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獅子とアンティーク  作者: 結木さんと
第4章 シンガン×シンガン
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シンガン×シンガン 4





 沈黙が波のように広場を伝播していく。


 この一角はまさに無音だった。

 誰も口を開かない。

 まさかの結末に、普段から騒がしいあの蕗ですら、まるで言葉を忘れたかのように押し黙ったまま硬直している。


「な……ど、どうして……っ?」


 静寂を打ち破ったのは、血の気の失せた関口さんだった。

 彼は取り縋るように志摩木のじいさんに詰め寄った。


「どうしてと言われてものう……この鑑定書を疑うか? なら確認してみるがいい。那須の専門家がわざわざ本国に送ってまで調査した結果だ。記録も間違いなく残っておるだろう。

 ……なにより、ここで儂がすぐにバレる嘘をつく意味があると思うか。お前さんにもゲームの規則は説明したはずだがな」



 ――志摩木が嘘をついた場合、ゲームは無効となる。



 その言葉でようやく周囲も現状を理解したようだ。

 溜め息まじりのざわめきが俺の鼓膜を打った。

 ……なぜ?

 野次馬のささやく声に埋め尽くされる中、そんな疑問が首をもたげる。


 別に俺は、織目さんが鑑定を間違えるはずがないだなんて思っちゃいない。

 そりゃあ彼女だって人間だ。いくら天才的な才能を持っているとはいえ、間違うことぐらいあるだろう。


 それより不可解なのは――この状況。


 なぜ志摩木のじいさんはこんなゲームを実行したのか。

 どう考えたって金銭のためではない。単純なギャンブルとしては、主催側にまるで利がなさすぎる。

 それどころか、あの老人はわざわざデメリットまで率先して抱え込んでいた。

 億単位の値がつく品を賭けていながら、骨董に詳しい織目さんを引き込んだ理由は……


『…………もうしわけ、ありません……』

「い、いえ! ……決めたのは、僕です。あなたのせいでは……」


 二人の声音は深く沈んでいた。

 とくに織目さんの落ち込みようがひどい。関口さんの言う通り、彼女には一片の責任もないというのに。


「さて、それでは関口よ。代金を払ってもらおうか。なに、そこまで不安にならずともよい。お前に売るのも一応はガレ社の商品だ。新しさゆえ多少は値も落ちようが、五十万に限りなく近い額は回収できると保証してやる」

「…………はい」


 関口さんがふらふらとテーブルに近づく。

 その気力の抜けきったおぼつかない足取りは、幽鬼の類を連想させた。

 たとえ金銭的に損がないとしても、彼としては千載一遇の昇進のチャンスを棒に振ったことになるわけだ。期待しただけに、受けたショックは計り知れない大きさだろう。



 考えてみた。

 このゲームの根底にある意図。

 織目さんが鑑定に失敗した理由。

 現状を覆す、最適の方法を――……



『ま、待ってください!』


 リュックサックから代金を取り出そうとしていた関口さんを、織目さんが止める。

 その声は、どこか思い詰めているようにも感じられた。


『……私も、お支払いします……あまりお金の持ち合わせがないので、すぐにはできませんが…………なんとか、工面しますので……』

「待った」


 織目さんの無謀な申し出を遮って、声を上げる。

 注目が俺へと集まった。

 ……こんなのは、まったく俺のがらじゃない。

 わざわざ厄介事に首を突っ込むなんて主義に反する行いだ。

 でも。



「――選手交代だ、織目さん。あんたの骨は拾ってやる」


 俺はせいぜい不敵に映るよう、背筋を伸ばして勝負の場に躍り出た。



        ◇



「ほう。なにか文句でもあるのか? 坊主」


 志摩木翁が片眉を上げて問う。

 じいさんの表情は、怪訝というよりはこの状況を楽しんでいるように見えた。

 本当に読めないジジイだ。なにもなければ絶対に関わりたくない。


「いいや? ……ただ、いくつかまだ明かされてない事実があるみたいだからな。そいつをはっきりさせておきたいだけだよ」


 肩をすくめると、志摩木のじいさんが笑みを深める。


「よかろう。言うてみい」


 なら、お言葉に甘えて。

 頷いた俺は視線を織目さんに移した。

 力なく立ち尽くす彼女の姿は、まるで道を見失った迷子のそれだった。


『……新屋さん』


 まあ見てろ。

 たぶん、悪いようにはならないから。

 尚もにやにやと笑う性根の捩じくれたクソジジイに向き直った俺は、深く呼吸をして論述を開始した。


「まずは簡単な部分からいこう。――なぜ、織目さんは鑑定を間違ったのか」


 再び広場が静まりかえる。ちらりと目を向けると、ブースにいる全員の視線が集まっているのがわかった。

 この人数の前で弁舌を振るうのは、どうにも気恥ずかしいものがあるな。


「俺は骨董品のことはよくわからない。それを理解した上で聞いてくれ。

 おそらく織目さんの挙げた鑑定の内容は間違ってなかったと思う。そんな長い付き合いでもないが、あの人の知識は知り合いの骨董屋の折り紙つきだ。

 しかし、鑑定の結果は違っていた。

 なぜか? ……ある可能性を、意図的に排除された(、、、、、、、、、)からだ」


 群衆がどよめく。

 口々に疑問の声が飛ぶ中、老人はとくに表情も変えず、じっと俺を見ていた。

 そう、思い返してみれば最初から違和感はあったのだ。


「古物市の隅に広げられた粗末なテントに簡易テーブル。そこに置かれた花瓶は、関口さんがすこし揺らしただけでも簡単に倒れそうになった。

 ……たとえばこの状況でガレとやらの作品が売られていて、いったい何人が商品を本物だと信じるだろう?」


 野次馬たちから理解の及んだような反応があった。

 その中でも過剰な反応を示したのは、目を白黒させた蕗だった。


「ど、どういうこと? じゃあ、織目さんはわざと偽物を選ばされたの!?」

「まあ仕掛けとしてはそんなとこだろうな。だが、本来の意図はまた別にある」


 俺の答えに、蕗はよくわからないという顔をした。


「ただ偽物だと印象づけたいだけなら、この演出だけでよかった。多少詳しい程度の人間であれば、まず間違いなく仕掛けに引っかかる。

 しかし、志摩木のじいさんは他にもいくつか策を重ねていた。たとえばわざわざ織目さんにガレの作品の価値を訊ねたことや、関口さんに切迫した事情を語らせたこともそうだ。

 じいさんの作った流れに乗せられて、織目さんの意識はまんまと『本物と偽物の見極め』だけに集中させられた」


 ようやく老人は動きをみせた。

 とはいっても、片眉を上げる程度のささやかな変化だが。


「じゃあ織目さんが見落とした可能性とはなにか。

 名の知れたコレクターが価値のある本物の作品を粗雑に扱うはずがなく、だけど花瓶は偽物ではなかった。それが世界に一つしか出回っていない幻の作品だというなら、ますます状況は矛盾する」


 だが、と俺は隠された領域に足を踏み入れた。


「――もしその本物に、そこまでたいした価値がなかったとしたら?」


 再びさざ波のようなざわめきが広がった。

 そろそろ全貌が見えてきた人も増えたのではないだろうか。


『…………失敗、作……』


 やはりというべきか、いち早く真相に気づいたのは織目さんだった。

 彼女の小さなつぶやきに、そこかしこで短い声が上がる。

 おそらくこの群衆の大部分は、関口さんと同じくネットを見て集まった愛好家たちなのだろう。どこか悔しそうな声が多く感じるのは、自分が真っ先に真相に辿り着きたかったのかもしれない。……まあ、俺のただの憶測だが。


「……お前さん、見た目のわりにはなかなか鋭い目を持っておるようだの」


 志摩木のじいさんから返ってきたのは、そんな評価の言葉だった。

 こいつはいちいち他人を小馬鹿にしないと会話できないのか。


「ねえ、暁彦ちゃん。話を聞いていて思ったのだけど……それって、おじいさんはここに小夜子ちゃんが来ることを知っていた、ということなの?」


 鋭い質問だ。

 本好きだからかはわからないが、桂姉はふわふわの言動とは裏腹に、ものごとの要点を掴むことに長けている。学校の成績も常にトップランクで、俺はなぜこの人が特進コースを選ばなかったのかがいまだにわからない。


「桂姉の言う通り、じいさんの仕掛けは腕の立つ目利きを引っかけるためのものだ。でも、想定していた相手は織目さんじゃない」


 もしそうだとすれば、織目さんが志摩木のじいさんを知らなかったのはおかしい。

 彼女が一人でここに来ていたなら、きっとゲームには参加しなかっただろう。

 蕗や俺たちが一緒に来たのはただの偶然だ。織目さんを知恵比べに誘い込むための準備にしては不確定要素が多すぎる。

 おそらく、志摩木のじいさんが本当に競いたかった相手は――……


「……そこまでだ坊主、みなまで言うな。儂の目的は遂げられなかった。ただそれだけのことだ」


 話を遮ったじいさんは、幾分かトゲの抜けた表情で訊ねてきた。


「それで、お前さんは結局どうしたいんだ。ゲームは挑戦者の敗北。関口が代価を払うことに変わりはない。この結果は動かせんぞ?」

「ああ、別にそれはいいよ」

「ええっ!?」


 あっさり返すと、関口さんが素っ頓狂な声をあげる。

 なぜそんなに驚くのか。


「仕方ないだろ、ルールなんだから。ほら、さっさと払ってくれ」

『あ、あの! 新屋さん……』


 後ろからシャツを掴まれた。

 なんだか慌てた様子の織目さんだった。

 身体がぶつかりそうなほどの至近距離まで詰め寄ってきた彼女からは、いつかのようないい匂いが鼻先を掠めて、不覚にもドキッとしてしまう。


『あの……なんとか、助けてあげられませんか?』

「な、なんとかって言ったって……契約書もあるのにどうしようもないだろ?」

『でしたら、せめて私も支払いを……』


 無茶を言うな。だいたいあんた、金がないんじゃないのか。


「…………いえ、これは自分で決めたことです。お金は、僕が……」

「うむ。そうだの。その律儀な性格に免じて、消費税だけはまけてやろう」


 最初からそんな話はしてなかっただろうが。

 どこまでも人を喰ったジジイだ。


 そして大勢に見守られながら、代金の受け渡しはつつがなく終了した。

 代わりに志摩木のじいさんが差し出したのは、奇妙なフォルムの瓶だった。あれは……香水入れだろうか? なんだかカラフルな岩のような形をしている。

 あんなのが本当に五十万近い値段で売れるのか?


「これでゲームは終了だ。大学のことは残念だろうが、他の資料を探すがいい」

「……はい」


 消沈する関口さんとは対照的に、志摩木のじいさんは見るからにご満悦といった表情を浮かべていた。数え終えた札束を扇子のようにして風を送る姿など、まさに俗物の日本代表という有り様である。


「ではそろそろお開きとしようかの。いやいや、実に愉快な時間であった」

「ああ、じいさん。その前に」


 俺は項垂れる関口さんの背後から近づいて、岩みたいな形状の香水瓶に手を伸ばす。

 そのまま、訝しむような表情のジジイの前まで押し戻した。


「これ、返品してくれ」

「………………は?」

「たったいま、あんたは嘘をついたからな。このゲームは無効になった」


 会場が静まり返る。

 今日この状態になるのは何度目だろうか。

 いい加減、自分の言動に過剰なレスポンスが返るのにも慣れてしまった。


「お、お前…………この期に及んで、そんな詭弁が通ると……」

「詭弁? いいや、これは正当な権利の主張だよ。俺はずっと待ってたんだ――関口さんが代金を支払って、ゲームに参加するのを(、、、、、、、、、、)


 中途半端な状態では、適当に理由をつけて逃げきられる可能性もあった。

 だからここまで引っ張る必要があったのだ。

 そう。……志摩木のじいさんは、ずいぶんと前から失敗を犯している。


「あんた、織目さんを引き込むために焦りすぎたんだ。……覚えてるか? 最初に関口さんが抗議した時、あんたはこう言った」


 ――“お前のような根性なしなんぞ、このゲームに参加する資格はないわい”



 唖然としていた老人の目が、こぼれ落ちそうなほど見開かれる。



「気の弱そうな関口さんを追い詰めれば、織目さんがゲームの参加を断れなくなると踏んだんだろう? あんたは人を見る目に長けてるみたいだからな。

 ただその策に集中するあまり、織目さんを嵌めた罠にまんまと自分も引っかかったんだ」


 志摩木のじいさんにとって、関口さんの存在こそがイレギュラーだった。

 これが当初の計画通りの単純な鑑定ゲームだったなら、こんな失態は犯さなかったのかもしれない。

 いずれにせよ、関口さんを参加させた時点でゲームは無効になっている。

 項垂れた老人の姿に多少は罪悪感を覚えるが、まあ意味もなく織目さんを傷つけた罰だ。いくら俺でも顔見知りをコケにされれば気分が悪い。

 さてどう出るかと警戒する俺の前で、肩を震わせた志摩木のじいさんは、


「くっ――――ふはははっ! お前さん、どんな頭の中身をしておる! 小賢しい連中なら飽きるほど見てきたが、お前のような奴ははじめてだ!」


 大爆笑である。

 ……このジジイ。落ち込んでるように見えたあれは、ただ笑いをこらえてただけか……。


「儂だけ名を明かされたのは不公平だと思わんか? お前さんの名はなんというんだ」

「メル・ギブソンです」

「そうか。では、そのメル君の素性をなじみの興信所に探らせるとしよう。よく買うパンの銘柄から家族に隠しておる特殊な性癖まで、ごっそり調べ上げてくるぞ」

「わかった新屋暁彦だ。これでいいですか!?」


 この邪悪なご老体を誰か早くなんとかしてほしい。

 別に俺があんたの名前を訊いたんじゃないし、悪いのは全面的に関口さんだ。なぜこんなところで個人情報を公開しなくてはならないのか。

 ……あと、身内の前でそういう話題は本気で遠慮していただきたい。

 俺を疑う蕗の冷たい目はまだしも、桂姉のすべてを受け入れるような生温かい視線とか、わりとダメージ大きいんだ。

 特殊な性癖なんてないから。本当に。


「暁彦よ。お前さん、学校を卒業したら儂の会社に入れ。会長の椅子はせがれに譲ったが、一人ぐらいなら簡単に捻じ込める」

「断る。あんたみたいな捻くれた上司のいる会社なんて絶対に嫌だ」

「ふはは! 清廉潔白な経営者など、世界中のどこを探しても見つからんぞ?」


 それはそうなんだろうけどさ。

 せめて若者に夢を見せる努力ぐらいしてほしい。

 世知辛さに脱力する俺の前で、志摩木のじいさんはついと視線を関口さんに移した。


「それで、関口はどうする。いまの儂は気分がいい。お前さんが望むのなら、このエミールを五十万で譲ってやってもよいぞ。失敗作とはいえ稀少品であることに変わりはない。オルセー美術館は日本円で一千万まで出すと言ってきたな。これなら歴史的資料としての価値もあるだろう」

「ほ、本当ですか!?」


 ……あれ、思ったより高いな。

 あのじいさん、一千万の花瓶をあんな雑に扱ってたのか?


「ねえ、アキにぃ…………本当に、あれぐらいの値段だと思ってた?」

「……」


 黙り込むと、隣からじとっとした視線を浴びせられる。

 蕗さん、やめてください。さっきドヤ顔で放ったセリフが、地味に身を削りにきてるんだ。……正直、五十万円以下だと思ってました。

 冷や汗をかく俺を流し見て、志摩木のじいさんは再び不敵な笑みを浮かべる。


「フン、まだまだ青いわ。坊主」


 ぐうの音も出ない。

 結局、俺もじいさんに踊らされたということか。

 何度も言うが、やっぱり厄介な老人だ。


「だが、悪い読みじゃあない……たしかにこのエミールは、いかな値段がつこうと儂と奴には価値のない物だ」



        ◇



 それは独白じみたつぶやきだった。

 その意味について考えていると、じいさんは再び青年の方に顔を向けた。


「関口よ、お前さんはなぜ民俗学を選んだ?」

「……え?」

「いまの生活は楽しいか? それを学ぶことに決めた日と、現在の気持ちは変わっておらんか?」


 畳みかけるような質問だった。

 ……どうしたんだ? 志摩木のじいさんは。

 ただ関口さんは思うところがあったらしく、次第に彼の顔色は暗くなっていった。


「わかりません……ただ、自分がまだ学生だった頃の方が楽しかったような気がします。いまは、なんというか…………必死になって、忙しい毎日にしがみついているだけで、あまり楽しくは……」


 青年の柔和な顔が、くしゃりと困ったように歪む。


「……僕、旅をするのが好きで民俗学を選んだんです。いろんな町や村に行って、そこで暮らす人に話を聞いたり、古い文献を調べたりして……ですが、学生の頃からお世話になっていた教授が亡くなられてからは、新しく赴任した教授の講演や勉強会の資料の作成ばかり任されるようになりました。フィールドワークに同行するのは若くて綺麗なゼミの女の子だけで……」


 ああ……なんというか、ありそうな話だと思った。

 大学のことはわからないが、そういう俗物な教職者もいるという話は耳にする。

 そうして堰を切ったように現状を語り続けた関口さんは、やがて力のない笑みを浮かべた。


「志摩木さんはいまの生活が楽しいのかとお訊きになりましたが……もう、自分でもよくわからないんです。ひょっとしたら、ここまで努力してきたものを手放したくないだけなのかもしれません。親や就職した友人にも、さっさと見切りをつけろと急かされて……だから今日は、これを最後のチャンスにしようと思って、ここに来ました」


 報われない現実の話は、そんな風に締めくくられた。

 重苦しい沈黙が、広場を支配する。


「……軽々しく最後のチャンスなどと口にしてくれるな、大馬鹿モンが」


 泥濘のような静寂を打ち破ったのは――そんな、突き刺さるような声だった。


「関口よ、この花器はお前さんの人生を救うと思うか」

「え……あ、えっと…………は、はい」

「そうか……だがな、儂はどうもそうは思えんのだ」


 即座に否定した老人が、なぜか俺を見た。

 なんだ…………もしかして、俺から話せってことか?

 視線がこちらに集中する。

 織目さんや蕗たちからも不思議そうに見つめられて、思わず全身の空気が抜けるような溜め息が出た。


「あのですね、関口さん。これは完全な憶測で、なんの根拠もない話なんですけど……その教授に、子供かお孫さんはいませんか? 年齢は大学生ぐらいの」

「え? う、うん……たしか、お孫さんがもうすぐ東京の大学を卒業するって……」


 当たっていそうで気が重い。

 しかしこの場からは逃げられそうにもなく、仕方なく俺は困惑する青年に告げた。


「……では、そのお孫さんの専攻分野はなんですか?」


 再び沈黙。

 やがて――――関口さんの目が、大きく見開かれた。


「そ、そんな……」

「まあこれまでの話を聞いておれば、そう考えるのが妥当だろうな」


 彼の反応は、最低な推測の正解を物語っていた。


 ――論文の転用。


 それも他人を騙して書かせるという、悪質な。


『ひどい……』


 織目さんのか細い声が聴こえた。

 傍で寄り添っていた桂姉もショックを受けたような表情で、正義感の強い蕗などあからさまに顔をしかめている。

 なかなか現実を受け入れられないのか、関口さんは放心したままだ。

 熱病のようにふらつく彼に、おそらく今日はじめて、老人がまっすぐな目を向けた。


「お前さん、将来について考えたことはあるか」


 青年の定まらない視線が声の方を向く。

 いきなりなんのことかと思ったが、どうやらこれはまともな話のようだ。

 黙って意識を傾ける。


「常識人ぶった連中や一部の教師なんぞから言われたことはないか? 『将来について真面目に考えろ』と……未来を見据えて生きなければロクな人生にならんぞ、とな。

 ――それはな、大きな間違いだ。お前の親御さんも同級生の友人とやらも、根本的な部分で考え違いをしておる。

 いいか。未来とは考えるものではない、夢に描くものだ。明日でも、一ヶ月後でも、たとえ十年ニ十年先でもかまわん。“自分がこうなっていればおもしろそうだ”と、希望を抱いて臨むものなのだ。

 いつの時代も大人は『子供が夢を見なくなった』と嘆き、そのくせ人が自由な夢を語れば『もっと真っ当な道を選べ』と枠にはめたがる。そんな環境にあって、明るい未来を思い描く人間など育つものか。

 お前さんも、その呪縛に囚われておるんだよ」


 低くしゃがれたその声は、けれどたしかな力をもって、聴く者の耳朶を打った。

 俺自身も考えさせられる内容だった。

 もしかすると志摩木のじいさんは、この場の全員に語りかけているのかもしれない。


「僕が……呪縛、に?」

「そうだ。人は集団に属することで安心を覚える生き物だからな。無意識にそれが当然の義務であるかのような暗示にかかってしまう。

 お前さん、いまの場所で失敗したら次はない、などと考えておらんかったか?」


 ……ぼんやりしていた眼差しに、意識の光が戻った。


「それは…………で、でも、僕はもう三十代で」

「だからなんだ? 儂がお前さんと同じ年代の頃には、もっとどうしようもない生活を送っておったわ。ようやく一念発起して会社を立ち上げたのがちょうどそのくらいだ。

 たとえ何歳だろうと、やりたいことがあれば道は無数に広がっておる。“固定観念”という呪縛に囚われた人間にはそれが見えんのだ。そして往々にしてそういう連中の人生は、見ていてなんのおもしろみもない。

 では関口、お前の本当に好きなことはなんだ。渇望した心はどの方角を向いておる」


 ――未来を考えるというのはな、そういうことだよ。


 最後に、じいさんはあの皮肉っぽい笑みを浮かべた。

 そのことで俺は自分が呼吸を止めて聴き入っていたことを知る。

 ……なんか、すごい話を聞かされたような気がする。

 未来。遠いようで、すぐ近くにあるもの。

 ここのところ考えていたことが一歩前に進んだような、そんな感覚があった。


「あ、あの……志摩木さんが、会社を興した理由はなんだったんですか?」


 まるで水中で空気を求めてもがくような問いかけだった。

 けれどその声からは、さっきまでなかった生気がたしかに感じられる。

 身を乗り出すような関口さんの姿を見て、志摩木のじいさんは短く笑った。


「こいつだ」


 掲げたのは、澄んだ湖水の色をした花瓶。


「――儂はエミールに魅入られて富を手にし、そして生涯の友を失った」







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