祈祷師ラチャラチー
見渡す限りの草原だった。ずっと遠く、霞むような彼方に山が聳える。空気は澄んでおり、雲は少なく空の青は濃い。草は丈こそ短いが切れ目なく生え続いている。馬や蜥蜴を長い距離走らせるのにはもってこいの土地だろう。
「見渡す限りの草原だな〜。風景はのどかですね」
傍の主に話しかける。彼女は薄く笑って答えた。
「何か言いたげだな。のどかではない何かがあると?」
「七時の方向、距離半時馬、接触まであと十秒」
「竜か何かか?」
人に思える。人が高速で移動しているのだ。しかし人の高速移動には色々な困難がある。
旧自然哲学派は「動くものは止まる。力を与え続けなければ加速どころか定速で動かすことすらできない」と主張した。新自然哲学派は「動くものは同じ速さで動き続ける。動くものが止まるのは空気から力を受けているからだ」と主張した。どちらが正しいかはともかく、動くものに対し空気が止める力を及ぼすのは確実と考えられる。あと七秒。
実際に速く動こうとすると空気から力を受けるのを感じるのだ。さらにその力は移動する時に【微風】をうまく使えば打ち消すことができる。高速移動を可能にするにはたいへんな習熟を必要とするが、高速移動ができる者が少ない理由はそれだけではない。六秒。
空気からの力を打ち消したところで高速移動ができる訳ではないのだ。問題点がさらに二つある。一つは地面の柔らかさだ。人や獣が歩くと前に進むのは、足で地面を蹴った反動による力を自らに与えているからだ。だがあまりにも強く地面を蹴ると地面の破壊で力が分散され、十分な反動の力を得ることができない。そのため、【地形】などによって足場を固める必要がある。風の魔術と地の魔術、これが高速移動の大前提となる。三秒。
これらの魔術はさらに、得意な者と物理戦闘を行ったとき、使えない者は一方的に空気を粘らせられ地面を柔らげられて動きを鈍らされる。そのため魔術戦闘を主としなくても必ず最低限身につけておかねばならない技術だ。残り二秒。
この相手は何者か。魔眼を後ろに向ける。職分は。竜人か、拳闘士か——
「——祈祷師?」
一秒。
相手の狙いは主でなく自分のようだ。振り向くことなく真横に飛び退く。次の瞬間、先ほどまで自分がいた場所を凄まじい速さでそれは通り抜けた。プラットホームで、魔導列車が通り抜けるのを感じるような風を感じた。死が真横を通過するという感覚だ。自分は今、危地にいる。自然と笑みが浮かぶ。相手は陸上中距離走ほどの距離を行き過ぎて止まった。想定より超過距離が小さい。
それにしても、祈祷師とは。祈祷師は神などへ祈りを捧げている間身体能力や魔術能力が跳ね上がる。手を組んだり文言を唱えたりしなければろくに戦えないため、単独で、しかも物理戦闘を得手とする者など見たことがない。
「この相手はあとで味方になるから、禍根のないようにな」
主、電電先生がよくわからないことを言う。承諾するしかないが。
「我こそは電電先生の侍従、ミコト・ヒシュマーシュ! 祈祷師! 名乗り上げよ!!」
名乗りの文化が通じるかどうかわからないが、とりあえず言ってみる。
「わたしはー! ラチャラチー!! パソデサ村ソデス神殿の巫女ー!!」
通じた。それから大声で言葉を交わし、最低限のことはわかった。
一つ目、俺との戦闘を望むが命の取り合いまではしない。どちらかが血を流すまでというので合意した。
二つ目、戦う理由は「試験」とのことだ。何が試験だよ。負けるようなら用はないが勝てば戦力になってほしいという。人間を舐めているのか?
三つ目、パソデサ村というのは近くの国に信仰を吸収し魔力を簒奪される危機に瀕しているそうだ。知ったことではないが……わざと負けようかな。
「よろしいー! 受けようー! この子は勝つよー! ただし戦力を貸すのには条件があるー! 君が我々の旅の道連れとなることだー!」
しかし電電先生が合意してしまう。巫女はそもそもはぐれ者だったそうで、旅についてきてもいいとのことだった。あとで実は大事に扱われていたことが村長とかから明かされて反故にされたりしないだろうな。
そういう訳で、試合が始まった。
「彼女は技能樹の高さが神話級で君より高いから油断のないようにな」
用語がわからないんですが。ご主人サマの言うことは難しいな。
「かしこまりました、ご主人様」
「行くぞー!!」
相手が向かってくる。息を吸って、ゆっくりと吐く。時間感覚が水あめのように鈍化していく。先ほどより遅いとはいえ目にもとまらないほどの速さの相手が、陸上競技程度まで落ちて見える。一定に加速してゆき一瞬の最高速のあと一定の減速という最も効率の良いスピード配分で最高速到達点の二倍として想定される停止点はこの目の前肉弾戦の距離で再加速が困難となる距離まで引きつけて歩を引き竹刀で戦える距離まで離すと同時に横に払う——時間感覚がもとに戻る。
常人には不可能な速さで振られる、鋼鉄よりもはるかに硬い魔竹刀を上から拳で叩きつけ、さらに距離を詰めてくる。距離をとるが、相手が速い。高速移動を実現するための要素は加速させる力の他に三つ、高速戦闘となると場合により思考加速も必要となるのだがそれを措いて、先述の風魔術と土魔術に加えてもう一つが肉体の強度だ。人体に無理な動きをすれば関節や骨を壊してしまう。
俺は魔術面では全く劣っていないが、肉体強度では負けるようだ。一手動く間に相手は二、三手動けると言っていいだろう。尤も勝ち目がない訳ではない。突きを入れる。大きな隙に乗じて、当然のように懐に入ってくる。勝負は決まったか。
「引っかかってくれて助かりました。まあまだ策は用意してありましたけど」
——俺の勝ちだ。巫女の二の腕を、伸びきったはずの魔竹刀が切りつける。武器の遠隔操作という、武器に魔力を通すと使える、一種の小技だ。手から離れていると器用に扱えないので、こういう時ぐらいしか使えない。その上で相手が通常の視覚に頼っているのに賭けての手だった。
巫女ラチャラチーの出血により勝負は決着した。
「さて! ラチャラチーくんの負けとして、村に急ごうか!」
「ええ。こうしているうちにも手の者が迫っています。ミコトさんの力があれば大丈夫でしょう」
だまし討ちだったのに、実力を買ってくれているようだ。いいのかな。
「村はあっちの山です! 遠いですが行きましょう!」
着いた。矢などが飛び交い、戦闘の最中らしい。山の中腹にあり、地の利を活かしている。
「聖女ラチャラチー様か! それと予言にあった助っ人だな!? 神殿へ行ってくれ! 敵側の別働隊が動いているらしい」
結構いいタイミングだったんだな。しかし聖女ときたか。はぐれものと聞いたが。神殿は山の上にあるらしい。天に近いもんな。神殿が落とされるとほぼ敗北と言っていいし、そこに向かうのでいいだろう。
「そういう訳で神殿に来たが、いい意匠だな。金持ちを当て込んだ宗教などは華美になりすぎがちだが、ここは単純の美がある」
「電電先生はそういう美術に明るいんですか」
「まあ、そう、な」
「古典劇場と同じようなつくりになっているんです。人生は演劇だから。観客として神を想定しているんですが、細かいところは分かりません」
分かれよ。巫女だろ。
「聖堂に行きましょう。中は込み入っていますが聖堂からは全体を把握できますし、敵も聖堂を目指してきます。着いてきてください……まずはここを右に、あ間違えた、えっと、二番目を左に曲がって、違う、それから……」
ダメそうだ。割と緊急事態のはずなんだけどな。電電先生がため息をついて口を開いた。
「三つ目を左に曲がって突き当たりで右、そこから二番目をさらに右、……」
なんで分かるの!?
「あ、本当だ、その通りです——」
そんなこんなで聖堂に着いた。偉そうな老人が祈りの手を組んだまま進み出てきた。
「翠級巫女ラチャラチー。よくぞ来てくれた。——日頃あれほど冷たく扱ったというのに。ここにきてあなたに力を貸してくれなどというのは身勝手だが」
「構いません、公師さま。私たちの信仰を判断するのはただ翼神のみでしょう。あなた方の意地悪なんて、へっちゃらだったのですよ」
民衆の間では人気を集めて、求道者にとっては嫌われ者だったということだろうか。彼女が祈りの手も組まず文言も唱えない、祈祷師らしい祈祷師ではないのも関係しているのかな。
「敵はすでに神殿に侵入しています。見取り図はこちらに」
見せてもらうが。
「妙ですね」
侵入者は先ほど村を攻めようとしていた人々よりも劣った武装を持っている。練度も低いようだ。山に強い山岳部族を味方につけたか。それにしたって武装は洗練させてよいだろう。おかしい。これはおかしい——
「神殿を攻め落とすつもりなのは間違いない。山沿いは本命ではない。空中にも何もない」
下か。よく意識すると、地下に「いた」。巨大なそれは——
ラチャラチーの方を向く。声にするのもじれったい。可能な限りの速さで無形翼教の印相手話を結ぶ。無形翼教であっているはずだ。
地下ニ脅威アリ 聖堂ヨリ避難サセヨ至急
彼女が頷くと、その姿が消えた。——あまりの速さに見失った。肉眼ではとても何が起こったのか把握することができなかった。
彼女は素早く聖堂の大窓を開け壁に下がっているおそらく宗教的な意味を持つ複雑な絵の書かれた巨大な布をとって出ると下方の木と木の間に張り聖堂を床となく壁となく走って神官の二三人づつを掴んでは窓から放り投げることを繰り返し最後に俺たちとともに外に出た。
放り出された神官たちが次々に布に受け止められ目を回す。各自が自分たちの状況を把握したと思うと、地鳴りが聞こえた。
そして、それは神殿を下から割砕いて姿を現した。
「ギュルヌヴュルム——」
ミミズを途方もなく大きくしたような生物だ。通常砂漠などに住み、このような山の天辺に現れることなどまずない。何者かの作為がある。強力な召喚士か獣使いあたりがいたのだろう。あんなものを無理に使役すればそれだけで死を覚悟せねばならないはずだが。
「神殿が——いや、それよりもあんなもの、どうやって」
ラチャラチーが絶望に顔を曇らせる。 ギュルヌヴュルムは動き出し——
「くだらない」
——二十六の肉片となって散らばった。どうやって、というか俺がやったんだが。
「ナルナナナヤンの無限界の刃」
デザインはダサいが振る速さに応じて遠くまでを切ることができる刃だ。トーフを切った時に比べれば距離はずっと短くて済んだ。
「左肩は犠牲になったがな。おー、痛い」
高速戦闘には、肉体の強度が必要なのだ。それが足りないと関節や骨を壊してしまう。
「さて、村の方に加勢に——って何だ、あれ」
死角になっている村に“眼”を向けると、だいぶ数の減った侵略者と村の警護者たちが戦っている。数の上では村の側が有利だ。だが、形勢はそうなっていない。攻撃側に一人、明らかに動きがおかしい兵がいる。全身を甲冑に包みながら、片方の端にいたと思ったら次の瞬間は他方の端にいる。矢や魔術攻撃を受けても意に介さない。避けようともしない。何人で囲んでもその全員をなぎ倒す。
「何だ、あれは」
脳裡に引っかかるものがある。どこかでこのような戦士を知っている。ステータスを見ると高い魔術防御が特徴的で、種族が——
目が合った。
死角になっている村から、そいつは「こっちを見た」。悪寒が走る。恐ろしい速さでこちらへ来る。どうする。俺はこいつに勝てないのではないか。
「ご無沙汰だな、ミコト・ヒシュマーシュ。一段と可愛らしくなったな、メイドの騎士よ」
「敵としては会いたくなかったな」
学院の裏手に住んでいた魔王だ。メタルスライムで物理攻撃がほぼ通じず、魔術に関しても高い防御力を持つ。
「ラースラー」
「今は水の鎧のフラーブルと名乗っている」
左肩から先は動かず、相手は格上、電電先生は高速戦闘ができず、ラチャラチーは物理攻撃を主とする。
絶望的な次ラウンドが幕を開ける。




