第二十四走 ガバ勢と月に触れた子供たち
参加者が乗り込むと、箱舟は大きなオールを多数の翼のように動かし、ひとりでに海原へと漕ぎ出した。
その厳かで重厚な進水は人々に驚きと感嘆の声を上げさせ、そしてそれはすぐにマーブルガルズの海への感動へと変わった。
冷たく黒々とした海は生命の宝庫だった。
沖へと漕ぎ出してすぐ、一行はアザラシの大群と出くわした。彼らはこれが神聖な船だと知っているのか、しばらく隣を一緒に泳いだ後、手を振って見送ってくれた。
これには参加者たちは大喜び。ルーキもニーナナを肩車してやりつつ、二人で大きく手を振り返して挨拶した。
イルカやシャチとも出会った。時に圧巻だったのは、箱舟に負けじとでかいマッコウクジラ。特大のジャンプを見せて大波を起こし、参加者たちを驚かせた。神話の時代を生き抜いた箱舟は、その程度ではわずかに揺らいだだけだったけれど。
「それは気分がいいので一曲披露いたしましょう。ボエ~~~」
「あのさぁ……」
「何だこの騒音はぁ!?」
「相変わらずなのね(嘲笑)」
キオンの歌は成長してもヘタクソだった。
夜の美しさもまた格別だった。
満天の星空。輝きの輪郭すらはっきりと見える大きな月。
闇そのものであるはずの海面にも不思議なことが起こっていた。光り輝くクラゲたちが、船の航路を指し示すように一本の道を作ったのだ。まるで海に現れた星の川。それは商魂たくましくメモをひたすら取り続けていたアドフェンが、薄く笑って手帳を閉じたほどの絶景だった。
日中はまとまって海を眺めていた参加者たちは思い思いの場所に移動し、親しい人々だけでその神秘的な世界に浸った……。
「ルーキ」
船内で用を足したルーキが皆のところに戻ろうとする途中で、キオンに呼び止められた。話がしたそうな態度に応じ、彼女のいる船縁へと歩いていく。
「いかがでしょう。マーブルガルズの夜の海は」
「ああっ、控えめに言ってクッソ激烈に感動してるよ。本当にいい土地だなここは。キオン姉貴が守ろうとする理由がはっきりわかる」
「それはよかった」
そう微笑んだキオンは、緩やかに吹く風になびいた髪を手で押さえた。月光がじゃれるように彼女をきらきらと縁取り、この人が天から降りてきたことを伝えていた。
「昼間はありがとうございました」
手すりから海を眺めながら彼女が言う。
昼間というと、山登りのことか。
「わたくしは色々と誤解していたようです。人間は山を斬れるものだと。時々一緒に走ってくれるウェイブ親父さんができたので、他の人もてっきり……」
「あの人さぁ……」
何をやっているのだあのガチ勢の頭領は。人間の上限を一人で勝手に押し上げるのはやめろ繰り返す人間の上限を押し上げるのはやめろ。
「わたくしは走者を名乗ってはいますが、本当のところあまりそういう自覚はないのです。RTAに関係なく、わたくしはこの地を魔王から守り続けてきました。人々がこの地に根付く前からです」
「へえ……やっぱ神様なのか……」
「一人で戦うのが……一人で走るのが当たり前でした。でもある時、走者という人たちが現れ、仲間と一緒にこの地の人々を守ろうとしているのを見て、わたくしは自分が独りであることに気づいたのです」
温もりを知らなければ寒いことには気づけない。
キオンは知った。仲間と共に戦うということを。
けれど頂上は一つしかないから。古来よりの勇者であるキオンキューレがRTAを始めれば、それはもう誰にも追いつけなくなる。たとえ走者の時代が来ても。それこそウェイブ親父くらいにしか。
「特別悲しいとか寂しいというわけではありません。町の人とは親しくしていただいておりますし、ルタから便利なツールを提供していただくこともあります。けれど今回、改めて思い知りました。誰かと走るのは楽しいと。たとえ神聖な使命の中にあったとしても、ほっとできる時間がほしいと……」
「キオン姉貴……」
月の光に広がる声は、夜のように静かだ。
今回は単なるRTA教習。タイムもつけずチャートもない。だから一緒にいられた。
昼間ルーキはああ言ったが、本走で同じように走れるのはいつになるか。
楽しみを待ちながら過ごす時間は、果てしなく長い。
「キオンおねーちゃん」
不意に、あどけない声がその名を呼んだ。
ルーキがふと振り返れば、そこには日中キオンを取り囲んでいた子供たちの姿がある。
彼らは皆、決意に満ちた顔をしていた。ルーキもキオンもそれに面食らっていると、
「キオンおねーちゃん、おれ、いつかキオンおねーちゃんと一緒に走れる男になるよ!」
「わたしも。ぜったいガチ勢になる!」
「ぼくも!」
「あたしだって! だってキオンおねーさんは友達だもの!」
「……!」
キオンがはっとする。
子供たちは話を聞いていたのだ。キオンが独りであることも、同じレベルで走れる仲間を求めていることも、もう知っている。
「皆さん……」
キオンが声を詰まらせる。これは無邪気な子供の、無責任な夢なのかもしれない。しかし彼らとて、バルキューレの人知を超えた能力は見てきたはずだ。遠い道のりであることは百も承知。それでも、思いだけは一足先に乗り越えてきた。それはルーキにもわかった。
――乗り越えるか。そうだよな。
「だったらよ、キオン姉貴も他の開拓地に顔出してみるっていうのはどうかな」
「え?」
ルーキの発言に、キオンは虚を突かれた顔になった。
「キオン姉貴がここの重要な守護者ってのはよくわかってんだけどさ、大丈夫な時期ってのもあるんだろ? その時に他のRTAをやるんだよ。バーニングファイターとか、スタールッカー姉貴とか、前は現地に住んで走ってたガチ勢も、最近は結構色んなところで見るようになったんだぜ」
「わたくしが、他の土地に……?」
キオンの戸惑う顔に、子供たちの期待する視線が集まる。
「ああ。ここでは無敵のキオン姉貴も、よそじゃ新人だ。一緒に走れるし、走りたい走者はいっぱいいると思うぜ。もちろん、俺たちもな」
「……!」
完全に想定外だったのだろう。キオンはただ戸惑いの視線を揺らしていた。きっと、生まれた時からこの土地を守っていた。出ていくなんてこと考えもしなかった。ここが彼女にとっての世界。世界のすべて。
「あー、でも、巨人の霊気とかそういうのがないと困るのか? 元の姿に戻れないとか……」
「……! そ、それは」
不意に、狼狽えた様子を見せるキオン。それから口元に手を当て、ひそひそと囁くようにこんなことを言ってくる。
「ルーキさん、これ内緒にしてくださいね。わたし、普段はこんなに育たないんです。二日目の状態からちょっと背が伸びたくらいが、本来のわたしです」
「! へへ……そっか」
「それに、巨人の霊気がなくてもバルキューレは強いですから。そこらの相手に後れは取りませんよ」
そう言って、冗談っぽく力こぶを作って見せる。しなやかでほっそりした二の腕には、そんなものはできなかったけれど。
「わたくしが、他の土地に……。わたくしが他の誰かと……」
一旦気持ちを切り替えるように、キオンは繰り返した。いまだ残る戸惑いと困惑。彼女がうつむいた時、ちょうど子供たちと視線が交わった。
真剣で純真な瞳。彼らの心は力の差を超えてきた。種族の境界を超えてきた。
彼女の目に、光が定まった。
「わかりました。わたし……今度ルタに行ってみようと思います」
『やったぁ!』
喜びを爆発させたのは子供たちだった。
「だったらわたしのうちに泊まりに来てよ!」
「ぼくも一緒に遊びたい!」
彼女にとって初めての旅。初めての冒険になる。バルキューレの……いやキオンキューレの冒険! その不安を吹き飛ばしてくれる温かい歓迎がそこにはあった。
「みんな……。ありがとう――」
感激した様子で、キオンは一番近くにいた少年と少女を抱きしめた。
「わぷっ……」
「んむ……」
感謝の限りぎゅーっと抱きしめ、離した時には、二人とも忘我の表情となっていた。
ゴクリ……。それを見た他の子供たちも、「ぼ、ぼくも」「あたしも……」と寄って来て、キオンから実り豊かなハグを受けた。
一通りそれが終わって――彼らは完全に停止していた。石のように立ち尽くして一言も発さない。
(えっ、なにこれは……)
ルーキは慌てて彼らの目の前で手を振ってみた。すると、
「……れり……」
「へ?」
「……誓約は為されり……」
カッ、と彼らの目が光った。
「ファッ!?」
「我ら、双月光の騎士団。豊饒なる月の誓いに基づき、光に仇なす闇どもを一片も残さずに討滅する……」
「森羅万物に光あれ!」
「月輪の抱擁あれ!」
聞いたこともない宣誓文をやたら饒舌に読み上げる子供たち。その目はどこまでも澄んでいて、捨て去っていた。唯一の誓いのみを瞳の中に残して。
「キッ、キオン姉貴、これは……!?」
「まあ、なんて頼もしい子供たちでしょう。みんなの将来に期待していますね」
『ハイ! 我が双月光!』
「違うだルルォ! これ絶対まずいと思うんですけどぉ! いやホントマジで……治る? 次回にはしれっと治ってる!? 頼む治っててくれ!」
月狂。人と月の距離が近づいた時、その光は精神を惑わすという。
満月、それが二つ、しかもそれに押し潰された経験となれば――。
幼い子供たちが新たな扉を開いてしまうのは、仕方のないことかもしれなかった。――代冒険家アドフェン、その日の記述より。
「メモってねえで何とかしろアドフェン!」
無茶言うなや。
治っても月を見るたび発症しそう。




