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第六十話 再会

 

 ヴォーパル平原は人魔戦争の中で最も苛烈な戦いがあった場所だ。

 元々あった緑豊かな自然は消滅し荒れ果てた焼け野原と化した。

 おびただしい死と魔が渦巻くことから今では魔獣さえも近づけない危険地帯でもある。


 だが、それ故に恩恵もあった。

 人や魔族が居ないことで伐採をまぬがれた森が豊かに成長し、小動物たちがのびやかに過ごす場所が生まれたのだ。ヴォーパル平原から東へ五〇キロル。魔の瘴気領域を超えて辿り着いたそこは、一種の楽園と言えるだろう。


 エリィの母、アルテナはそんな楽園にある小屋に居を構えていた。

 小高い丘のすぐ横には小川が流れ、野兎がぴょんぴょんと跳ねている。

 背の低い草が風に揺れて、小屋の外には洗濯物が干してあった。


「……あそこに、お母さんが?」

「私の役目はここまでです」


 エリィを送り届けたメイド長は言った。


「どうするかは、あなたが決めなさい」

「え?」


 エリィを馬車から下ろすと、馬車は光の膜につつまれた。

 意味深なことを呟いたメイド長の顔は光に阻まれて見えない。

 来た時と同じように、馬車は瘴気領域を突っ切って去っていく。


「……一人になっちゃった」


 ぽつんと残されたエリィは丘の上の小屋を見つめた。

 あそこに母がいる。そうと分かっても足は動かない。


 ──拒絶されたら、どうしよう。


 そもそもエリィを置いて行ったのは母自身の選択のはずだ。

 捨てたはずの娘が自分に会いに来たとして、母として嬉しいものだろうか。

 お前はもう要らないと言われたようなものなのに……。


 あるいは、忘れられているだろうか。


 もう何年前から覚えていないほど昔の話だ。

 母にとってエリィが大事ではないなら、忘れていてもおかしくない。


 だって、生きているのに迎えに来てくれなかった。

 すぐに帰ってくると約束したのに、母は帰ってこなかった。


「やっぱり、わたし」


 エリィは振り向いた。

 既に馬車は瘴気領域の彼方に消えて、どこにも見えない、

 サァ──……と、吹きすさぶ風がエリィの白髪を揺らした。


 もう、行くしかない。

 エリィは意を決して足を踏み出し、小屋へと近づいていく。

 一歩、また一歩を足を動かすにつれてどくんどくんと心臓がすごい音を出した。


 早く会いたい。けど会いたくない。

 この場から逃げ出してしまいたい。だけど逃げられない。


 しかし、来てほしくない時間ほどすぐに来てしまうものだ。

 あっという間に小屋の前に立っていたエリィはごくりと唾を飲んだ。

 人の気配がする。ごそごそと何かが動いている音。

 天井の煙突からは美味しそうなスープの匂いを纏った煙が立ち上っている。


 ──この匂い、お母さんの……。


 母に作ってもらったスープの味を思い出し、エリィは泣きそうになった。

 ゆっくり手をあげて、コンコン、とノックする。


「はぁい」

「……っ!」

「今日は早いわね。どうかしたの?」


 立てつけの悪い扉が、音を立てて開いた。


「いつもありがとう。今月分の……」


 森色の髪が風に揺られ、榛色の瞳が大きく見開いた。

 車椅子に乗った彼女の膝から、木組みの籠が落ちていく。


「あなた、は」

「……おかあ、さん」

「………………………………エリィ?」


 みるみるうちに瞳に涙を溜め、エリィの母──アルテナは口元を両手で覆った。

 自分の名を呼ばれて胸が熱くなったエリィは、おそるおそる問いかける。


「わ、わたしのこと、覚えてる?」


 アルテナは涙ながらに首を縦に振った。


「忘れるわけ、ない……」

「じゃあっ」


 エリィは踏み出し、怒鳴りつけたい衝動を堪えて。

 けれどやっぱり抑えきれずに、光の粒を散らしながら叫んだ。


「じゃあどうして、わたしを置いて行ったの!?」

「……っ」

「大事だっていうなら! 忘れていなかったなら、どうして!」

「……ごめんなさい」

「謝ってほしいわけじゃない!!」


 エリィは唇を結んだ。


「大変、だったんだよ」

「……」

「ご飯はすぐに無くなるし、酒屋のお仕事は無くなっちゃうし、どれだけ作っても靴下は売れなくて……ゴミ箱漁ったり、怖い人に絡まれたりもしたんだよ……家のなかは……一人ぼっちで……さみしくて……」

「……怖い人たちは、家の中にまで入って来た?」

「え? ううん、家の中にまでは来なかったけど……」

「そう……」


 瞳を揺らしたアルテナは頭を下げた。


「ごめんなさい」

「だから、なんで……っ!」


 エリィは感情のぶつけ先が分からなかった。

 ずっと会いたかった母。

 自分を置いて行った真意を知りたくて、だから会いに来た。


「なのに、どうして謝るの……」


 いっそのこと、拒絶してくれたら楽だった。

 お前のことなんてもう捨てたのに、どうして訪ねてきたのだと。

 そう言ってくれたなら、エリィだって母を憎むことが出来た。


 こんな風に謝られてしまったら、怒りの矛先が分からなくなる。

 胸のなかのぐちゃぐちゃをどうにかしたくて、エリィは八つ当たりのように口を開き、


「謝るくらいなら! どうしてわたしを──」


 そして、アルテマが座った車椅子を見た。

 エリィは気付く。先ほどから母の足がまったく動いていないことに。


「……その足、どうしたの」

「……これは」


 エリィと暮らしていた頃、母は五体満足だった。

 普通に動けていたし、足に怪我もしていなかったはずだ。


「これは、私への罰」


 アルテマは自嘲するように言った。


「あの日、あなたに留守番を頼んで出て行って……怖い人に、襲われたの」

「……!」


 エリィは愕然とした。


「じゃあ」

「本当はすぐに戻るつもりだった……でも、戻れなかった。当時は足の怪我も酷かったし、車椅子だって買えなかった……あの方に助けてもらえなかったら、どうなってたか分からない」


 アルテマは涙を溜めてエリィを見上げた。


「ずっと会いたかった」

「……っ」

「あなたを迎えに来たかった。でも、出来なくて……私は……」


 ごめんなさい。アルテマは、何度もそう言った。


「あなたに責められても仕方ないわ。私は、それだけのことを」

「じゃあ」


 同じ色の双眸が、交錯する。

 こみ上げてきた涙を拭って、鼻を啜り、エリィはくしゃりと顔を歪めた。


「じゃあわたしを、捨てたわけじゃないの?」

「……うん」

「じゃあわたしを、まだ……」


 エリィは、蛇人族(ラミア)の赤子が母に抱かれた様子を思い出す。

 この世の誰から憎しみを向けられても、引き裂けなかった二人の絆を。


「わたしを、愛してくれてるの?」

「当たり前じゃない」


 アルテマは泣きながら微笑んだ。


「私の大事な宝物だもの。一日だって忘れたことはないわ」


 エリィはアルテマに飛びついた。

 車椅子が軋みをあげるのも構わず、アルテマの胸に顔を埋める。


「会いたかった」

「うん」


 互いの背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめ合う。


「ずっと、会いたかったよぉ……」

「うん。私もよ……私の大事なエリィ……」

「うわぁああ……うわぁぁああああああああああああああん」


 母娘が。

 再開した母と娘が、抱きしめ合っている。

 誰もいない丘の上で少女の泣き声が、ただ響いていた。


 夕暮れの光が二人を照らし出すまで──ずっと。



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