第二六話 空の果てなる
あの黄昏を見たのはいつだろう。押し寄せる砲火を潜り抜けながら、ドラヴェットは自らの記憶に問うた。
それは、そんなに昔のことではない。ほんの二ヶ月程前のことだ。それなのにずいぶん遠くへと来てしまった感じがする。
(違う……そうじゃない、遠くへ来たのは私じゃない。あの人が、遠くへ行ってしまっただけなんだ)
眼前の砲火と、自らの記憶が脳裏で交錯する間、ドラヴェットは自分でもかつて感じたことのないような浮遊感を覚えていた。あるいは陶酔と言っても良いかもしれない。明晰夢と言い換えられるかもしれない。
両脚の『舞曲王』が敵艦の装甲や武装を斬り裂く光景が、奇妙にゆっくりと感じられた。それを成しているのが自分自身であるという認識さえも曖昧である。
実際の所、彼女の意識は集中の極地にあった。でなければ、飛んできた炎弾を舞曲王の翼で打って逸らすことなど出来なかっただろう。
そんな、戦うための術を教えてくれたのは、今はもういない地球人だった。
もっとも、彼が本当に伝え遺したかったのは戦闘技術ではなかった。彼女はそのことをよく分かっていた。
◇◇◇
両手を離れたボールは真っ直ぐにゴールへと飛び、ボード、リングの順にガンガンとやかましい音を立てて跳ね返った。
そうして勢い良く弾んだボールを、浅黒い大きな右手が捕まえた。
「相変わらず力み過ぎだな、ドリー」
コートの中に入ってきた男は、人差し指の先にボールを乗せながら大きな口を吊り上げた。太い首を傾げると、体格に似合わず妙に子供っぽく見える。服装はいつも通り、上下ともに濃いグリーンの服で、何度か洗濯したことがあるが、生地は固いし見栄えも良くはない。しかし「生きてた頃を思い出す」と言われてしまうと、誰も何も言えなかった。
「エドワード。宗主からの御用は、もう終わったのですか?」
「ん? あぁ、まあな。そんなに混み合った話じゃない」
エドワードは左手の人差し指にボールを乗せて、器用に回転させた。そのままバランスを崩すことなく、コートの端に積まれた資材に腰を下ろした。
「もう一回だ」
飛んできたボールを受け止め、ドラヴェットはもう一度ゴールに向き直った。
バスケットボールという異世界のスポーツを教えられた時、彼女は何故シュートという技術が必要なのか分からなかった。ネビロスならばほとんど誰でもダンクシュートが出来てしまうからだ。途中でカットされる恐れがあるシュートより、確実にゴールに入れてしまった方が良い。
他のネビロス達も同意見だった。お陰でフォルモンドでバスケットボールが流行ることはなかった。
だが、シュートという技が「要る」か「要らない」かということなど大した意味は無いと、ドラヴェットは知ることになった。かつてエドワードが見せてくれたワンハンド・シュートには、理屈を超えた説得力が宿っていた。
もっとはっきり言ってしまえば、彼女はそれを美しいと感じたのだった。
今の彼の肉体は、本来の彼自身のものではない。グランギオルという人形に魂が宿っているだけだ。だが、その時見た動きには、ぎこちなさなど一片たりとも無かった。
日向の植物がそうであるように、また流れる水がそうであるように、無理のない曲線には美が宿る。ボールを手から放るだけの動作であるはずなのに、地面についた足から膝、体幹、肘を通り最後に手首に至るまでの力の流れは、それら曲線と同質の美しさを内包しているようだった。
以来、ドラヴェットもそれをやってみたいと思うようになった。
いや、出来ているところを見て欲しい、と知らず知らずのうちに目的が変容していった。
練習中、両手打ちなら上手く出来た。だが、そのフォームに彼女自身が納得出来なかった。やはり片手打ちでなければ。
だが、そうして片手にこだわり始めると、途端に動きが固くなってしまう。
挑戦と失敗を繰り返す彼女の横で、エドワードは煙草を咥えて火をつけた。
港の向こう、濁った空の果てに太陽が落ちていく。エドワードは目を細めた。どんな場所にいたとしても、夕暮れの物悲しさは同じなのかもしれない、そんなことを思った。地球の、あの砂漠の夕暮れも、やはり同じように悲しかった。友達が何人も死に、ここで何のために何をしているのかさえ見失った。虚無感に包まれて、地球の反対側の港町に帰りたいと思った頃、爆弾で死んだ。
自分が死んだ後、地球のあの砂漠で、同じように悲しんでくれた人はいただろうか?
少なくとも、今ここでは……。
「……やはり、上手く出来ません」
「イメージするんだ。いいか? 両足の裏からパワーの塊みたいなやつが生えてきて、そいつを一度も止めずに手首まで連れて行って放してやるんだ」
「抽象的に過ぎます」
「それはドリーが難しく考え過ぎてるからさ。Don't think, Feel.これだよ」
「どんどん……?」
エドワードは苦笑した。どうにもこの異世界人の少女は、物事を考え過ぎてしまう癖がある。
(可愛いよなぁ)
それは決して恋愛感情などではない。何しろ彼女のことは生まれた時から知っているのだ。姪か、あるいは娘を見るような感じとはこうなのかもしれない。
つくづく、地球で結婚しなくて良かった、と思う。もし家族がいたなら気が狂っていただろう。ルィンドに自死を願い出ていたかもしれない。
指の間に挟んだ煙草に視線を落とす。たなびく煙の向こうで、ドラヴェットが相変わらず堅苦しいフォームでシュートを繰り返している。
「柔らかく、柔らかくだ……ドリー。そうすれば」
両手を離れたボールは真っ直ぐにゴールへと飛び、ボード、リングの順にガンガンとやかましい音を立てて跳ね返った。
手元に飛んできたそれをキャッチし、ドラヴェットは小さく頬を膨らませながら「できません」と言った。腹立ち紛れにそれをエドワードのいる場所へと放り投げる。
返ってきたのは、鉄板を叩いたような音だけだった。
「…………え……?」
人形の指からぽとりと煙草が落ちた。やがてその煙が消えてしまった後も、ドラヴェットは黄昏の中に立ち尽くしたままだった。
◇◇◇
「……だからッ!!」
絶叫しつつ、最大限に伸張させた『舞曲王』で敵艦を叩き割る。
(だから……だから、何なの……?)
沈みゆく艦を見下ろしながら、ドラヴェットは肩で息をした。ばらばらと逃げ散っていく脱出艇の内部や、それに乗り切れなかった者達について想像を巡らせる余地は、今の彼女には無い。
エドワードは自分に生きていて欲しいと願っただろう。彼がそういう人物であることは良く知っている。ましてや、こうして戦いの最前線に立つことなど喜ばなかっただろう。
(ならばどうして、私は戦っている?)
ネビロスだから。
クトーシュの従者だから。
単に領地を、居場所を攻められているから。
当たり前の理由はいくらでも思い浮かぶ。そのどれもが真実だ。
だが、何よりも心を占めてやまないのは、この濁った空の果てに行ってしまった、あの姿を追い求めているからではないか。
(っ、それは……!)
ドラヴェットはかぶりを振った。
だが、彼女の内なる情念は、怪物を引き寄せていた。
『愚か者が』
彼女の眼前で、巨大な翅が広がった。




