第七十四話 はじまりの物語(破)
ずっと、考えていた。
食事の時にナイフを見ながら。
手紙の封を切るときにペーパーナイフを見ながら。
あるいは離宮の塔から城下町を眺めながら。
──このまま、終わってしまおうかなって。
このまま私が消えても、きっと誰も困ることはない。
お父様は表面上悲しむかもしれないけど、内心では面倒な娘が消えてくれて良かったと思うはずだ。他の兄妹たちは言わずもがな。使用人たちだってせいせいするに違いない。そう思いながらも実行に移さなかったのは、あることに気付いたからだ。
「……」
離宮の塔の上から見える、城下町の景色。
正面の大通りから離れた城壁のそばに一人の女が立っていた。
フードを被ってはいるけど、そこから覗く白髪は遠目からでも目立つ。
その女は王宮に憧れる少女のように、ただじっと、何もせず王宮を見上げていた。
「……なんで」
私が兵士に聞くと、その女はずいぶん前から毎日、同じ時間、同じ場所で、ただ王宮を見上げているという。胸の上でぎゅっと拳を握り、祈るようなその様は神に祈る信徒に似ていた。じっと見ていると、やがて女は諦めたように項垂れ、そして去っていく。
そんな日々を、繰り返していた。
「なんで……今さら」
気付いたところで、私と彼女はもう住む世界が違う。
平民の出とはいえ私は王女として民に認知されているし、お父様だって稀に時間を取ってくれるし、税金を使って教育も受けている。今さら会いに来たところで、遅いのだ。彼女が何をしようとしても、死んだはずの女が王妃として舞い戻ることなんて出来ないし、私たちが双子である事実は変わらない。
「あなたはエリィを選んだのに……なんで」
怒りだ。怒りだけがあった。
あの女の真意が知りたいがために、私は生き続けてきた。
一体どれだけの日々が過ぎただろう。
雨の日も嵐の日も雪の日も、飽きもせずにアルテマは王宮を見上げていた。
私も飽きもせず同じ場所でその姿を眺めている。
転機が起こった。
「え?」
いつものように眺めていた塔の最上階。
どこからともなく現れた男がアルテマを襲っているのが見えた。
慌てて逃げ出したアルテマを見て、私は居ても立っても居られなくなる。
……助けなきゃ!
初めて出会った頃なら、きっと死んでしまえと思っていた。
だけど、色々と落ち着いて来て、たくさん調べて、知りたいと思った。
それを聞くまでは、見殺しになんてしてやらない。
「ジェイクランド! ジェイクランド! こっちに襲われてる人が居るわ。門を開けなさい!」
「え? はぁ、でも姫さん、そんなの助けてたらキリがないですけど……」
「お前がサボって酒を飲んでることお父様にばらすわよ」
「はは、冗談に決まってるじゃないですか。やだなぁ」
私は買収済みの門番を使ってアルテマに馬乗りになっていた男を排除した。
アルテマのフードが取れて私そっくりの顔が現れる。
「姫さん、こりゃあ……」
「うるさい。職が惜しかったら黙りなさい」
物言いたげな門番に厳命し、アルテマを門番の宿舎へ運び込む。
応急処置だけさせて他人を追い出した。
扉をしめ切った室内でアルテマは痛みに呻いている。
「うぅ……うぐ」
(……足の腱が切られてる。これじゃあ、もう……)
アルテマが脂汗を流しながら私を見る。
「どなたか知りませんが……ありがとうございま……」
時が、止まった。
「ぁ」
「……」
アルテマの目に、見る見るうちに涙が溜まる。
「ディア、ナ……?」
妹を撫でていた手が、私に伸ばされて──
「下賤の者が私に触らないでくれるかしら。汚らしい」
パチン、と。私はその手を振り払っていた。
アルテマの顔が辛そうに歪められ、きゅっと唇を引き締める。
「私を捨てたくせに」
「……っ」
──違う。こんなことが言いたいんじゃない。
──もっと違う聞き方があるでしょ。なんで攻撃してるの。
理性ではそう分かっているのに、心の奥に沈んでいた言葉が溢れてくる。
「王宮から逃げ出した恥知らずが、なんであの場所にいたの」
「……」
「毎日あそこにいたでしょ。危ないと思わなかったの」
忌み子を産んだ母が誰かに狙われることは分かっていたはずだ。
そのために彼女は私を捨ててエリィを選び、貧民街へ逃げ込んだ。
事件の詳細は知らない。けど、そんなことは子供でも分かる。
きっとこの時の私は、逆の言葉を求めていた。
母がお金目当てのクズで、エリィを養うためにお金が欲しくて。
王宮の煌びやかな様が羨ましくてずっと見ていたんだって、そう言ってほしかった。
それなのに。
「あなたに会いたくて」
「……っ」
「あそこに居たら……いつか……会えるんじゃないかって……」
私はもう、思いっきり叫びだしたくなった。
実際、そうした。
外で誰かが聞いているかもしれない危険も忘れて私は叫んでいた。
「じゃあなんでっ!!」
「……」
「なんで私を捨てたの!? なんで私を置いて出て行ったの!? あんな、あんなところに私を置いて、妹だけ選んでおいて、私に会いたかった? ふざけるな! 今さら母親面して同情買おうしてんじゃないわよ! 何様のつもり!?」
「……ごめんなさい」
「謝るな! それはお前が楽になりたいだけの言葉だ!」
「それでも、ごめんなさい」
「だから、なんで……!」
私は振り上げた拳を、アルテマにぶつけられなかった。
血の味がする唇を噛みしめて、ただ俯くしかなかった。
ぽたり、ぽたりと地面に染みが出来ていく。
「なんで、謝るのよぉ……」
いっそのこと、悪い人だったら楽だった。
私のことを捨てて、お金目当てで、妹だけ大切にするクズ親だったらよかった。
そうだったら私は、今すぐ全部終わりにすることが出来た。
なのに、この人は。
「本当は、二人一緒に連れて行きたかった」
「……っ」
「でも、私が双子を生んだと知られたら絶対に良くない人が出てくる。フリードリヒ様も……国王様も忌み子を処分するかもしれない。あの人は、王様だから」
身体を震わせながら、わなわなと口元を覆った。
「私はこの国の地理に明るくないし、戦火で王都の外はひどいところだって聞いて……お金もあまりなかった。二人とも連れて行ったら、全員飢えて死んじゃうかもしれなくて……でも、一人だけ残して行けば王宮で豊かな暮らしが約束されるし、一人は必ず助かる……だから……っ」
──本当は分かっていた。
この母が王宮を見つめる目は、私が毎日鏡で見る目と同じ。
家族に会いたい。そんな思いで溢れていて。
妹に対してあんなに優しい人が、好きで私を捨てようとするはずないって。
私はただ、羨ましかったんだ。
家族と一緒に暮らすこの人が、母と暮らす妹が。
羨ましくて、妬ましくて、なんで私がそこに居ないのか、そればかり考えていた。
「メイド長も共犯なんでしょ」
「……うん」
だけど私は、この人を許さない。
一人しか連れて行けなくても、この人が私よりエリィを選んだことは本当だから。
「その足じゃ、もう働けないわね。これからどうするの」
「……」
「どうして今まで無事だったの。狙われたんでしょ」
「分からない……ずっと放置されてたけど……最近になって、私たちを探す人が多くなってる気がして……」
全身に電流が走ったような感覚だった。
私は愕然と口元を押さえた。
……もしかして、私のせい?
私が塔の上からアルテマを見つけた時。
あの時、私は買収していない門番にこの人のことを聞いた。
職務に忠実な門番は「怪しい奴がいた」と上司に報告するだろう。
それが回り回って、忌み子を良く思わない輩の耳に入ったとしたら。
「……っ」
無垢な笑顔が、脳裏に浮かんだ。
きつく目を瞑った私は、感情の火を吹き消した。
「あなたたちは私が保護するわ」
「え……」
「その代わり、あなたはエリィと暮らすのをやめなさい」
アルテマは目を見張った。
「でも、それじゃあ。エリィは」
「エリィは私のメイドにする。捨て子を拾ったことにすれば何とかなるでしょ」
問題は容姿が瓜二つということだが、幸い、離宮の者は職務に不真面目だ。
王女の給金で買収し、とびっきり小汚い格好のあの子を連れて、影武者にするために拾ったと言えば納得するだろう。第三王女なんて平民以下だと言っている輩もいることだし。
だけど、アルテマはダメだ。
第三妃だったこの人の顔は王宮中の人間が知っている。
死んだことになってるこの人が生き返ればエリィの身も危うくなる。
「人族と魔族の中間に、誰も入ってこない場所があるわ。あなたはそこで暮らしなさい」
「たすけて、くれるの……?」
「助けない。勘違いしないで」
本当なら、二人一緒にそこへ送り込むことだって出来たはずだ。
そうしたらアルテマとエリィは二人一緒に仲良く暮らせる。
でも私はそうしなかった。
「私があなたを助けるわけないでしょう。あなたはもう世界で一番大切な娘に会うことは出来ない。絶対に会えない場所で、一人ぼっちで暮らすのよ。その代わり、あの子だけは私が何としても守ってあげる。
「……守ってくれるの?」
今後も襲ってくるであろう暗殺者から、妹だけは守る。
その代わりに母娘を引き裂くと言ったのに、アルテマは涙を溜める。
「……守らない。あなたの心なんか、守ってやらない」
私を捨てた女を許すつもりはない。
どのような事情があろうと今後も許さないだろう。
だからこれで、チャラだ。
私から家族を奪ったこの人には、私と同じ苦しみを味わってもらう。
「あなたは娘を捨てた母親として生きなさい」
「……」
「それが、あなたへの罰よ」
私が背を向けると、アルテマが居住まいを正す気配。
鏡に映ったあの人の涙は止まっていて、彼女はただ深く頭を下げた。
「ありがとう、ございます、王女殿下」
「……さようなら」
扉を閉めると、すすり泣く声が聞こえた。
ごめん、ごめん、と繰り返す声を無視して、私はメイド長に告げる。
「聞いてたでしょ。エリィの家に防護魔術をかけなさい。悪意ある者が入らないように」
「……王妃様は」
「例の場所へ連れて行って。月に一度食糧を届けさせなさい」
「かしこりました」
メイド長は母を逃がした張本人で、共犯者だ。
私を一人ぼっちにしたこの人には、私とも同じ罪を背負ってもらう。
子供から母を取り上げるという罪を。
◆◇◆◇
──アルテマを王都から移送した翌日。
枕に顔を押し付けた子供の泣き声を、窓の外から聞いていた。
夜は中天にまで登っており、廃屋に近付く者は誰も居ない。
あの子の声を聴いているのは私一人だけだ。
「お母さん、どこ……なんで帰ってこないの……?」
エリィは靴が擦り切れてボロボロになるまで貧民街を走り回っていた。
知り合いらしき人たちみんなに聞いて回って、それでも居場所が分からなくて。
悪漢に追いかけられて逃げ出し、家の中に駆けこんで、枕に顔を押し付ける。
その一部始終を、私は見ていた。
エリィが泣いているこの声こそ、私の罪の証だ。
「嫌だよ……わたしを一人にしないでよ、お母さぁん……」
(ごめんね……)
あなたから母を奪ったのは、私なの。
あなたに心の傷を負わせたのも、あなたの母を傷つけたのも、全部私のせい。
それでも、私は──
「私が傍にいるから。あなたを一人にしないから」
私は窓の外にアルテマに書かせた「ごめんね」という手紙を置いて。
翌朝見たときにエリィが捨てられたことを察するように仕込んだ。
そして空腹で彼女が死にそうなとき、何気ない風を装って堂々と貧民街に赴いたのだ。
「あなた、私のメイドにならない?」
「え?」
食べ物がなくて、痩せ細って、今にも死にそうだったエリィ。
そうしたのは自分だと分かっていながら、私は何も知らない王女を装って言った。
「汚い子供ね。私が綺麗にしてあげるわ」
「ぁ」
「……もう大丈夫よ」
私が抱きしめると、エリィは声をあげて泣いた。
泣いて、泣いて──泣き疲れたエリィを、私は王宮へと運んだのだ。
こうして、エリィは私のメイドになった。
とうとう私に家族が出来たのだ。
この時の私は、愚かにもそう思っていた──。




