第七十二話 目覚めと別れ
「ん……」
ぱちり、とディアナは微睡みの泉から浮かび上がった。
ぷかぷかと陽だまりの中を漂う彼女の前には自分と瓜二つの顔がある。
膝枕をされているのだろう。頭の後ろには柔らかな感触もあった。
「エリィ……?」
「すぴー、すぴー……」
船をこぐ彼女は鼻風船を膨らませている。
ディアナは呆れたように息をついた。
──どうしてここにいるのかとか、
──自分はどうなったのかとか、
ディアナに疑問はない。
レカーテの力が自分たちを繋いでくれたから。
「ごめんね……エリィ」
安らかな表情を見ていると、少しだけ罪悪感もなしになる。
ゆっくり手をあげたげディアナが指でつつくと、パチン、と鼻風船が割れた。
「……ほぁ、あ、ご主人様。起きました?」
「とっくに起きてたわ。主人の前で堂々と居眠りなんて生意気ね、エリィ」
「えへへ。だってここ、すごく気持ちよくて……ご主人様も一緒に寝ますか?」
「それも悪くないけど、あなたの膝で十分寝かせてもらったわ」
ディアナが身体を起こすと、見知らぬ草原があたりに広がっていた。
見渡す限りの平原だ。おそらく魔族領域の近くだろうと思うが。
彼女がそう思ったのはエリィの後ろにリグネの姿があったからだ。
リグネだけではない。腹心らしき森人族の男もいる。
「迷惑をかけたみたいね、魔王様」
「まったくだ」
「私はどうなるの?」
「其方の処分は魔女将に任せた。弁解があるなら、話せ」
ディアナが視線を向けると、エリィは両手を組んだ。
「ご主人様、あの」
「エリィはここにいたいの?」
エリィは目を見開いた。
「え」
「私の代わりに魔王の花嫁になりたいのかって聞いてんのよ」
幼さの残る顔が耳まで真っ赤になる。
裾をぎゅっと握って、唇を噛みしめて、俯いて。
「……はい」
エリィは顔をあげ、ハッキリと頷いた。
「私……好きになっちゃったんです。リグネ様のこと」
「……相手は竜族よ? 魔族最強、あなたより千年は歳上だし」
「分かってます」
「あなただけ老いるかもしれない。あなたに飽きて捨てられるかもしれない」
「それも、分かってます」
「お母さんと会えなくてもいいの?」
「……寂しいです。でも、いいんです」
たとえ、生き別れた母と離れ離れになろうとも。
「わたしは、リグネ様の傍に居たいです」
「……」
「瞬きのような時間を、一生のうちで一番楽しかったって思えるように」
寿命も種族も身分も力の差も、全部承知の上で。
これが限りなく自分勝手なことだと分かった上で。
「だってわたし、リグネ様のこと大好きだから」
──それでも、傍に居たいのだと。
「……」
穏やかな風が二人の間を通り抜け、ばさばさとスカートを揺らす。
たった一ヶ月しか離れていないのに、彼女の顔は見違えるように美しくなっていた。
きっとそれは顔立ちが似た自分にはない美しさだ。
荒々しかった原石が風で磨き抜かれるような逞しさがそこにある。
ディアナは口元を緩め、柔らかく微笑んだ。
「……初めて、我儘を言ってくれたわね」
「え?」
「なんでもないわ」
そう言って立ち上がり、エリィに背を向けて。
「……そこまで言うなら好きにすればいい」
「ご主人様」
「あなたとの雇用契約は解除してるんだし、生きるも死ぬも自由よ。ま、私だって魔王との結婚とか冗談じゃないし。あなたみたいに怖がらないなんて無理だしね。魔王の嫁になる才能はないのよ。だから、望み通り押し付けてあげる。私の代わりに苦労すればいいんだわ」
ディアナはエリィの返事を待たずに歩き出した。
草原の向こうにはディアナを迎えに来た馬車が止まっている。
馬車から降りて来たメイド長がディアナを迎えに立っていた。
メイド長の側まで行くと、彼女は心配そうに言った。
「よろしいのですか?」
「何が?」
メイド長は何かを言いかけ、そして首を振った。
「……条約に違反することになりますよ」
「ハッ! 要は本物の王女であればいいんでしょ? それなら問題ないわ」
ディアナは決して振り向かず、天を仰いだ。
いつか見た、残酷なほど蒼い空を。
「あの子は私の、双子の妹なんだから」




