第六十三話 あなたの代わりはいなくて
エリィとディアナが入れ替わって二日が過ぎた。
当初こそ周りに違和感を抱かせていたディアナだが、時を重ねるにつれて怪しかった点を修正していき、徐々にエリィと同じように振舞うことが出来るようになったはずだ。
(それにしてもこの二人、いつもべったりね……)
毎日一度は『おやつタイム』と称してお茶会をする時間がある。
この時間になると自然とロクサーナが現れて、扉の外で警護をしていたセナも入ってきてしまう。そこでの話題は様々だ。四大魔侯としての愚痴であったり、侍女たちの噂話だったり、魔王の話だったり、時にはディアナ──エリィを讃えるような話もある。
この時間だけではない、朝食の時もそうだ。
朝食、昼食、おやつタイム、夕食──とにかく二人がエリィにべったりなものだから、ディアナとしては気が休まる時間が少ない。
(魔王様がいらっしゃる時もこんな感じなのかしら)
少しは新婚夫婦を二人きりにするという計らいがあってもいいはずだが。
思考に耽っていたディアナの意識を、セナの元気な声が引っ張り上げた。
「そういえば、明日はリグネ様が脱鱗期を終える日ですね!」
「……!」
「えぇ、そうね。十年に一度のこととはいえ、脱鱗はかなりの疲労を伴うと言われているわ。エリィ。お前はしっかり魔王様を支えなさい」
ディアナは頷いた。
「もちろんですわ。わたくしは魔王様の妻。魔女将なのですから」
「「……」」
ロクサーナとセナが顔を見合わせているが、ディアナは気付かない。
彼女の脳内では明日の魔王との謁見を乗り切ることでいっぱいだった。
(いよいよ本番ね……魔王様を騙すことが出来れば私とエリィの入れ替わりも完了。晴れてあの子は自由の身になり、私は王女としての務めを全うする……えぇ、これでいいの。これが本来の形なんだから)
──そしていよいよ迎えた翌日。
ディアナが魔王の待つ食堂へ行くと、ロクサーナが食堂の前に立っていた。
「あら。ロクサーナ、今日は一緒に食べないの?」
「さすがに夫婦の時間を邪魔するほど野暮じゃないわよ。今日までは魔王様が脱鱗期だからエリィを独占──じゃなくて、ワタシがお前の相手をしてあげようと思ってただけ。お邪魔虫もいたけど」
「……なるほど」
それでようやく得心がいったディアナである。
さすがの友人二人もそこまで気遣いが出来ない女ではなかったのだ。
「じゃあどうして待ってたのかしら?」
ロクサーナはちらりとディアナの傍に控えるセナとララを見た。
二人は頷いて、
「うち、お手水いく」
「少しだけ外しますね、我が主様」
「……えぇ、いってらっしゃい」
護衛の二人が外れるのは以ての外だが、ここには四大魔侯であるロクサーナも居るから問題ないだろう。ロクサーナは自分に友好的な人だし。ディアナが視線を戻すと、ロクサーナは腕を組んた。
「エリィ。これで二人きりよ」
「……? そうね。ロクサーナ。それがどうしたの?」
「……」
ロクサーナはディアナの目を見つめて何も言わない。
彼女と出逢ってからこれまで何も言ってこないから、おそらくバレてはいないはず。気は抜けないものの、彼女が自分を疑っていることはないだろうと考えて、ディアナはロクサーナに近付いた。
「何か知らないけど、わたくし、もう行くわね」
「……」
「ロクサーナも、四大魔侯として頑張ってね。わたくしも頑張るから」
今は彼女に構っている場合ではない。この先に魔王が居るのだ。
《暗黒龍》リグネ・ヴォザーク。
世界最強の生物にして無敗の王者。百万の魔を統べる者。
(エリィの話では噂のように凶暴な人ではないようだけど)
頼もしく、心優しく、包容力のある素晴らしい男性なのだとか。
そう言っていたエリィの顔が何だか切なげだったから、それだけリグネが魅力的な男ということだろう。メイド時代からエリィのことを知っているディアナは、彼女がイケメンに弱いということも知っている。とはいえ、エリィが心を許すぐらいだから悪い者ではないはずだ。それなくては困る。
(セナも、ロクサーナも、アラガンも騙せた。問題ないわね)
ここ三日の成果でディアナにも自信がつき始めている。
楽観視するわけではないが、そう不安がる必要もないはず。
ディアナは扉の前に立ち、すー、はー、と深呼吸。意を決して扉を開けた。
「おはよう。よく眠れたか?」
低い響きを持つ竜の声音が、ディアナの耳朶を叩く。
長いテーブルの奥、そこに座る世界最強の生物の威容にディアナは凍り付いた。
(これが……)
頭部から生えた二本の角は雄々しく、触れるだけで指が切れてしまいそうな鋭さがある。紅炎の瞳は爬虫類じみた瞳孔で、見る者に畏怖の念を抱かせる。その身体は人族とは生物としての違いを思い知らせる、恐ろしく鍛え上げられた身体だった。
(これが……魔王っ!!)
人族の列強諸国を率いる王たちとは比べ物にならない。
思わず跪いて命乞いをしたくなるような圧がそこにあった。
(これが良い人? 優しい人? 本当にそうなの!?)
たとえそうであっても、生物としての格が違う。
内面の話ではない。絶対的に相容れない存在ではないのか。
(私は、エリィをこんな人のところに……)
自分は、何か決定的に間違えてしまったのではないか。
恐れ慄きながらもディアナは王女。笑顔の仮面を張りつけるのは得意だ。
ディアナは細く長い息を吐きだし。
「三日ぶりですね。リグネ様。わたくし、お会い出来てとても嬉しいです」
「ヌ?」
魔王は首を傾げ、
「誰だ、貴様は」
「え」
穏やかな態度が一転、険しい表情でそう言った。
ディアナは背中から止まらない汗を流しながら、
「な、何を言っていますの? わたくしがエリィですわ」
「黙れ。同じ姿、同じ魔力であっても我が竜眼を騙すことは出来ぬ」
魔王は立ち上がった。
「エリィはどこだ?」
ディアナは一歩後退った。
「で、ですから、わたくしがエリィだと……」
もう一歩下がった時、誰かにぶつかった。
見れば、視線だけで人を殺すような表情をしたロクサーナが立っていた。
「ろ、ロクサーナ? あなたからも何か言ってくださるかしら。リグネ様がわたくしのことを疑うのだけど」
「──エリィはね。ワタシと二人きりの時は『ロクちゃん』って呼ぶの」
「え」
ロクサーナがディアナの両肩を掴んだ。
血が滲むほど唇を噛みしめたその目にあるのは、怒りだ。
「敬語も使わないし、絶対に四大魔侯なんて呼ばわりしない」
「いや、わたくしは」
「お前は、誰だ」
「……っ」
──なんで。どこで。入れ替わりは完璧だったのに。呼び方だけで?
──どうしてバレるの? 私とエリィで何が違うっていうのよ?
「ワタシの友達を返してよ。返しなさい!」
「……いだっ」
「まぁ待て。ロクサーナ」
ロクサーナの肩を掴み、リグネは二人を引き離した。
冷徹な視線はディアナを捉えたままだ。
「こやつには我が話をする。其方らは外で待つがよい」
「……分かりました」
「……魔王様がそうおっしゃるのでしたら」
(……え)
ディアナは戦慄する。
いつの間にか、薙刀の刃がディアナの首に付けられていたのだ。
凍てつく吹雪のような眼光が彼女の心臓を射抜いた。
「我が主様は、わたしが外で警護するのを喜ぶ方ではありません」
「……っ」
「内緒話をする時だけです。それだって、本当にたまにで……」
セナはそれきり口を閉ざした。
もはやディアナと語る言葉は持たぬとでもいうように。
「さて」
二人きりになった食堂のなか、リグネはディアナと向き合った。
「エリィの居場所を言え。そうすれば命だけは助けてやる」
魔王の威圧感は迷わず「はい」と頷きたくなるだけのものがあった。
ことここに至って、自分が本物であると主張しても無意味だろう。
既にリグネはエリィとディアナが別人であることを確信してしまっている。
命を大事にするなら白状してエリィを身代わりにしたほうが賢明だ。
だからディアナは言った。
「言わない」
リグネは目を見開いた。
真っ向から魔王を見つめる榛色の瞳に覚悟の光が宿っている。
「絶対、言わない。私はあの子のたった一人の……たった一人の、主なんだから!!」
「……ふむ」
リグネは顎に手を当てた。
「何か事情があるようだが、貴様がニセモノであることは確かなようだな」
「違う。私がホンモノ。あなたに嫁ぐはずだった女よ」
「姿形も、声も、魔力も、すべてが酷似している。このような存在は一つしかない」
リグネは天を仰ぎ、身体の力を抜くような息を吐きだした。
彼はディアナを連れて食堂から謁見の間へ赴き、玉座に座る。
ひじ掛けに肘をつき、頬杖をつく彼はディアナに言った。
「ここなら邪魔者は入らぬ。委細話せ。状況如何によっては釈放してやる」
「……分かったわ」
ディアナは観念し、すべてを打ち明けた。
そして、リグネは──




