第五十九話 母の行方
「ジグラッド王国の外──魔族領域の境目に一人で暮らしているわ。エリィ。あなた、明日からそこに行きなさい」
「ほんとう、に? ほ、ほんとうに……お母さんが生きてるんですか?」
「えぇ。あなたそっくりの顔立ちだからすぐに分かったわ」
エリィはしばらく二の句を継げなかった。
ずっと幼い頃に自分を置いて出て行った母親。
その行方が分かったと聞いても、すぐに「うん」とは言えなかった。
「どうして、ご主人様が……わたしのお母さんのことを」
ディアナは一瞬、寂しげな表情を浮かべて。
いつものように腰に手を当てながら「ふん」と鼻を鳴らした。
「そんなの当たり前じゃない。私はあなたのご主人様なのよ? 家来の家族の行方を捜すのは当然の義務よ。ただでさえ、出逢った頃のあなたは酷い有様だったんだし。一言会って文句を言いたいと思ってね」
「文句……お母さんに、会ったんですか?」
「……えぇ。会ったわ」
「わ、わたしのことは」
「それは自分で聞きなさい」
ディアナはぴしゃりと言った。
「直接会って、聞きたいこともたくさんあるでしょう?」
──聞きたい。
どうしてあの時。自分を捨てたのか。
母がエリィを愛していたのか、その真意を。
「わ、わたし」
「もういいのよ、エリィ」
ディアナはエリィの背中に手を回した。
「あなたは十分良く頑張ってくれたわ。本当にありがとう」
先ほどと同じ、だけど違う、温かい抱擁。
ディアナの優しい言葉が、エリィの耳朶をくすぐる。
「もう私のために頑張らなくていい。今まで、ごめんね」
「わ、わたしは」
お母さんに会いたい。でも、リグネとも一緒にいたい。
その一言が言えたら、どんなに楽になれるだろう。
現実には、エリィはただの身代わりメイドなのだ。
貧民街の出身で、王女だと偽っている今が欺瞞の塊。
自分を慕ってくれるみんなを騙した上で、エリィはこの場所に立っている。
「エリィ。あなたの雇用契約を終了します」
「……っ」
「お母さんのところに行きなさい」
「ご主人様……わたし……」
「なぁに?」
榛色の瞳がまたたき、口元が柔らかい笑みを浮かべる。
「エリィ。泣いてるの?」
「……っ」
「そんなに私と離れるのが寂しい? 仕方ない子なんだから」
「ちが……ちがくて……ちがわないけど……ちがくて」
エリィは溢れてくる涙を袖でごしごしと拭って、鼻を啜る。
身体が重い。舌が痺れて、思うように声が出ない。
口の中が乾いて干からびていた。
──こんなに、近いのに。
手を伸ばせば届く場所にいるのに、ディアナとの距離はあまりにも遠い。
一か月間。僅かな間に積み重ねたリグネとの思い出が二人を隔てている。
「わ、たしは……」
エリィは、ロクサーナとお茶会をする約束があるのを思い出す。
セナと一緒に服を選ぶ約束を思い出す。ララとおやつを食べる時間を思い出す。
大変なこともあったけれど、そのどれもがかけがえのない思い出で。
あぁ、それでも。
『エリィ。また転んだの? ほら、こっちおいで』
母との思い出も、同じくらい大切で。
『おかーさん! 見て見て! でっかいみみず! あはは!』
『きゃあ! エリィ、そんなもの今すぐ捨てなさい! お願いだから!』
もう一度母に会えるチャンスを、逃したくなくて。
『エリィ、あなたは私の宝物よ。ずっと元気でいてね』
母の真意を、ずっと知りたくて。
ぎゅっと瞼を瞑ると、色んな記憶が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
胸のなかに溢れた感情がぐちゃぐちゃになって、頭を抱えたくなる。
「お母さんも、会いたがってるわ」
「……っ」
「行きなさい。エリィ。これが私の、最後の命令よ」
ぐるぐると回る思考のなか、エリィはディアナの一言に縋りついてしまう。
エリィは開きかけた口を閉じて、こくりと頷いた。
「分かり、ました……」
その日、エリィは魔王城から姿を消した。




