第七話「覚醒」
縷々が立ち去って少ししてから、露子は縷々の後を追った。
これ以上何かを話して説得しようなんてつもりはなかったが、今の縷々をそのまま一人で帰すのは危険だと判断したのだ。
心配は杞憂に終わり、縷々は無事に帰路へつく。それを見届けてから、露子は深くため息をついた。
――――どうして佐奈さんが消えないといけないんですかっ!
「……」
佐奈という人物を、露子は全く知らない。だが、先程祓った霊の名前であることは間違いないだろう。
どうして消えなければならないのか。露子にとってその答えは明白だ。だがそれは、あくまで露子にとっての答えだ。縷々にとっての答えではない。
悪霊祓いを生業とする霊能者が、永遠に抱え続けなければならないジレンマ。
生者を守るためには、悪霊は必ず祓わなければならない。その霊魂に、何の罪がなかったとしても。
佐奈は罪のない霊魂ではない。実際に被害が出ており、誰かを傷つけている。祓わなければならなかった。
例え佐奈が縷々の友人だったとしても、仕方のないことだった。
今更こんなことを自分に言い聞かさなければならなくなったことに、露子はうんざりする。
ゴーストハンターとして戦う以上、覚悟はとうに出来ていなければならなかった。
人間が、一人一人複雑な思考回路を持つ以上、ありとあらゆる角度から善でいることは絶対に出来ない。どんな善行でも、僅かな角度から悪と判断される場合がある。
縷々にとって今の露子が、そうであったように。
「……あたしもまだまだね」
この手の思考は素早く打ち切るに限る。
縷々が安全に帰宅したのを見守ってから、露子は踵を返すようにその場を離れた。
***
佐奈が祓われてから、縷々は更に自室で塞ぎ込むことになった。
露子の事情はよくわかっていたし、彼女がゴーストハンターを生業とする以上仕方のないことだった。しかし頭ではわかっていても、心が何一つ飲み込もうとしなかった。
露子の手によって佐奈が祓われた。その事実があまりにも耐え難い。
まるで露子に裏切られてしまったかのような気分だった。露子は使命を全うしただけで、縷々を裏切ってなどいないというのに。
義母の提案は、結局答えを先延ばしにしたまま保留していた。義母もあれ以降はほとんど干渉してこず、自室から出たがらない縷々の元に食事を運んでくるだけだ。
食事はほとんど喉を通らず、手をつけずに放置することも次第に増えていく。
眠りも浅く、眠れない夜ばかりが続いていく。
そんな生活を続けている内に、いつの間にか停学期間が終わっていた。
義母からそれを伝えられた時、正直何の感情も抱けなかった。
学校へ行ったところでどうなるものでもない。
ただでさえ浮いていたのに、事件のせいで白い目で見られるだけだ。佐奈はもういないし、露子とも気まずい今、あの学校に通い続けることに意味を感じられない。
やはり、義母の提案通り転校してしてしまった方が良いのかも知れない。
(……それならせめて、朝宮さんにだけは直接伝えないと……)
どちらにせよ、もう一度露子と会う必要があるだろう。
あの夜のことを、きちんと話しておきたい。
佐奈を祓われたショックで、縷々は感情のままに言葉を吐き出していた。ただでさえ苦手なコミュニケーションを、あの状態でまともに取れているわけがない。
ちゃんと話さなければ。
そう考えると、心臓が厭な脈打ち方をし始める。
露子と話すのが妙に怖かった。
きっと、自分が間違っているのがわかっているからだ。
正しくて、思ったことをはっきりと告げる露子と話すのが、怖い。
自分の間違いを指摘されて、佐奈は消えなければならなかったと改めて理解させられるのが怖かった。
***
憂鬱な気分のまま二週間の停学期間が終わり、縷々は通学路を歩いていた。早く露子に会いたかったハズなのに、今は会うのが怖い。スマホさえあればコミュニケーションに少しは緩衝材を敷けたかも知れないのに、今はそれが出来ない。数十年前の人間のコミュニケーションが、縷々には信じ難いとさえ思えた。
引き返してしまいそうになるのをなんとかこらえる。もうあの学校へ行くのは今日が最後だと言い聞かせて縷々は歩を進めた。もっとも、転校するにしてもすぐさま登校する必要がなくなるわけではないことくらい、縷々自身わかってはいたのだが。
寝不足で全身が重い。頭もうまく回っていないような気もする。どこか、足取りもふらついていた。
そうして重たい気持ちと足を無理矢理引きずって、自宅付近の住宅街を歩いていく。すると、急に縷々のそばに黒い車がゆっくりと停車する。
「え!?」
何事かと思って車に目を向けると、中にはスーツを着込んだ男性が乗っていた。運転席に一人と、後部座席からもう一人が縷々の方を見ている。
二人共どこか焦った様子で、縷々を見つけるとすぐにドアガラスを開けた。
「朝宮さんのご学友の、来々縷々さんで間違いないですか!? 朝宮さんが大変なんです!」
「ど、どどっ……どういうことですか!?」
突然のことで気が動転する。
しかし二人はそんな縷々の様子を気に留める余裕もないのか、慌ててそのまままくしたてた。
「我々は朝宮さんのサポートをしている者です! 大怪我をしてしまって……明日まで命があるかどうか……!」
「い、一体何が……!? どうして……!?」
「とにかく乗ってください! 事情は道すがら説明します!」
すぐに後部座席が開き、乗っていた男が縷々の手を引く。
わけのわからないまま車に乗せられて、縷々はそのまま事情を聞くしかなくなってしまう。これではほとんど誘拐だ。
よく考えればこの状況はかなりおかしい。露子をサポートする人間がいるのは一応聞いているが、突然一般人をこういった形で巻き込むようなことをするだろうか。
疑問に思った頃には既にドアは閉じられ、車は走り出していた。
「あ、あの……本当に……朝宮さんのっ……」
「落ち着いて聞いて下さい。朝宮さんは、悪霊との戦いで大怪我をしてしまったんです。恐らくもう……」
「っ……!?」
心臓が引き絞られたような気持ちだった。
例え嘘だとしても、凄惨な姿になった露子をイメージするだけでもどうにかなりそうになる。
ただでさえ、縷々は生きた人間がその場で凄惨な姿になるのを見たばかりなのだ。自然と、あの日の真莉夢の姿を重ねてしまう。
「これは我々の勝手な判断なんです……。せめて、朝宮さんが一番大切にしていたご学友には、最期を看取ってほしいと……」
「そ、そんな……っ!」
段々と厭な想像ばかりが膨らんでいく。
重たい頭は正常に機能せず、ロクでもないことばかりぐるぐると考えてしまう。
「ま、まだ……縷々、伝えたいことが……」
「間に合わせます……! 急ぎましょう!」
そう言って頷いて、男は縷々の手を急に握る。
「っ……!」
突然触られて驚いてしまい、縷々はその手を思わず振り払う。
「あっ……いや、あの……」
それになんとなく、直感的に厭な感覚があったのだ。身体が、理性よりも先に本能にしたがってしまっていた。
「……」
そんな縷々を訝しんで、男が言葉を失う。
思わず取ってしまった行動を弁明したかったが、うまく言葉が出てこない。
そのまま沈黙していると、段々と車内の空気が変わってきたような気がしてくる。
今までの、焦りながらも縷々に親身になろうとしていた空気は消えており、打って変わって冷めた視線を縷々に向けていた。
「……あ、あの……すみ、ません…………」
絞り出すように謝罪の言葉を述べたが、返事はない。
気まずい空気に戸惑いつつ窓の外に目を向けると、縷々はようやく異常に気がつく。
この町で一番大きな病院は這輪戸中央病院だ。あそこなら大抵の患者は受け入れられるだろう。しかしこの車の進行方向は、病院とは逆だ。
「え、えっと……どこの、病院、ですか……?」
恐る恐る、問うてみる。
すると、男は淡々と答えた。
「這輪戸中央病院です」
「ほ、ほほ……方向……! ち、違い、ます……っ!」
もう、男は縷々の言葉には答えてくれなかった。
逃げ出そうとしてもいつの間にかドアはロックされている上、車の速度はどんどん上がっていく。
気がつけば郊外の人気がない場所に出ており、縷々は文字通り絶望した。
この状況には勿論、こんな典型的な誘拐に引っかかってしまう程判断力が低下している自分自身に何よりショックを受けた。
それと同時に、これが普通の誘拐ではないことも感じ取っていた。
露子が悪霊と戦って大怪我をした、仮に嘘だとしても露子の裏稼業や縷々との関係性を知っておかなければ普通はつかない嘘だ。そのせいで、この二人が本当に露子の協力者なのだと一時的に信じてしまったのだ。
だとすれば、露子と何かしら関係があることには間違いない。しかし縷々の知っている範囲の露子と、この事態は全く繋がらない。
車が、どこかもわからない廃工場へと到着する。一応連れ去られた場所からここまでの道のりはある程度把握しているが、自力で帰れる自信はあまりなかった。
「降りろ」
唸るような声で男に言われ、縷々は震えながらドアに手をかける。怯え切ってうまく開けられないでいると、男は強引に縷々を抱え込んでドアを開けた。
「は、放してっ……放してくださいっ……!」
必死に懇願しても、聞き入れられるわけもない。
そのまま、廃工場の中へと連れ込まれていく。
廃工場は門が開いたままになっており、中の機械もほとんど撤去されている。
そしてその中央で、数人の男を侍らせて、あの女が待ち構えていた。
「……来々さん、お久しぶりね」
そこにいたのは、顔の左半分を包帯で覆った孔雀門真莉夢だった。
「孔雀門……さん……」
服装は上下スウェットで、特に着飾っている様子もない。良く見れば、爪も塗っていなければ化粧もほとんどしていないようだった。髪もほとんどそのまま流しているだけである。
しかしそれ以上に目に付くのは、顔の半分を覆う痛々しい包帯だ。恐らく、同様の包帯が身体にも巻かれているのだろう。
「ひ、ひぃっ……」
縷々が悲鳴を上げると、真莉夢はどこか愉しそうに笑みを浮かべる。
「人の顔を見て驚いて、失礼なんじゃない? ……こっちに連れてきて」
真莉夢が顎で指示を出すと、男は縷々を抱えて真莉夢のすぐそばまで歩いていく。
「そのまま捕まえといて」
指示を受け、男は縷々を羽交い締めにして真莉夢の前に突き出した。
「はぁい、来々さん」
「どうっ……して……っ……!?」
こんなことを? と言い切る前に、真莉夢の平手打ちが縷々の頬をひっぱたく。
「会いたかったんだよぉ、来々さん。ずっとずっと会いたかった……なんでだろうねぇ!」
今度は膝蹴りが縷々の腹部を襲う。羽交い締めにされているせいで避けることも出来ない。そのまま喰らって、縷々は胃液を吐き出しかけた。
「……包帯剥がして」
冷えた声で真莉夢が後ろに控えていた男に指示を出すと、男は目を見開いて躊躇う様子を見せる。すると、真莉夢はわずかに振り返って右目だけで男を睨みつけた。
「良いんだよ? アンタだけ借金地獄に帰ってもらっても」
真莉夢がそう言うと、男は飛びつくようにして真莉夢に近づくと、後ろから包帯を解き始める。
「こいつらはね、うちのグループでバカみたいに借金抱えて人生終わってる連中。来々さんを連れてきてくれた二人もね」
語っている内に、ゆっくりと真莉夢の顔から包帯が剥がされていく。
「協力してもらう代わりに借金をチャラにしてやってんの。だからなんでもするよぉ? 犯罪紛いのことでもね」
パサリと音を立てて、真莉夢の顔を覆っていた包帯が地面に落ちる。そして顕になった彼女の顔を見て、縷々は思わず顔を背けた。
そんな縷々に顔を近づけ、真莉夢は縷々の顎を掴んで強引に自分の方を向かせた。
「こっち見ろよ」
真莉夢の顔は、元の端正な顔立ちから考えるとあまりにも悲惨な状態だった。
左半分が焼け爛れたせいで、皮膚が不自然に繋がっていたり、部分的に隆起したりしている上、左目は完全に失われている。落ち窪んだ眼窩を覆うようにして、溶けたチーズのような肌が張り付いているように見えた。
「アンタのおかげで私も人生終わりだよ。わかってる?」
「あっ……あぁ……っ」
まともに言葉を紡げず、泣きながら悲鳴を上げる縷々に、真莉夢は再び平手打ちを叩き込む。
「泣きたいのはこっちなんだけど?」
どうすれば良いのか、縷々にはもうわからなかった。
真莉夢の顔がこうなったのは、ほとんど事故のようなものだ。一方的に責められたところで、縷々にはどうにも出来ない。
「もうこんな顔でまともに生きようなんて思えないし、仕事も全部終わり。ねえ……どうしてくれるの……?」
真莉夢の声が、次第に震え始める。気がつけば、右目から一筋の雫が流れていた。だがその一方で、最早目としての機能を持たない左側はなんの反応も見せなかった。
そこでようやく、縷々は真莉夢がどれだけのものを失ったのかを理解する。その瞬間、胸の奥から罪悪感が荒れ狂うように吹き出した。
佐奈を成仏させようとしなかった縷々の責任なのだろうか? 学校に迷い込んだ霊を、成仏させるどころか友達になって、そのまま学校周辺に居座らせていた。
きっと露子ならああはしなかっただろう。霊能者としての責務を全うし、佐奈を成仏させるか祓うか、何かしら行動を起こしただろう。
いくら真莉夢が悪意を持っていようと、佐奈を悪霊化させた原因であろうと、霊と無関係な一般人であることに変わりはないのだから。
「ご、ごめ……んなさい……っ」
か細い声で縷々がそう言うと、真莉夢はピタリと動きを止める。そのままジッと縷々を見つめて、右側の顔だけで不意に笑顔を見せた。
「よく言えました。頑張ったねぇ、来々さん」
「え……?」
そっと、真莉夢は縷々を抱きしめる。しかし縷々の身体は、後ろから羽交い締めにされたままだ。
「……私ね、やっとわかったんだ。本当はずっと来々さんと……ううん、縷々ちゃんとお友達になりたかったんだって」
どこまでも優しい声音が、縷々の脳をフリーズさせる。
真莉夢は慈しむように真莉夢の頬をなでてから、ゆっくりと縷々から少しだけ離れた。
「ね、仲直りしよ? 私、意地悪ばかりしててごめんね」
「え、あ……」
「今度一緒にお出かけしよ! お揃いの服着て、お揃いのメイクで!」
上ずった声で、歌うようにそう言うと真莉夢は振り向かずに後ろの男へ手を伸ばす。
すると、後ろの男は震えた手でバッグから茶色の瓶を取り出して真莉夢に手渡した。
「っ!?」
”茶色の瓶”の正体をなんとなく察して、縷々は絶句する。
「メイクしてあげる約束、してたよね」
瓶の蓋が外された瞬間、縷々は泣き叫びながらその場で力いっぱいもがいた。
男の手は緩みそうになっていたが、正面の真莉夢に睨まれると同時に改めて力が入る。縷々の貧弱な筋力では、ここから逃れることは決して出来ない。
「お揃いの左側、いこっかぁ!」
瓶がゆっくり近づいてくる。
「い、いやっ……嫌だっ……やめっ……!」
泣きじゃくる縷々をいたぶるようにして、緩慢な動作で瓶が傾けられる。
まるでただの水みたいに流れて、瓶の中身が縷々の頬を伝ってしまう。
そして次の瞬間、想像を絶するほどの激痛が縷々の神経を焼いた。
「ああああああああああああああああああああああああああっっ!」
顔の左半分が熱い。
濃硫酸の起こした化学反応が、縷々の顔を急速に焼いている。
垂らされたのは精々数ミリ程度だ。それだけでも、信じられない程の激痛が縷々を襲う。
タンパク質の焼ける臭いが漂う。
流れた涙が、濃硫酸によって一瞬で蒸発する。僅かに散った濃硫酸が、真莉夢のスウェットに飛び散った。
「は……はは……あははははっ!」
狂ったように、真莉夢はケタケタと笑う。
「やったああああ! これでお揃いだねええええ! ねえ、これでお友達になれたよね、ねぇ!? あははははははははははっ!」
狂ったように笑う、嗤う、咲う、嘲笑う。
もうとっくに、孔雀門真莉夢の心は壊れてしまっていた。
とめどなく笑い続けて、真莉夢は再び濃硫酸の雫を縷々の左頬に垂らそうとする。
「や、やめっ……おねがっ……い……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「よく言えたねええええええ! でもだぁめぇええええええっ! けひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」
もう一度激痛が顔を焼く。このまま死んでしまうんじゃないかと思う程の苦痛と絶望の中で、縷々の意識は呆然とし始めていた。
ここには縷々を守ってくれる人はいない。
自分で身を守る術もない。
何もかもを投げ捨てた真莉夢は、もう止まらないだろう。
(……何が、何が悪かったんだろう……)
もう何もわからない。
どうしてこんなことになっているのか。どうしてこんな目に遭わなければならないのか。
物心ついた時からずっとそうだった。
視えるハズのないものばかりが視えて、見えていなければならないものはよく見えなかった。
ほとんど誰ともうまくいかないままずっと卑屈になって、家でも学校でも隅っこでうずくまるようにして生きてきた。
せめて誰にも迷惑かけないようにうずくまっていたのに、どうしてこんなことになるんだろう。
きっとこのまま死ぬんだと思うと、諦めもついてくる。いっそ殺された方が、何もかも手放せて楽になる。
楽になる?
否、そんなハズはない。
縷々の行き着く先はきっと、悪霊だ。
蹂躙されて死んだ者の末路は、いつだって悪霊なのだ。縷々だってきっと変わらない。
思い返せば、そんな霊ばかりだったように思う。
信じていた男に裏切られて、結果的に殺されてしまった霊。
詐欺師に搾取されて、心中を選んだ家族の霊。
呪いに触れて、ただ殺されてしまった男の霊。
生前いじめられて、最後は悪霊に成り果てて祓われてしまった佐奈。
みんなみんな被害者だった。
誰にも、死ぬべき理由なんてなかった。ただ幸せを願って、生きていただけなのに。
いつだって誰かの悪意が、誰かの生を踏みにじる。
悪霊よりも、生きた人間の悪意の方がずっと醜い。
逆恨み。
保身。
無関心。
誰かを踏みにじってでも幸福になりたいと願う、捻じ曲がった欲望。
ああ、生きた人間とはこんなにも醜かったのか。
道理で生きていられないわけだと、縷々は今更納得した。
「………………ってる……」
朝宮露子は間違ってる。
そう思った瞬間、縷々はその場で膨大な負の霊力を感じ取った。
ここには悪霊なんてどこにもいなかったハズなのに。
(ああ、そうか。これ、縷々の霊力なんですね)
縷々の中で、負の霊力が膨れ上がるのがわかる。
自分が生きているのか死んでいるのか、縷々にはもうよくわからなかった。
間違ってる。
間違ってる間違ってる間違ってる間違ってる間違ってる。
生きた人間に救う価値なんて、ほとんどありはしない。
無数の死者こそが被害者で、悪意を持った生者こそがこの世から祓うべき邪悪だ。
更生の余地なんてない。
根本の腐った人間は、何があったって変わりはしない。
生き続ければ生き続けるだけ、他者を蹂躙し続ける。
死者を祓い、生者を救う。それがルールなのだとしたら、誰かが正さなければならない。
縷々の中で膨れ上がった霊力が、徐々に縷々の身体を満たして、融け合っていく。まるで自分自身が霊になっていくかのようだった。
今まで制御し続けていた霊力が、止め処なく溢れてくる。
この力は縷々の、縷々だけの力だ。
視るだけの力ではない。
これはきっと、正すための力。
間違った世界を、ルールを、縷々自身の手で正すための力なのだ。
どうしてそれに今まで気付けなかったのだろう。
ただあるだけの力だなんてとんでもない。
力を持つ者には、それ相応の責任がある。
世界の理から外れた力を持つならば、それは正しいことに使わなければならない。
この世にはびこる薄汚い汚物を、排除するために。
腐った生者が蔓るのが是とされて、黙する被害者が祓われる。
狂ったルールを、破壊する。
「間違ったルールは、”私”が正します」
そして縷々は、”来々縷々というカタチ”を放棄した。
どろりと溶けるようにして、縷々は拘束を逃れる。
その身体は、ほとんど霊化していた。液体のような形状になって地面に滴り落ち、そして今度は真莉夢の目の前で再び”来々縷々”へと戻っていく。
左頬に、涙跡のような火傷を一筋、残したまま。
「は……?」
異常な光景に、真莉夢は言葉を失った。
そして次の言葉を紡げぬまま、真莉夢の身体に何か鋭利なものが突き刺さる。
「あなたの”生”は間違っています。”死”んでください」
真莉夢の身体に突き刺さっていたのは、歪な棘のように変異した縷々の右腕だった。
尖った棘が深く突き刺さり、真莉夢の臓器を貫通する。その場で血反吐をぶちまけた真莉夢を見て、縷々は小さく嘆息した。
鼓動がわかる。
まだ生きている。
その事実に、反吐が出るような思いだった。
「本当に生き汚い。ならその生の限り苦しむと良いですよ」
そう言うと同時に、真莉夢の身体に突き刺さった棘から、更に無数の棘が生える。そのまま縷々は、右腕でゆっくりと、滅茶苦茶に破れた真莉夢の臓器をかき混ぜた。
「ひっ……ぎ……ぃぃ……っ!」
その場に膝をつき、孔雀門真莉夢は許しを請うようにして両手を合わせて掲げる。それでもまだ、縷々は真莉夢が息絶えるまでゆっくりと臓物をかき混ぜた。
変異した腕でもはっきりと伝わる生のぬくもりが気色悪い。生きているものは、こんなにも不愉快で汚らわしかったのかと呆れてしまった。
***
やがて、真莉夢が息絶える。
黙々とかき混ぜていた右手を引き抜くと、赤黒い血と破れた臓器の欠片がこびりついていた。
そこでハッとなって、縷々は辺りを見回す。
気がつけば、周囲には真莉夢の部下だった男達の死体が転がっていた。
「……?」
よくわからなくて首を傾げたが、段々と思い出す。
逃げ惑う男達と、真莉夢をかき混ぜながら淡々と男達を始末する縷々。
液体のように変異する身体は、伸縮自在で本当に便利だった。
真莉夢を大事にかき混ぜながらでも、周りのゴミを簡単に始末してしまえる。鋭利な刃物に変化した縷々の左腕一本だけで、何人もの”間違った命”を”死”へ還せた。
淀んだ霊力が全身に溢れている。自分の身体が生きているのか死んでいるのか、縷々自身にもよくわからない。
ただ一つ言えるのは、”来々縷々という少女”は既に死んだということだけだ。
だが不思議と、自分が霊だとは思えなかった。
あれだけ異質な変異は霊体でなければあり得ない。だと言うのに、縷々の心臓は今も物理的に脈打っている。
死者でも生者でもない、その境界にいる者。
「……半霊、とでも言うんでしょうか」
ひとりごちて自嘲気味に笑い、縷々は真莉夢の死体に背を向ける。すると、それと同時に今度は自分のものとは別の負の霊力を背後から感じ取った。
「……はぁ」
振り返らずに、縷々はわざとらしくため息をつく。
「ァッ……ア゛ァ゛……ッ!!!」
振り返ると、そこにいたのは霊化した真莉夢だった。
じっくりと苦しめたのが仇になったのか、その霊魂は既にほとんど悪霊化している。
その霊魂はほとんど原型をとどめていない。孔雀門真莉夢という人格は崩壊しており、淀みきった霊魂だけがただそこにあった。
これはもう、悪意と怨嗟だけが具現した真莉夢の残り滓だ。
「……シテ……やル……ころシて……ヤる……ッ」
どこまでも生き汚い魂に、縷々は舌打ちする。
「……なら、置いていくわけにはいきませんね」
そう答えて、縷々は再び身体を変異させる。
その姿は、不定形で液状の怪物だった。それが流動しながら巨大な口を作り出し、その口で真莉夢の霊体を一口で飲み込んだ。
「っ――――!?」
飲み込んですぐに、縷々は再び来々縷々のカタチへ戻る。
縷々の中には、まだ意識を保ったままの真莉夢の霊魂が残ったままだ。
逃げ出そうと腹の中でもがく真莉夢の霊魂を、縷々はそっとお腹の上からなでてやる。
「あなたはどこにも行かせません」
そっと、慈しむようになでる。
「地獄なんて生ぬるい。終わりのない責め苦を、私の中で受け続けると良いですよ」
半霊。
人間が生きたまま、魂のみが霊化し、肉体ごと変異する。
大抵の場合、それは生きたまま悪霊に成り果てることを意味していた。




