第五十八話 亀裂の音
「それにしても辛気臭いところね。もうちょっと派手でもいいんじゃない?」
ディアナは周りをきょろきょろと見渡しながら言った。
きれいな白髪の髪はエリィと同じ色でも手入れが行き届いている。
エリィにはないふくよかな胸もあって、同じ服装でも段違いに色気がある。
(本当に、ご主人様だ……)
一か月前と何も変わらない。
エリィはおそるおそる問いかけた。
「ご主人様……あの、どうして」
「なによ。私に言わせるわけ?」
「いや、でも」
「ふん。あなたの言う通り、私が振られたのよ。これで満足?」
拗ねたように唇を尖らせたディアナ。
『三か月。エリィはディアナの身代わりになる。その代わり、その間にディアナが好きな人と結ばれなかったら身代わりを解消し、エリィはただのメイドに戻る』
それがディアナと交わした約束で、エリィとの賭けだった。
エリィは思い出す。
あの頃は、早く三か月経ちますようにと願ってやまない日々だった。
魔王や魔族が人を喰らう恐ろしい種族だと信じていたし、ただでさえメイドの自分が王女の身代わりをするということに重責と罪悪感があった。
でも、今は。
「つまり私の負けってことよ。あなたの勝ち。よかったわね」
「あ、あの。ご主人様」
「お待ちなさい」
ディアナはエリィの身体をぺたぺたと触り始めた。
肩、肘、膝、足、手、しまいには胸まで。
「ひゃ!? あ、あの。なにを」
「……ふむ。魔王には何もされてないようね」
満足したように頷くと、ディアナはエリィに抱き着いてきた。
ぎゅーっと抱きしめられ、すー、はー、と肩に顔を埋められたエリィは困惑する。
「あの、ご主人様?」
「なぁに、エリィ。私、久しぶりにエリィ成分を補充するのに忙しいのだけど」
「エリィ成分て。いや、それよりも……」
「ここに来たのはララの采配よ。転移魔術陣を用意してたの」
それにしてもクローゼットの中に作るとは思わなかったけど。
そう苦笑するディアナにエリィは口をぱくぱくと動かした。
──言わなきゃ。
身代わりを継続してくださいと。
どうか王女の代わりに魔王様に嫁がせてくださいと。
ディアナは満足したように頷くと、エリィから離れて腰に手を当てた。
「それで、どういう状況? 身代わりを解消するにあたって色々引継ぎして頂戴」
「ご主人様」
「もう。相変わらずどんくさいわね。私が来て嬉しいのは分かるけど──」
「ご主人様!」
ぴたりと、ディアナは黙り込んだ。
「さっきからどうしたの?」
訝しむようなディアナにエリィは両手の指を突き合わせて。
「あ、あの。身代わりの、ことなんですけど」
「うん」
「あの……」
心臓が早鐘を打つ。
緊張で汗が止まらない。ゴクリ。とエリィは唾を飲んだ。
──大丈夫。ご主人様は話が分かる人なんだから。
そう、エリィがしようとしている提案はディアナにとってメリットしかない。
元からディアナは好きな人と結ばれたかったのだし、エリィを身代わりに差し出したとしてもまったく心が痛まないはずだ。いや、ちょっとは寂しがってくれるかもしれないけれど、好きな人と結ばれるために婚約者をとっかえひっかえした尻軽王女のディアナであれば、エリィの提案をのむはず。
──だから、大丈夫。大丈夫だから。
膝がガクガクと震える。頬の筋肉がぴくぴく引き攣っていた。
エリィはディアナが口を開く前に言葉をかぶせる。
「あの……ご主人様。このまま私が魔王様に嫁ぐのって……なし、ですか?」
「は?」
「いやほら、ご主人様も、魔王様に嫁ぐのは嫌でしょう?」
自分の事情は伏せて、エリィはディアナのメリットを語る。
「だから、私を生贄にしたらいいと思うんです。そのほうが、ご主人様のためです」
そうしてくれたら、エリィはずっとリグネと一緒に居られる。
ニセモノであることは話さないといけないけど、きっと彼なら話せる。
セナやロクサーナは怒るかもしれない。
でも、リグネと一緒に話せば分かってくれるかもしれない。
要は人魔平和条約が維持されればそれでいいのだから──。
「ご主人様。わたしを身代わりにしてください」
ディアナは即答した。
「何言ってるの? そんなの出来るわけないでしょ」
「え」
後ろからナイフで胸が突かれたような思いだった。
ぎゅっと心臓の上を握って、不安を隠せないエリィにディアナは近づいた。
「あのね、エリィ。今までは私の我儘で身代わりをさせていたけれど、本来、これは私が王女としてやるべき務めなの。私の大事なエリィにそんなことさせるわけにはいかないわ」
「わ、わたしなら大丈夫で」
「あなたが私を思ってくれてるのは分かってる。でも、エリィ?」
ディアナはエリィの両肩を優しく掴んだ。
「そもそも、あなたは平民なのよ?」
「……っ」
「何のための平和条約だと思ってるの。魔族の王と人族連合の代表であるジグラッド王国の王女が婚姻を結ぶから、みんなに戦いの終わりを示せるのよ。ただの平民が結婚したところで誰も戦いをやめたりしないわ」
「それは、そう……です、けど」
全部、最初から分かっていたことだった。
エリィはディアナの身代わりに過ぎず、ニセモノのお姫様だ。
本物ではない自分は貧民街出身のメイドで、平民で、無知な子供である。
そんな自分が魔王と結ばれることなんて、あり得ないことだと。
「私の言ってること、何か間違ってる?」
「……」
エリィはゆっくり首を横に振る。
間違ってはいない。けれど、致命的に掛け違えている。
そのすれ違いを指摘するだけの勇気を、エリィは全身からかき集めた。
「………す」
「……?」
身代わり云々の話じゃない。そんなのは建前だ。
エリィが本当に伝えなければならない想いは別にある。
小さな喉を振るわせ、エリィは声を絞り出す。
「わ、わたしは……魔王様が……リグネ様の、ことが……」
「エリィ。何を言ってるかは聞こえないけど」
ディアナは首を傾げながら小声のエリィを掴む手に力を入れる。
「馬鹿なこと言ってないで、聞きなさい」
「……っ! ば、馬鹿なことじゃ……!」
「あなたのお母さんが見つかったの」
カッと熱くなった頭に冷や水が浴びせられた。
…………。
…………………………。
…………………………………………え?
「これからはお母さんと暮らせるの。良かったわね」
ディアナの言葉が耳の左から右へと通り抜けて。
エリィの指から、結婚指輪が滑り落ちていく。
「お母さん、が……?」
からん、と。乾いた音が響いた。




