第二十七話 約束された敗北
「もちろん、エリィだ。迷う余地などない」
「「は!?」」
ロクサーナは夜色の目を見開いた。
敬愛する魔王の瞳が映すのは自分ではなく異種族の王女だ。
当の王女と言えば自分以上に驚いており、
「な、なんでわたしの勝ちなんですか!?」
心なしか口調まで幼いものに変わっている。この素人同然の厚化粧をした、美しさの欠片もない王女が自分より上であると言われて、ロクサーナははらわたが煮えくり返る思いだった。とはいえ、絶対者である魔王を相手に口調を荒立てるわけには行かない。ロクサーナはどうにか平静を保つと、落ち着いた口調で問いかけた。
「魔王様。なぜワタシではなく、その王女を選ぶのですか?」
「分からぬか、ロクサーナよ」
「分かりません。美しさはワタシのほうが上です。それは皆も承知のはず」
ロクサーナが同意を求めると、観衆たちは顔を見合わせて口々に頷いた。
「ほんとに。ロクサーナ様の美しさに比べたら人族の王女は……ねぇ?」
「なぁにあの化粧。うちで働く下女にやらせたほうがまだマシよ?」
「やっぱり人族の面子を立てるためかしら。ロクサーナ様、お可哀そう」
観衆の中に王女の味方をする者はいない。当然のことだ。
ロクサーナが視線を戻すと、魔王はそっと息をついた。
「ロクサーナ。確かに其方は美しい」
「えぇ。そうでしょうとも。だったらなぜ……」
「だが、其方は魔王に酒杯を捧げたのであって、我個人に捧げたわけではあるまい?」
ロクサーナは形のいい眉を顰めた。
「それがどうしました? そんなの当然のことでしょう」
「エリィは違ったぞ。ちゃんと我が名を呼んでくれた」
ハッ、とロクサーナは目を見開いた。
「気付いたか。其方が望んでいたのは魔王であって、我ではない」
「そんな……あれは、そういうつもりじゃ。偉大なる御方の名をお呼びするなど、恐れ多いだけで……」
「果たして其方は我が魔王ではなくとも酒杯を捧げただろうか」
魔王は王女の腕を強引に引いて胸元へ引き寄せた。
彼女の持っていた酒杯を逆の手で掴み、一気に飲み干す。
そうして落とした酒杯が乾いた音を立ててロクサーナの足元に転がった。
「我は我を望んでくれた者の酒杯を取る。当然のことだろう」
ロクサーナは愕然と膝をつき、崩れ落ちた。
一方のエリィと言えば、魔王の腕の中でぷるぷると震えていた。
(な、名前を呼んだだけで勝負が決まるなんて、聞いてないんですけどぉ!?)
──だってあの時、魔王様が名前を呼べって言ったから!
──そりゃあわたしだって魔王様って呼びたいよ!?
内心で頭を抱えたエリィは一縷の望みをかけて問いかける。
「あ、あの、リグネ様。そうはいっても美しさで言えばロクサーナ様のほうが」
「ヌ。なぜだ?」
「なぜって、ほら。わたくしはこんな化粧ですし」
「我ら竜族から見れば、人族も魔族も顔立ちは大して変わらん」
「ほ、ほら! 悪女の噂もあるし! 世間体が良くないですから! ね?」
「それだ」
「へ?」
リグネはエリィの顔に鼻先を近づけた。
「エリィ。我ら魔族は力こそがすべて。故に物事の大半を深く見ることはせぬ」
「はぁ」
「なぜなら本質がどうであろうと強ければよいからだ。魔族である以上、ある種の野蛮性から抜け出すことは難しい」
「それがなにか……」
「だが、噂話とあれば話は別だ」
リグネは真面目な顔で言った。
「我個人は噂を好まぬ。いや、嫌悪していると言ってもいい」
リグネ曰く──
数百年前まで竜族は人族や魔族から狩猟の対象として狙われていたらしい。
その原因は『竜の心臓を喰らえば無敵の力を得る』という噂のせいだった。
確かに竜族は種族的に優れた種であり、心臓を喰らえば多大な魔力は得られる。その魔力を使って結果的に不老になったり、大抵の病を治すこともできるだろう。
だがそれだけだ。
無敵の力を得ることは出来ないし、心臓の魔力に耐えきれない者は破裂して死ぬ。不老ではあっても不死ではない。むしろ魔力の負荷で寿命が縮まる恐れもある。
しかしその噂のせいで、種族を問わない大勢の者達が竜族を狙った。
「我はあれ以来、噂を信じぬ。噂を信じる無知蒙昧な輩も信じぬ。其方は噂の対象でありながら強かに噂を利用し、おのれの立場を確固たるものにして見せた。八百年前の我には出来なかったことだ。我は同胞が狙われ続けるのを防ぐことが出来なかった」
「え、えっと。つまり……」
「我は我が見たものしか信じぬ。噂に負けず、むしろ乗り越える其方の内面は美しい」
エリィはこの瞬間、すべてを悟った。
──最初から。
そう。最初から詰んでいたのだ。
祭儀がどうとか悪女がどうとか、そんなことは関係なかった。
勝負が始まる前に決着は着いていたのだ。
エリィがエリィである。それ自体がリグネの琴線に触れていた。
厚化粧も、悪女の振りも、リグネの前では無に等しい。
噂を嫌悪する彼は今、目の前に居るエリィのことを見ているからだ。
つまりは、
「だが、其方の甘い言葉には少々来るものがあった」
「へ」
エリィが吐いた甘い言葉の数々も、ありのまま受け止められるというわけで。
リグネはエリィの背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめて来た。
一気に距離が近くなり、リグネの熱くなった体温までこちらに伝わってくる。
おそるおそる顔を上げると、リグネは熱の孕んだ瞳でエリィを見ていた。
背中に回された手は振りほどくことを許さない。
端正な顔立ちが、ゆっくりと近づいてくる──。
「エリィ。其方は可愛いな」
「え!? や、その、ま、待って……ひゃぅ!?」
リグネはエリィの首元に顔を埋め、軽く口付けた。
首元についばむような口づけを繰り返すリグネ。
ぎゅっと目を閉じると、唇の濡れた感触をまざまざと感じてしまい、
「ま、待って、リグネ様。いま、みんな見てるからぁ……!」
エリィは顔を真っ赤にして身を捩る。
リグネは不服そうながらも、渋々と言った様子で離れてくれた。
「ヌ……これがお預けというやつか。辛抱たまらぬな」
「あ、あぅう……」
「どうしたエリィよ。顔が真っ赤だが?」
「誰のせいですか、誰の!」
「はっはっは」
心臓が早鐘を打つ。顔が熱くて身体中から汗が噴き出してきた。
リグネの顔をちらりと見るだけで、もうドキドキが止まらない。
(う、嘘。やだ、こんなの……反則だよぉ……)
エリィは顔を覆ってどうにか心を落ち着かせようとする。
さっきまで触れていた唇の感触は鮮やかに残っていて消えそうにない。
その温もりにはどんな甘い言葉よりも雄弁な思いがあった。
(こ、これじゃわたし……リグネ様のこと──)
仄かな思いがエリィの中に芽生えようとしたその時だ。
「やだ……」
鈴の鳴るような声が耳朶を叩く。
見れば、膝から崩れ落ちたロクサーナが自分とリグネを見てぽろぽろと涙を流していた。くしゃりと顔を歪めた彼女は両手で何度も瞼を拭って、
「やだぁあああああ……陛下、ワタシも見てくれなきゃやだよぉおおお」
「え……」
わぁぁあん、と幼子のように、泣き出してしまう。
美貌の女性の意外過ぎる一面にエリィは唖然としてしまった。
(え、えぇえええ……ロクサーナ様が泣いて……えぇ……?)
「ぐすっ、うう。ワタシには陛下だけなのに……陛下しか居ないのに、どうしてお前が奪うの? お前は王女でしょ? 陛下じゃなくても、他にいくらでもいるじゃない! ワタシの陛下を返してよぉ……」
「あ、あの。ロクサーナ様……」
エリィが声をかけ、
【ワタシの言うことを聞きなさい!】
その瞬間、ロクサーナの全身から魔術陣が広がった。
祭儀の間に居合わせた魔族たちの目にハートが浮かび、
「「「ロクサーナ様の仰せのままに!」」」
「へ?」
百人を超える魔族たちが一斉に押し寄せてきた。




