校の校長の山城です。三年間、よろしくね」
そう――この人は、俺たちが通う高校の責任者だった。
なぜそんな人物と、入学して間もない俺が知り合うことになったかといえば、原因はだいたい大和の軽口のせいなのだが、今回ばかりはそれが事態を前に進めるきっかけとなった。
単純に言えば、生徒の不登校問題をなんとかしたい学校と、織目さんの居場所を増やしたいこちらの思惑が概ね合致したということ。
とはいっても、彼女が学校生活を送るにはいくつか条件がつくのだが。
「さすがに覆面をつけたまま授業に出すわけにはいかないから、空き教室で個別指導を受けてもらうことになるわ。あと、単位が足りない分の補習も。詳しいお話はこれからするけど、なにか質問はあるかしら?」
『いいえ。お手数をおかけして、申し訳ありません』
「気にしないで。あなたの事情はある程度なら把握しているわ。ここは公立だし、青鷹館学院ほど厳しくもないから。織目さんのペースで学んでいけばいいのよ」
不思議な会話だった。
青鷹館学院とは、大鷹宮にある有名私立だ。生徒も裕福な家の子供が多いらしい。
まあ遠い又聞きなので、実際にどうかは知らないが。
話を聞いた時から、彼女が内部進学できなかった学校はそこだろうと予想はついていた。
その私立高でのことを、校長はなにか知っているのだろうか?
……あるいは、大鷹宮の名家だという獅賀家のことを。
ただ気にはなるが本人の前で訊ねるのも憚られる。
逡巡した俺は結局、聞かなかったふりで流すことにした。
いずれ時が来れば織目さんが話してくれるかもしれない。彼女の心の傷に触れる可能性がある以上、焦りは禁物だ。
「さて、それじゃあ職員室に向かいましょうか。新屋君も、織目さんを連れてきてくれてありがとう。助かったわ」
「あ、いえ……けど、本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫って、なんのこと?」
「その……彼女が顔を出さないまま、学校に通うというのは……」
信用していないというわけじゃない。
志摩木のじいさんとはまた違うベクトルで油断できない人だが、そう簡単に約束を反故にすることはなさそうだと思っている。どちらかといえば、山城校長はそういう姑息な小細工を厭うタイプの人物だろう。
しかし、だからといって学校全体がそうだとは限らない。
中には無理にでも彼女から面を奪おうとする教師もいるんじゃないか。
すでに話し合いも済んで、校長と教頭からは『あとはこちらに任せておけ』と言われているものの、いまだにその一点だけが気にかかっていた。
そんな俺の懸念に対し、山城校長はくつくつと喉を鳴らす。
「あなた、見た目によらず優しいのねえ」
……それはどういう意味だ。
これまで他人からさんざん言われてきたが、俺はいったいどんな風に見られているのだろう?
なんか急に気になってきたぞ。
「大丈夫よ。織目さんの授業は、私の方針にきちんと納得してくださっている先生方にお願いしてあるから。あなたたちはなにも心配せず、いましかない高校生活に思いきり取り組みなさい。もちろん、良識の範囲内でね」
こうもあっけらかんと背を押されてはこちらも頷くほかない。
まずこの場に管理職の校長が直接出てきたことにも驚いたが、どうやら肩書きが持つイメージよりも遥かに行動力のある女性のようだ。すくなくともこんな校長を俺は知らない。
なんにせよ出番はもうなさそうだ。
役目を終えた俺は、教室に向かうことにした。
『あ、あの、新屋さん!』
踵を返したところで呼び止められる。
……なんだ?
怪訝に思いつつ振り向いた俺の前で、彼女は勢いよく頭を下げた。
『本当に、ありがとうございました。このご恩は、一生をかけても必ずお返ししますから……』
切実な声が頭の下から聞こえた。
……一生ときたか。またえらく重い話になったな。
さて、どう答えたものだろう。
曖昧にはぐらかすのは不誠実すぎるし、そのまま受け止めるのも気が進まない。
しばらく考えて――結局、俺は先人の知恵を借りることにした。
「恩は返さなくていい。その代わり、誰かが困ってたら手を貸してやれ。……俺は、あんたに恩を売るつもりで助けたんじゃないからな」
たとえばそう、新屋のおじさんたちは、こんなことを言いたかったんじゃないだろうか?
真相はわからない。
いつか答え合わせができればいいと思う。
そして返事を聞いた織目さんが弾かれたように顔を上げて、俺はそれよりも早く背中を向けた。
さすがに、すこし気恥ずかしい。この手のセリフをさらっと口にするには、まだまだ人生経験が足りないようだ。
「……青春してるわねえ」
――死体蹴りやめてください校長!
冷やかすような声を黙殺して、俺は全力の早歩きで玄関口を潜った。
◇
早朝から騒がしい一日だったが、放課後になればさらなるミッションが俺を待っていた。
「ついに謎の美少女、織目小夜子さんとご対面かあ……いやー、わくわくするね!」
別にわくわくしないし、あの人は『謎の美少女』ってキャラでもない。
そもそもこいつは織目さんの素顔を知らないだろうに、なぜ美少女と決めてかかっているのか。
俺は向かいに座る大和を睨んだ。
「おい、なぜお前がここにいる。写真部はどうした」
ここは歴史研究部の部室である。他に資料室だとか物置という呼び方もある。
そして出された茶を満面の笑みで飲んでいるこの馬鹿は写真部の所属だ。
放課後になって部室を訪れると、なぜかこいつがすでに扉の前で待っていた。
紆余曲折あって俺が歴史研究部に入部したところ、やたら頻繁に顔を出すようになった大和は、霧小路さんが出すお茶を飲んで適当にだらだらして帰っていく。
いったいなにがしたいのか。
とりあえず邪魔だから帰れと視線で訴えてみたところ、やつは芝居がかった仕草でチッチッと指を振った。
――ブン殴ってもいいだろうか。
「わかってないなー、暁彦は」
「……なにがだ」
「たとえ登校してきた織目さんが入部したとしても、歴研の部員は三人。部の存続のためにはもう一人の生徒が必要だ。もし集められなければ、歴史研究部は今月いっぱいで廃部が決定してしまう」
「廃部」のくだりで霧小路さんの肩がビクッと震えた。
おい、あんまり脅かしてやるな。たぶん彼女は心臓が止まりやすいタイプの女子高生だぞ。
「そこで! この有栖川大和が! 広大な人脈をフル活用して! 部員を探してあげようかと思ったんだよね!」
自己主張がやかましいな、こいつ。
落ち目の芸能人か。
霧小路さんは感動したように両手を合わせているが……どうも疑わしい。
「で? 人材は見つかったのか?」
「それはまだ。うちもそうだけど、やっぱりマイナークラブの勧誘は難しいね!」
希望を断たれた霧小路さんがしょんぼりと肩を落とす。
わかりやすいな。基本的に無表情なのに。
俺は悪びれもせず笑う大和に重ねて訊ねた。
「……それで、写真部でなにがあったんだ?」
大和が笑顔のまま硬直する。
気づかないと思ったのか?
こいつは昔から上手くいかないことがあるとあちこち逃げ回るのだ。
お互い様だろうが、昔なじみの行動パターンなどだいたい把握している。
「実は、活動謹慎中なんだよね……」
溜め息まじりにそんな答えが返ってきた。
「写真部が、謹慎……?」
霧小路さんもよくわからないようで、首を傾げている。
俺も写真部にはおとなしそうなイメージを勝手に抱いていた。
これがプロ志向だとか鉄道写真のマニアとかだと話は変わってくるが、所詮高校のローカルクラブ程度でそんな奇抜な者もいないだろうと高を括っていたのだ。
「……うちの部活も、ちょっと変わってるからね。とくにいまの副部長が強烈でさ。県の学生コンクールなんかで入賞しちゃうような実力者なんだけど、選ぶモデルが…………なんというか、ちょっと幼なめの子供ばっかりで……」
そうか。できるだけ写真部には近寄らないようにしよう。
その条件で俺に被害はないだろうが、本物の変態には触れない方がいい。下手したら巻き添えをくらう危険性だってある。
こいつが言い淀むなど、その先輩はよっぽどアレな人なのだろう。
「この前、近隣の幼稚園から苦情が入ったらしくてね……それで活動停止に……」
「むしろよかったじゃないか。その程度で済んで」
字面だけなら一発レッドが飛び出してもおかしくない案件だ。
というかもう廃部にした方がよかったんじゃないだろうか?
よくあの校長がそんな部活の存続を許したな。
「ま、元から常にみんなで集まって行動するような部活じゃないんだけどね。それでも部室を取り上げられたら機材も持ち出せないし、ほとぼりが冷めるまではおとなしくしておこうってわけ」
まあお前はまったくおとなしくしているように見えないが。
暇なら帰ればいいのに。
「新屋くん……織目さんが、そろそろ」
「ん? ああ、もうそんな時間か」
呼びかけられて時計を見た。
たしかにもうじき織目さんの補講が終わる時刻だ。
今日は、登校初日の彼女をここまで案内する約束になっていた。
「それじゃあ行くか」
椅子を引いて立ち上がる。
さて、全員で迎えに行ったら、織目さんはどんな反応をするだろう?
すこしだけ、そんな好奇心がわいた。
◇
言い訳が許されるのなら――俺はどこになんの部室があるのか、まだ完全には把握していなかった。
知っていれば遠回りしてでもこのルートを避けたと思う。
入学から二ヶ月とちょっと。授業や新しいクラスになじむのに必死で、さらには予想外の問題が積み重なってきたこともあり、学校の構造を知り尽くすには少々時間が足りなかった。
「み、密室事件だああああっ!?」
あと、うっかり足を止めてしまったのもよくないと思う。
階段を降りてすぐにそんな悲鳴が聞こえて、ついそちらを向いてしまった。
「ヤバイっす! 事件っすか! ついに、あーしらの高校で殺人事件っすか!?」
「違うぞ! 星崎君よく見たまえ! 人は死んでいない! ……あと“ついに”って、いつかは起こると思ってたのかい?」
「なーに寝ぼけたこと言ってんですか部長! どこの高校でも最低一回は密室殺人が起きてるんすよ!? あーしはテレビで見たから知ってるんす!」
……いろんな人がいるな、この高校は。
プレートに『物理科準備室』と書かれた部屋の前で、背の高い眼鏡の男子生徒と制服を大きく着崩した派手な女子生徒が、なにやら珍妙な漫才を繰り広げていた。
いかにも模範生徒といった出で立ちの男に比べて、女子生徒の方は金髪に濃いメイク、複数のピアスやアクセサリーと、どう見ても校則違反を免れない風体である。
外見だけなら接点など生まれなさそうな二人だが、先輩と後輩だろうか?
彼らがどうやって知り合ったのか、ちょっとだけ気になった。
――が、俺たちには用事がある。
織目さんを迎えに行くという、大切な用事が。
俺は呆けている霧小路さんと大和の肩を叩いて、急いで方向転換した。
さあ行こう。ここにいちゃいけない。
頭の中で鳴り響く警鐘に従い、即座に退避しようとしたところで、
「ああっ!! 怪しいヤツらを発見したっす! そこの逃げようとしてるオマエ、待てコラァァアアア!」
背後から派手な女の声が響いた。
くそっ、気づかれたか……!
ここのところ女に襲撃されてばっかだな!
「ほ、星崎先輩! おれです、有栖川です!」
「あん? ……あ、ヤマッピじゃん! おっつー」
俗に言う「ギャル」な見た目の女子生徒が、態度をがらりと変えて、そんな気安げなあいさつをした。
……どういうことだ?
「紹介します。こっちはおれの同級生の新屋と霧小路さん。それと、この二人が写真部の部長と副部長、戸森先輩と星崎先輩だよ」
大和が間に立って紹介を済ませると、星崎という先輩がにへらと相好を崩した。
「なーんだ、ヤマッピのトモダチかあ。あーし、すっかり連続猟奇殺人犯だと思ってデスロールの準備しちゃってたよ」
怖いよ。殺すつもりか。
あと容疑が山盛りで増えてる。
もはやどこからつっこめばいいのかわからない。
「つーか、そっちの女の子めっちゃカワイーじゃん。もしかしてー、ヤマッピの彼女?」
「ち、違いますよ……おれが心に決めた人は、この世界にただ一人だけです」
「ヒューッ! 一途だねえ、ヤマッピ! かっくいー!」
声優な。あのラムニーとかいう。
本気で言ってるのだろうか?
どうもこいつの性格上、発言を素直に信用できないんだが。
「それで星崎先輩、なにかあったんですか?」
「あーっ! そうそう、大事件! まじでヤバイ!」
再びギャルの先輩が騒ぎはじめる。
おのれ大和、余計なことを……。
「……新屋くん」
なんとか逃げ道を探していると、隣から袖を引かれた。
困り顔の霧小路さんだった。
彼女は普段よりもさらに小さな声で囁く。
「話は聞いておくから……織目さんを、迎えに行ってあげて」
お。なかなかナイスな提案…………でもないか。
それだと結局はここに戻ってくることになる。
なんとか全員で(最悪の場合は大和を生け贄に捧げて)、この場から退避したい。
思考をフル回転させて手段を探す。
だが、現実はあまりにも非常だった。
『……新屋さん? こちらにいらしたんですか』
背後から、耳になじみのある声が届いた。
気づいてはいた。こちらを向いた星崎先輩たちの表情で。
写真部の先輩二人は、ここのところよく目にする、未確認生命体と遭遇した人間のような顔をしていたから――――
『よかったです、行き違いにならなくて。方向感覚にはあまり自信がありませんので』
「織目さん……久しぶり」
『あ……霧小路さん、ですね? ごぶさたしております。お変わりありませんか?』
のんきに再会を喜ぶ女子二人のそばで、俺は全身から力が抜け出ていくのを感じていた。
……もうだめだ。なにもかも。
織目さんが来たおかげで、ここから逃げきれる可能性は格段に下がった。
朝まで時間を戻せるのなら、あんなことを言った自分をブン殴ってでも止めたい。
『それで、新屋さんたちはここでなにかされてたんですか? 教えていただいた部室の場所とは、階が違うようですが……』
呆気にとられていた星崎先輩が、その質問で三度目の勢いを取り戻した。
濃いアイラインとまつ毛に彩られた瞳が、火を点したように輝く。
ああ、もう……。
「そう! ヤッバイ事件だよ! 鍵の閉まった誰も入れない部屋でさ、部長の古〜くて貴っ重〜なカメラが壊されてたの!! ――密室殺人! 死んだのカメラだけど!」
――――終わった。




