第二二話 叛逆の嚆矢
――五日前
シス・ラ・クスェル艦長のイグノール・クスェルは、一応は宗家の名を使うことを許されているとはいえ、そこまで優れたネビロスではない。偉大な名に対して、外見も魔力も平々凡々。歳も今年で四十を迎える。
ただし、無能ともほど遠い人材ではあった。確かにネビロスの一個体としては平凡だが、それを補って余りあるほどに船乗りとして優れていたのだ。そうでなければ旗艦の舵を任されたりなどしない。
長年最前線で船乗りとして戦ってきただけに、指揮能力や戦術眼、そして経験則より得た危機察知能力に長けていた。
故に、メトネロフ家の領空に進出して以来、常にきな臭いものを感じ続けていたのだ。だが、その危機感がエディルフに真剣に受け取られることはなかったし、それも無理からぬことだと思っていた。
メトネロフにどのような準備があるにせよ、クスェルに歯向かうような選択肢を採るなど愚の骨頂だ。さもなくば、正気を失っているとしか考えられない。何より気配や勘だけで撤退するなどクスェルの名折れである。
「なに、あの半端な坊ちゃんに覚悟があるのなら、最初の一発くらいは甘んじて受けてやるさ」
そう言ってエディルフは呵々と笑ったものである。
然して現実は、想像する限り最も悪い方向へと転がった。メトネロフ家の中枢近傍空域に展開した艦隊を見た時、彼は対面の陣営にいる兵士たちに同情を禁じえなかった。
主力となる大型艦五隻が星型に配置され、その周囲をそれぞれ十隻ずつ小型艦が固めている。クスェル艦隊に対して、あたかも壁のように立ち塞がる形だ。各砲門はすでに開かれており、砲手は引き金に手をかけているところだろう。
「ふふ……参ったな。まさか本当に私に歯向かうつもりとは」
艦橋の最上段にある指揮座から、エディルフの妙に楽しげな声が降ってくるのを聞きながら、イグノールは人知れず嘆息した。
「殿下、何も砲火を交える必要はありますまい。メトネロフの宗主殿とて、虚勢を張らなければ領民に示しがつかぬのです」
「知るか、そんなこと」
エディルフはにべもなく言い放った。彼女は明らかに、敵が自分に対して喧嘩を売っているこの状況を楽しんでいた。こりゃ百や二百の死人じゃ足りんな、とイグノールは内心呟いた。
彼自身、このシス・ラ・クスェルがたかが五十隻ほどの小舟にやられるとは思っていない。
「イグノール、どうして私が、あいつらに対して気を遣ってやらないといけないんだ? キュレインが真っ先にやるべきことは、私の靴を舐めることだろうが。
それをしないで舟遊びに興ずるなら結構。クスェルの暴力というものを思い知らせてやれば……」
彼女が言い終わらない内に、状況が動いた。
壁となって立ち塞がっていたメトネロフ艦隊が、四方に散らばるように座標を動かしたのだ。あたかも脇役達が、舞台の中央を主役に譲るかのように。そうして開かれた空洞を、巨大な繭のような物体が静かに進み出てきた。
「あれは……」
広大な艦橋のそこかしこからざわめきが上がった。当然だが、ここに詰めているのは皆ネビロスである。故に、その繭から漏れ出ている異質な魔力についても、容易に感じ取ることが出来た。
イグノールは窓辺に駆け寄ると、左目に仕込んだギーヴァを呼び起こした。望遠機能の他に、魔力の流れや密度を観測する力を持っている。だが、今はまるで役に立たない。怯えのために痛いほど疼き、脅威を訴え続けていた。どんな砲火の中にあっても冷静に情報を送り続けてくれたギーヴァだが、今はいっそ抉り出したいほどだった。
『おい、キュレイン・メトネロフ!! ずいぶん大きく出たな、ええ!?』
兵卒達の怯えなどどこ吹く風で、エディルフは指揮座の通信晶を引っ張りだしていた。拡大された音声が首塔までもびりびりと震わせる。
「で、殿下!」
制止しようとするイグノールなど全く無視して、王女は意気揚々と煽り文句を吐き続ける。
『何だそのミノムシは! 毛布にくるまったままでは格好もつかんぞ! それでも男か、情けない!
クスェルとクトーシュの盟約を知っていて手出しをしたのだろう。もうお前は負けているんだよ、だからお前にとってマシな負け方を選ばせてやっているんだ!
さあ! 塔や領民諸共下界に叩き落されるか、シス・ラ・クスェルの床を舐めに来るか! どっちだ!!』
エディルフの騒々しさに対して、空域は不気味なほどに静まり返っていた。塔から灯りや煙が消えていることは理解出来る。これから戦闘が始まる可能性もあるのだ。戒厳令が敷かれて当然だろう。
だが、艦列を揃えて出てきた割に、艦隊の動きも妙にちぐはぐなようにイグノールは思った。てっきり抵抗するつもりなのかと見ていたが、それにしては妙に無防備だ。
そもそも、本気で防衛戦をするつもりなら、主塔から遠く離れた位置から始めるのが定石である。これでは機動艦隊の意味が無い。
彼らはまるで、猛禽同士の合戦に引きずり出された家禽のようだ。あるいは大駒の前に並べられた歩兵かもしれない。自由奔放に動き回る大駒に対して、歩兵の出来ることなど知れている。
しかし、宗主や宗家という考え方に支配されたこの世界で、上位者の命を拒むことなど不可能である。
いかに宗主が若かろうと、彼がネビロスとして優れた個体である以上、「行け」と言われれば行くしかない。
そしてその法則は、キュレイン本人にも当てはまる。クスェルはメトネロフより上位の一族だ。
(しかし、万一それを克服する手段を得ていたなら……!)
そんなことは有り得ない、とイグノールは思おうとした。その時、初めて眼前の「繭」から声が響いてきた。
『何故、いつまでも自分の方が上だと思い込めるのだ?』
その直後、「繭」の纏っていた魔力が膨れ上がった。だが、イグノールはそれが生じる直前、既に全艦の急速後退と反転を命じていた。
エディルフは、キュレインの声に対して「は?」と呻き、眉を顰めたのみだった。
だから、もしシス・ラ・クスェルの舵が僅かにでも動いていなかったならば、上半身全てを失っていたかもしれない。
しかし、「繭」から放たれた光線によって、右腕以外の上半身の部位を全て吹き飛ばされた事実に変わりは無かった。
クスェルの名を持つ個体でさえそうなったのだから、並みのネビロス達に耐えられる道理は無かった。射線の近くにいた者は瞬時に蒸発し、離れていた者も吹き飛ばされるなり身体を焼かれるなり、あるいは雲海に放り出されるなり、様々な末路を辿った。
イグノールは助かった。やはりネビロスとしてではなく、船乗りとして……被弾を予感した場合、遮蔽物の後ろに身を隠すという基本を守った故である。
艦橋の構造物がまとめて薙ぎ払われたため、右腕と両脚が潰れる事態となったが、そこはネビロスであるため問題ではない。元より左脚は義足なのだ。
エディルフが吹き飛ばされた場面は、彼も目にしていた。と言うことは、近くにいたであろう参謀連中も全滅だろう。イグノールは潰れた右腕に握ったままの通信晶に反撃と撤退の命令を吹き込むと、そのまま意識を失い五日間眠り続けることとなった。
この命令があればこそ、指揮官不在のクスェル艦隊は何とか後退を成功せしめたのだ。無論無傷とはいかず、殿を務めた護衛艦が六隻沈み、旗艦も被弾を余儀なくされた。クスェルとしてはかつて考えられないほどの大失態だが、全滅しなかっただけマシと言うべきだろう。イグノールの撤退命令が艦隊を救ったのは間違いない。
しかし彼は、一つ重大な命令を出し忘れていた。




