第三十五話 彼女が呼ぶ者は
「んにゃ……ごしゅじんさまらぁ……もうたべれないよぉ……」
ぱりん、と硝子が割れる耳障りな音が響いた。
夢と現の狭間を漂っていたエリィは跳ね起きてしまう。
「!? な、なに!?」
「起きたか」
エリィは目をぱちぱちと瞬いた。
目が覚めた途端、知らない魔族が目の前にいる。
妙齢の魔族だ。全体的に人よりも鹿に似た顔立ちをしている。
彼の瞳は魅了にかけられたもの特有の、ピンク色の光があった。
「悪く思うな。これもすべてはロクサーナ様のため……!」
身じろぎしたエリィは両手足が鎖に縛られていることに気付く。
ふかふかのベッドに寝かされていて、初老の男以外誰もいない。
(あ~~~~…………またこれかぁ……)
エリィはため息をつき、男を見上げた。
「あなた、どなたですか?」
「カーターだ」
初老の男──カーターは白髪眉をあげた。
「……意外と落ち着いているな? 私はあなたを誘拐したつもりなのだが」
「まぁ経験者ですからねぇ」
エリィはやれやれとため息を吐いた。
王宮にも慣れてきてメイド長に所作などを叩き込まれた頃。
ディアナと共に領地の視察に行った時のことだ。
ディアナはエリィに自分の服を着せて、いつバレるか遊ぼうとしたことがあった。
その時、運悪く王族に不満を持っていた賊の襲撃に遭い──
入れ替わっていたエリィが攫われ、それまぁ大変なことがあったのだ。
当のディアナは王都の貧民街に遊びに行っていたというのだから笑えない。
あれ以来、入れ替わることは無くなったものの、ちょくちょく危険な目に合うことはあった。そしてもう一つ。エリィが落ち着いているのには理由がある。
エリィは居住まいを正して鼻を鳴らした。
「わたくしに乱暴しようとしても無駄ですわよ。宮廷魔術師の防護結界が掛けられていますから」
先ほど大規模な魔術を行使していたことからも、ララの魔術の腕は確かだ。
鬼族との祭儀の時でも十分にその力を発揮してくれたし、今回も大丈夫に違いない。胸を張って強気でいるエリィに、しかし、カーターはすげなく言った。
「それなら解除したが」
「え」
「人族の魔術の面倒さはよく知っているからな。魔術無効の禁具を使わせてもらった」
「………………」
エリィはダラダラと冷や汗を流した。
「べ、べべべつに、分かってましたけどね? あ、あえて言っただけですけどね?」
(いやぁあああああ! 誰か! 誰か助けてぇえええええ!)
エリィは涙目で天を仰いだ。
魔術で守られていないと分かった途端、身体が震えて来た。
ここがどこかも分からないし、助けが来るかどうかも不明だ。
そもそも彼らがエリィの誘拐に気付くのに時間がかかるだろう。
(す、少しでも時間を稼がなきゃ!)
「あ、あなたは、どうしてわたくしを攫ったんですの?」
「ロクサーナ様のためだ」
カーターの目に狂信的な光が宿る。
「あの方の為なら、どんなことでもやる……! ジグラッド王国第三王女ディアナ・エリス・ジグラッドよ。あなたが魔王と契りを結ぶ前に処女を散らせば、魔王は喜んでお前を捨てるだろう。そうすれば、ロクサーナ様こそ魔王になる。そして和平は無くなり、再び戦争が始まるのだ!」
「せ、戦争!? じゃなくて、あの、しょ、処女、って」
「気付かなかったか。ここは女性向けの高級娼館だ」
「~~~~~~~~!?」
背筋に冷たいものが走る。
どうりで誘拐にしては良い部屋にいるはずだ。
つまりここは、天上都市のどこかということだろうか。
エリィは咄嗟に周りを見渡した。
逃げ道はカーターに塞がれている。手足の枷は外れない。
(こ、これ、結構やばい状況では!?)
「ふふ! これで私はロクサーナ様へ恩を売ることが出来るし、忌まわしい人族との和平もなかったことに出来る……! 感謝するぞ、放蕩王女よ」
魔族の中にも抗戦派の者がいるということだろうか。
人族が魔王との婚姻を隠しているように、魔族の中にも人族との婚姻に不満を持つ者がいるだろうとは思っていたが、よりにもよってこんな形で被害に遭うとは思わなかった。
(あ、あぅう……わ、わたしのせいでまた戦争が……どうしよう、どうしよう……!)
エリィはぎゅっと瞼を瞑り、必死に考えた。
心臓の音がうるさい。怖いけどそれを表に出したら付け込まれる。
考えろ、考えろ、考えろ、今の自分はニセモノなりに王女なのだから──
瞬間、脳裏に電撃が閃いた。
(あ、そうか! この人は知らない人だから……うん、行ける!)
す、とエリィは王女の仮面を脱ぎ捨てた。
だらりと脱力したエリィは嘲笑うように口元を歪めて言う。
「カーターさん、あなた、お馬鹿さんだね」
「……なに?」
「だってわたし、王女じゃないもん」
「……………………は? いや、しかし、どう見ても」
「影武者だよ。分からない? 王女が護衛もつけずに一人で歩いてるわけないじゃん。ホンモノだったらあなたなんかに誘拐されないよ」
(嘘は言ってない……本物がこの都市に居ないこと以外は!)
名付けて、開き直り大作戦。
この男がロクサーナのために王女の処女を散らして魔王に捨てさせようとするなら、そもそも自分が本物じゃないと明かしてしまえばいい。どうせ本物がどこにいるかなんて分からないのだし、偽物だと知ったら、この男がエリィを誘拐しておく理由は無くなるはずだ。他の王女に影武者が居るかどうかは知らないが、王女に影武者というのは一定の説得力もあるだろう。
果たして、エリィの決死の作戦が功を制したのか。
カーターはエリィ穴が開くほど見つめて言った。
「確かに、王女にしては胸が小さいな」
「いや、そこで納得しないでよ! ムカつく誘拐犯ですね!!」
確かに小さいけど! まだ育ちざかりなんだから!
盛りに盛ってるけど、それは必要経費というか、アレがアレなやつだから!
あと王女だから胸が大きいっていうのはどこの偏見ですか!?
「ロクサーナ様と比べると雲泥の差だ。本当に偽物……?」
「だからそう言ってるでしょ。王女の影武者ですよ。その正体はただの平民です。こうして助けが来ないことがいい証拠です」
よかった。どうにか信じてもらえたようだ。
ホッとしたエリィは強気な態度で要求を突きつける。
「さぁ、早く解放してください。じゃないと色んな所に通報しますよ!」
「人族の女子がなんでこの都市に……」
「そ、それは……乙女にも色々あるんです!!」
特定方向の知識に乏しいエリィでも、恥ずかしいことを言っている自覚はある。
ここは天上都市だ。アレがアレしてアレする場所である。アレって何だろうとエリィは思った。
「そうか……」
カーターは上着を脱ぎ始めた。
「は?」
「まぁいい。このまま楽しませてもらおう」
「た、楽しむって、何するんですか」
「決まっているだろう?」
カーターがエリィの上に覆いかぶさって来た。
「ひっ!」
「こうするんだよ。もしかして、まだ経験はないか?」
「い、いや! やめて! わたしはニセモノだって言ってるでしょ!」
「どうやらあなたのおつむは弱いらしい」
カーター舌なめずりした。
「あなたが影武者かどうかなんて、私には分かるわけないだろう。重要なのは王女が魔王以外の男に身体を許したという事実。王女と瓜二つのあなたを写真にとって広めれば、反人族感情は高まり……王女と魔王の離縁は成る……!」
「……っ」
そんなにうまくいくとは思えない。
魔王リグネ・ヴォザークの権力は絶対だ。
民衆の反人族感情が高まったところで開戦には踏み切らないだろうし、エリィが処女を散らしたところで、この男が殺されて終わりのような気もする。しかし、成功を確信しているカーターに言葉が届くはずもなく──
「ふふ。嫌がる姿もそそる。さすがは王女だな──」
「いや……っ」
エリィは足をバタバタさせて逃れようとするが、いかんせん、縛られている身だ。膝の間に身体を入れられて簡単に押さえつけられてしまう。
(怖い……)
もはやエリィの頭は何も考えられなかった。誘拐された時でもこれほどの恐怖を感じたことはない。カーターの眼差しにはエリィに向ける気持ち悪い熱がある。
(怖い、怖い、怖い、怖い……! 誰か、誰か助けて……ご主人様ぁ……!)
王宮に居た時、エリィを救ってくれたのはいつだってディアナだった。
同僚にいびられている時も、貴族から理不尽に扱われた時も、お皿を割ってしまった時も。
いつだって颯爽を駆けつけて、エリィを抱きしめてくれた。
──そのディアナは、ここには居ない。
ララは自分のせいでケーキを楽しんでいる最中だろう。
セナを護衛から外して復興作業を手伝うように言ったのも自分だ。
やることなすことすべて裏目に出て、こんなことになってしまった。
「大丈夫。すぐに怖さもなくなる──」
「助けて……」
ぽつり、と呟いて。
「助けて……リグネ様ぁ!」
──……ドガァアアアアアアアアアン!!!
爆音が響き、部屋の壁が粉砕した。
「な、なんだ!?」
「呼んだか、エリィ」
土煙の中から現れたのは、史上最強の黒龍。
「リグネ、様……」
「うむ。其方の夫だ」
リグネはエリィを見て安心したように笑った。




