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時の停滞

これは、とある人から聞いた物語。


その語り部と内容に関する、記録の一篇。


あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。

 クロノスタシス、という言葉をみんなは知っているだろうか。

 いかにもファンタジーに使われそうな単語だが、こいつはちゃんとした専門用語として存在する。代表的なものは、さっとアナログ時計を見たとき、秒針の動きがやたら遅く感じること。つまり、一秒が長く感じられてしまう現象だ。

 原因は脳の錯覚にあるという。素早く目を動かすと、我々はあらゆるものが動くブレた視界を経るわけだけど、実はあれを脳は認識していない。見なかったことにしとかないと、今ごろ我々は視点を移すたびに「映像酔い」しまくっているだろう。

 その見なかったことを、後になってからつなぎ直すための時間がほしい。そのために一秒がやたら長く感じるクロノスタシスを使い、帳尻合わせているのだとか。


 要は高精度な編集のための時間の確保。我々の脳でさえ現実をリアルタイムで認識できているとは限らないんだ。いやはや、時間とは自在に付き合う相手とするに、まだまだ手間がかかりそうな高嶺の花だねえ。

 この感覚は何も視覚に限らず、あらゆる感覚に対しても起こりえるらしい。そこに紛れて、よからぬことを企む輩も実は存在するかもしれないな。

 先生が昔に体験したことなんだが、聞いてみないか?


 先生も小さいころから、このクロノスタシスの現象が起こることは知っていた。

 まあ、当時はその名前を知らず、ときおり起こる不可解な現象として胸のうちにしまっておいたんだ。

 ほら~、たいていの人が一度はわずらうんじゃないか? 自分が特別な何かなんじゃないかっていう自覚、思い込み、妄想……それらの類だ。他人よりわずかに、いやひょっとしたら圧倒的に抜きんでているんじゃないか、と思える事物。大事にしたくはないか?

 そういうわけで、先生は独自にこのクロノスタシスになじみ、あわよくば解明しようと思っていたのだけど。


 ――なんか、ここのところ頻度が多いな。


 科学的に、クロノスタシスは素早く五感の対象が切り替わるときには、ほぼ確実に起きていることなのだという。はっきりと自覚できるときはまれだから、普段の我々はあまり気にならないらしいのだけどね。

 だが、この日はやたらと一秒を長く感じるときが多かった。


 まただ、と思ったのは、一時間目の授業のおりだ。

 つまらない内容の授業だと、ついつい時計を見る頻度が増してしまう。そうして見ちゃうがために、ますます時間の流れが遅く感じてしまうもの。嫌でも他のものを見て、神経を凝らしたほうが身のためなんだ……理屈で分かっていても、実行できるかは別問題だけどね。

 そうして時計へほぼ3分おきに目を移してしまっていたのだけど、その最初の一秒がやたらと長い。

 秒針が差した位置から、一秒におよそコンマ2か3ほどは加わっているだろうか。説明される声も、板書していく音もいささかも途切れることはないというのに、相変わらず奇妙な感覚だ。

 周囲のみんなも大あくび。熱心にノートをとっているのは全体の3割がいいとこで、他は眠りに至る者、そうでなくとも明らかに放心状態なうわの空の気配を見せている。

 先生もついっとノートへ目を落とし、板書を見やってシャーペンを走らせるも、やはり頭には入ってきそうにない。

 あくびを噛み殺しながら、またも時計へ目を移そうとして。


 気づいてしまう。

 前の席に座っているクラスメートの女子。その向かって左肩に大きい蚊らしきものが止まっていることに。

 形状こそ蚊だったが、その大きさは先生の握りこぶしを二つ重ねて、なおゆとりがあるほど。そして、ほどなく先生の見ている前でぱっと消えてしまったんだ。

 はじめは幻か見間違いかと思ったんだけどね。いったん机へ目を移してから、再び向けるとやはりいるんだ。

 動いている。口ふんに当たる部分が彼女の首目がけて、ちょいちょいちょいと上下に何度も揺れているのが見えたんだが、それもやはりわずかな間だけ。

 そいつはにわかに消えてしまい、すぐ背後には黒板の一角が見えるのみだ。


 でも、先生は気づいている。

 例のクロノスタシスで感じる、あの引き伸ばされた時間の中でのみ、この蚊は視認できるんだ。そして、どうにもよからぬ動きをしているように思える。ならば……。

 先生は消しゴムの一部分をむしり、またも視点を動かして、クロノスタシスを発動。やはり現れた肩の上の蚊目がけて、ちぎった消しゴムを投げつけたんだ。

 この手の遊びには慣れていたから、彼女をかすめることなく蚊のみをきれいにとらえ、吹き飛ばすことには成功した。

 しかし、そいつは黒板に叩きつけられるより先に蚊そのものは消えてしまい、消しゴムが黒板に直撃することになる。

 まあ、授業中だしな……それこそ教室中の時間が止まったかと思ったよ。

 けれど、ただ事じゃないと認識されたのは、消しゴムの当たった黒板の部分はそれから十数分は得体のしれない煙を吐き続け、消しゴムはというとものの数十秒の間に溶けるようにしてなくなってしまったってことだ。

 なじみの現象と思ったら、利用するやつもいるってわけだね。

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