夢の終わり
空気が、一変した。
先ほどロキエラに怒気を浴びせられ、おどおどしていたテーゼだが。
今は、違う。
明らかに――明白に。
違って、いる。
まるで。
この身を地面に縛りつける重力の中にでもいる感覚。
心臓が重みを覚えるほどの――濃く、息苦しい圧。
淡々として静かなのに。
その声には、生死を握られているような凄みがあった。
テーゼの視線は、ヴィシスを真正面に捉えていない。
正面の斜め下の地面を見ている。
しかし――それがむしろ、一種の不気味さを増幅させている。
……なるほど。
俺は――ごくり、と唾をのみ込んだ。
あれが。
天界とやらの……序列、二位。
ヴィシスはようやく自分の状況を理解したのか、
「うっ――いや、その……な、なんのことをおっしゃっているのか……私には、さっぱり……舐めても、いませんし……」
視線を泳がせるヴィシス。
金色の光が揺らぐ瞳で、セラスを一瞥するテーゼ。
「あのハイエルフの中には、確かに真偽を見抜く風の精霊が宿っています」
「あっ――」
しまった、とでもいうように。
忘れていた――そんな反応をするヴィシス。
テーゼは、
「ヴィシス」
「え……は、はい……」
「私は、動機を知りたかったのです――つまらぬ嘘に塗り固められた空疎な弁解を、聞きたかったわけではない」
「!」
……見抜いていたのか。
横目で見ると、ロキエラもホッと胸を撫で下ろしていた。
「いや……さすがにボクも、テーゼ様がヴィシスのあんなガバガバ弁解を真に受けるとは思ってなかったけどね…………でもちょっとだけ……一瞬だけ、心配しちゃった」
「……おまえ」
まさか――テーゼのこと、信用し切ってなかったのか?
ただ、テーゼのあの変化に動揺した様子はない。
つまりあの状態になったテーゼのことは、知っているのだろう。
「テーゼ様って……ほんわかぼんやりしてる時と、ああいう真剣な時の両面があってね。うん……ずっとああいう真剣状態でいてくれると、ボクとしては嬉しいんだけど……あの状態だと、かなり消耗するらしくて……」
目を開く前のテーゼは省エネモードみたいな感じだったらしい。
ていうかね、とロキエラ。
「主神のオリジン様よりテーゼ様の方が秀でている能力――それが、精霊への干渉力なんだ。ヴィシスはそのことを知ってたけど、焦って忘れてたんだね。つまり……テーゼ様はセラスの中にいる精霊がどんな力を持っているかは、把握してる」
だからセラスの言葉が”真”であると判断できたのか。
テーゼはヴィシスを見ぬまま、
「ヴィシス――そもそも真偽判定などなくとも、一部の理が破綻しているのに気づかなかったか? もう長い間、そなたとは会っていなかったが……衰えましたね。その程度でこのテーゼを言いくるめられると、思えるとは」
「い、いや……ですから、その――ロキエラとヒトが私に施した洗脳のせいで……こうしてポカをするように……論理思考領域を、いじられて……」
ヴィシスは、気づいていない。
否――おそらく気づけないように、なっていた。
高い地位にある者。
または大御所や大物と呼ばれる者たちでも、よく聞く話である。
方向性や言っていることが間違っていても――気づけない。
なぜか?
周りが、誰も指摘しないから。
訂正しないから。
決して理で要求が通っているわけではない。
それは、地位や立場で要求が通っているにすぎない。
思い通りにやれているのは、理外の力のおかげ。
俗に言うイエスマンで周りを固めているから。
苦言を呈する”不快”な者は、排除してきたから。
地位や権力を含む――威圧的、あるいは支配的暴力。
これがあれば、理などなくともわがままは通る。
しかし――本人は往々にして気づいていない。
気づけていないケースが、確かにある。
自分の”理”が正しいから要求が通るのだと思ってしまう。
思い通りの方針で進められているのだと、勘違いしてしまう。
が、現実は違う。
周りは立場的、あるいは状況的に指摘や拒否ができないだけであって。
心の中で”それは違うだろ”と思っていても。
降りかかる”暴力”が怖くて――何も、言えない。
タチの悪いケースは、
裸の王様である本人が、自分が優れていると勘違いしてしまうこと。
優秀な者がいくらか周りにいれば――意外と、やれてしまう。
裸の王様に忖度し、気を遣つつ、それなりの成果を出してしまう。
だから気づかぬまま――自分の理が正しいから”通る”のだと。
成功しているのだと。
思い込んで、しまう。
おそらくヴィシスはずっと、そんな環境にいた。
ずっとずっと、長い間。
この世界で。
自分にとって都合の悪い相手は排除し、遠ざけてきた。
自分の”理”が通りに通る世界で、ずっと生きてきた。
ヴィシスはこの世界で唯一の女神だった。
根源なる邪悪でも降臨しなければ。
同等以上の存在など、いなかった。
しかし、今。
ヴィシスの前にいるのは――ヴィシスよりも、上位の存在。
立場も。
おそらくは、能力も。
だからこれまでのように。
ヴィシスの”横暴”が通るはずが――通用するはずが、ないのだ。
「まだ懲りずに重ねるか――――その戯言を」
「うっ……」
「動機を言えと――わたくしは、言ったはずだが?」
「話したところで、わ、私にとって何も……得が……」
ごまかしはテーゼに通用しないと、理解したらしい。
「素直に話すことで、内容によっては最悪の事態を避けられるかもしれませんよ? 一理あると、わたくしが思うかもしれない。ただし――正直に話すこと。それが、絶対条件です」
暫し、葛藤の間があった。
やがて、
「…………だ、だって」
ヴィシスが、語り出す。
「やりたいことがあるのに――わけのわからぬ制限でやれないなんて、おかしくはありませんか?」
「…………」
「次元の歪みとか言われても……私は、私がやりたいことをやりたいのです。自由が、欲しいのです。いえ、この世界……あらゆる次元の誰もがやりたいことをやれるべきだ、とは思いません。私だけで、いいんです。そう……特権は、この私にだけあればいい。他の者にくれてやるなんて、むしろ御免被ります。だって……この世で幸せなのは――私だけで、いいから」
そもそも、とヴィシスは続ける。
「ヒ、ヒトどもが……幸せそうにしていると、む、むかつくんです。腹が、立つんです。しかも、あいつら……関係ないのに……押しつけて、くるんですよ? 身勝手に、こっちの意思も確認せずに……女神様、女神様って……聞いてくださいとか、見てくださいとか……気持ちが、悪い。だ、誰も頼んでないのに――関係、ないのに。ガキどもの……下等生物の幸せ報告になんか……興味、ないのに。幸せの、お裾分けって……し、死んだらいいんじゃないでしょうか?」
その語り口は。
自分を哀れむような、そんな調子だった。
「わ、私が面白くない気持ちでいる時は……まず、幸せそうにするのをやめてもらいたい。気を、遣って欲しいんです。大人になって、ちゃんと私の気持ちに寄り添って欲しい。それができないなら……下を向いて、黙っていてもらいたいんです。いえ、できれば苦しむ姿を見せて――私のすさんだ心を、癒やして欲しい。私が面白くない気持ちでいる時に、幸せそうにする行為……それは、とても身勝手な加害だということに、気づいてもらいたい。そもそも……私が慈悲深い女神であるのをいいことに……い、いちいち……報告しなくて、いいから……な、なぜこの私が、おまえらのような虫けらに起きた”いいこと”を、え、笑顔で祝福しなくてはならないのでしょう、と……そう、思うんです。心の、底から」
「…………続けなさい」
「ですが、逆に……私が上機嫌な時も、く、苦しむ姿を見せて欲しい。だ、だって……ガキどもが苦しんでるのに、今、私だけはこんなにも機嫌がいい……最高じゃ、ありませんか? 優越感が、たまりません。勝った、と思えます。いえ……ヒトに限らずです。私以外の全存在は、私より幸福であって欲しくない……私がこの世界で、いえ――全次元で一番、思うままに思うことをして……誰よりも、幸せでありたい。だから……邪魔な存在や要素は、排除する……じゃ、邪魔なのです……何も、かもが……」
ヴィシスは、笑っていた。
目をカッと見開いて。
それは、二つの感情がないまぜになった笑みだった。
恐怖――そして、絶対的な自信。
ヴィシスはまさに、自分を信じている。
「ねぇテーゼ様……私――」
自分の胸に右手を添え、ヴィシスは続けた。
「何か、間違っていますか?」
今の言葉は。
質問ではなく――主張。
自分は間違っていないはず、という。
主張だった。
テーゼが口を開く。
「ヴィシス」
「……はい」
「正直に話したことは、褒めてあげます。しかし――その主張は、あまりに身勝手な理でしかありません」
「…………」
「まずは、幸せの加害性についての話。そなたはヒトが幸せそうにしていると腹が立つと言いますが、それは――そなたが、自ら望んでヒトに関わっているからではないですか?」
「…………」
「先天的か後天的かはわかりませんが――そなたの性格や性質については一旦、横に置いておきましょう」
言って、テーゼは続ける。
「ヒトならざる女神として振る舞うなら、たとえば”ヒトの前に滅多に現れない存在としての女神”の立場を作り上げることも、できたはずです。本当に大事の時や必要な時だけヒトの前に姿を現し、ヒトを助け、導く存在。つまり、根源なる邪悪討伐に関連した干渉を行う時だけ、ヒトの領域に現れる。それならば、そなたの嫌いなヒトとの接点はかなり減らせたはずです。しかし……長い年月があったにも関わらず、そなたはそれをしなかった。それは、なぜですか?」
「うっ……そ、それは……」
ヴィシスが口ごもる。
「ヒトの苦しむ姿を望んでいる――つまり、そなたはヒトに関わって苦しみを与えるのが、本質的に好きなのです」
「ぐっ……」
自分は被害者の側なのだと、あれこれと自己弁護していたが。
そう――ヴィシスは自ら、関わりにいってしまっている。
ヒトと自分は関係ないのにと主張しておきながら。
望んで自ら、関係してしまっているのだ。
本当に関係したくないのなら――距離を取ればいい。
幼少時の俺や白足亭にいた頃のリズみたいな境遇ならばともかく。
ヴィシスの立場なら、テーゼが言ったような方法も取れたはずなのだ。
「そなたは自身を被害者だと捉えている。ですがそれは、そうすることで自らの”反撃”――加害に正当性を与えているにすぎません。そなたはおそらく”自分が間違っている”という状態を好ましく思わないのです。徹底して”自分が正しい”という感覚を維持しなくては、何一つ納得して行えないのでしょう。だから”ヒトの方が悪い”と言い訳をし、己の欲望を満たすために”かわいそうな被害者”の立場から、ヒトを苦しめようとするのです」
「で、でも……」
……本気モードのテーゼ様と言い合いはしたくねぇな、と。
なんだか、そう思わされる。
あと、これは完全に興味本位ではあるが。
戦場浅葱とディベートでもさせたらどっちが勝つんだろうか、なんて。
ふと、そんなことを考えてしまった。
「でも、ではありません。それに……他者が幸せでいることの何がそんなにも気に入らないのか、わたくしにはわかりません。そもそも”幸せ”とは本来、個々の中にそれぞれ独立して生まれる概念です。つまり真の意味での”共有”はできません。互いに幸せであっても、互いに完全に同一の”幸せ”を感じることはできないのです。わたくしたち神族であれ、ヒトであれ、結局は差分のある別個体なのですから」
テーゼはそこで一度言葉を切ってから、続ける。
「他者の幸せを理解することはできても、完全に同一の感覚を共有することはできない。ゆえに”幸せ”とは、どこまでいっても個人のものでしかないのです。とても孤独な概念なのです。まあ、だからこそ他者に報告し共有したくなるのかもしれませんが――それをされるのが嫌なのであれば、やはり関係しなければよいだけの話なのです。あるいは、どうせ完全なる共有などありえないのだから無意味だ――そう思えば、そこまで目くじらを立てることもないのではありませんか? だって結局は、関係ないのですから」
ヴィシスは気圧された様子で、唇を噛む。
「そ、それは……」
考え方の一つとしては、一理ある気もする。
……俺としては単にヴィシスの心が狭いだけの問題にも思えるが。
しかし……よくもまあ、あそこまでヴィシスに寄り添った理を出せるものだ。
――俺は。
イヴやリズから、
ニャキから、
ピギ丸やスレイから、
セラスから――
叔父さんや、叔母さんから。
こんないいことがあったよ、とか。
こんな楽しいことがあったよ、とか。
報告してもらえたら、嬉しい。
何度伝えてもらっても、きっと俺は嬉しい。
幸せそうにしているなら、俺も幸せだ。
叔父さんや叔母さんの前で”仮面”をつけて暮らしていても。
あの二人が幸せそうなら――俺も、幸せだった。
……けど、まあ。
実の親どもが幸せにしてたら……嬉しくはねぇか。
なるほど。
相手による、ってのはあるかもしれない。
テーゼが、次の話に移った。
「それと――思うようにできないことがおかしい、という主張について。これは……実のところ、誰にも制限することはできません。本質的には誰にも止める権利がないのです。それは、あまねく生物に与えられた本質的な”自由”なのですから。しかし――」
だんっ、と。
何か言いかけたヴィシスを黙らせるように。
テーゼは、杖底で地面を叩いた。
「他者を無視した”自由”には――当然、その行動に対する反発的な結果が伴います。今のこの状況も、そなたがやりたいようにやった”結果”と言えるでしょう。”自由”とはそもそも、他者が存在する限りどこかで反発を受ける概念なのです。いいですか? 壁なき自由は”自由”とは呼べません。制限――壁があって、初めて自由とは真の”自由”たりえるのです。そして他者が存在する以上、いきすぎた自由は必ずどこかで壁とぶつかります。それはとても自然なことです。ですから、そなたの自由への主張を根本的に否定はできませんが、それにより起こった結果は――受け入れるしか、ないでしょう」
「そ、そんな――無茶苦茶ですテーゼ様!」
「無茶苦茶なのは、どちらですか」
「ひ、ひどすぎる……あまりにも……」
「ひどすぎるのは、そなたの主張です」
「う、うぅぅ……」
すると――観念したように。
糸が、切れたように。
ヴィシスは力なく崩れ落ち、地面に両膝をついた。
「……わかり、ました。私は……自らの罪を認めます。ですから……」
こうべを垂れ、すべてを諦めた様子で――ヴィシスは言った。
「私の存在をこのまま――消滅、させてください……」
「何を言っているのですか、ヴィシス。そなた――」
「…………」
「避けようと、していますね?」
「――ぐ、ぅ」
「”浄化回廊”」
がばっ、とヴィシスが面を上げる。
「テーゼ様! そ、それだけは――それだけは、どうか……ッ!」
懇願、している。
おそらくは――本気で。
あのヴィシスが。
やめてくれ、と。
あんなにも、必死になっている。
ここでようやく――テーゼが視線を上げ、ヴィシスを目で捉えた。
ジッとヴィシスを見据えている。
俺はヴィシスに視線を置いたままロキエラの方へ顔を寄せ、
「なんなんだ、その浄化回廊ってのは……?」
「端的に言えば、神族なら誰もが最も避けたいと思う処罰――それが、浄化回廊だよ」
ロキエラが”おそらく最良の解決方法”と言ってたヤツか。
あえて内容は聞いてなかったが、
「具体的には、どういうものなんだ?」
「――説明しましょう」
俺たちの会話を聞いていたのだろう。
跪くヴィシスに杖の先を向け、テーゼが言った。
ヴィシスは思考をフル回転でもさせているのか――
再び項垂れ、グギギ、と歯噛みしている。
切羽詰まった――そんな表現が、まさに似合う感じだった。
「浄化回廊とは、邪悪に染まり切った神族の最終更生手段です。ちなみに、過剰な処罰性を持ったこの高位原初呪文を使えるのはわたくしと主神だけです。この呪文は安易に誰もが使えてよいものではありません。なぜなら、非干渉型の特異呪文であるために改良も不可能であり、また、何者がなぜこのような呪文を生み出したのかも今をもって不明だからです。つまり、呪文の効果はわかっていても、まだその核の部分については不明な点が多い。ただ、これは私見ですが……元々この呪文は、我々神族が自浄作用を意識して生み出したものではなく、むしろ我々神族に敵対する者たちが生み出したものではないか――と、わたくしはそう見ています。それこそ……禁呪や、そなたの状態異常スキルと同じように」
話が少し逸れましたね、とテーゼ。
「浄化回廊は、対象者を異次元の狭間にある”亀裂”送りにし、そこで対象者の邪悪を完全に除去するまで――半永久的に、対象者を”罰する”とされています。その罰が具体的にどういった罰なのかまでは、わかっていませんが」
そして、とテーゼは続ける。
「過去、浄化回廊から”更生”を終えて戻ってきた神族はたったの二名。これは、わたくしが把握している範囲ではありますが――送り込まれたとされる神族の、0.2割となるようです」
つまり。
たとえば100人送られたとしたら――
2人しか戻ってきていない、ってことか。
「さらに両者とも、そなたたちヒトの世界でいう”廃人”の状態になっていました。少なくとも……わたくしの知る面影は、もはやありませんでした。特に、うち一人はとても意思の強い者だったので……本音を言えば、その姿を見て最初はわたくしの方が落ち込んでしまったくらいです。その者を浄化回廊へ送り込んだのが主神で、まだよかった――その時は、そう思ってしまったほどでした。もし送り込んだのがわたくしだったらと思うと……つまり、こちらの方が心に傷を負いかねないほど、戻ってきた時の姿はひどいものだったのです。いくら残虐非道かつ身勝手な行いを重ねたとはいえ……いくらなんでも、あのような……浄化回廊で過ごした日々がどれほどおぞましいものだったのか――想像したくもありません」
ヴィシスの呼吸が。
乱れ、荒くなってきた。
ぽた、ぽた……と。
地面にヴィシスの汗が、滴り落ちている。
「ただその者は、少しずつですが……今は復帰し、天界の一員としてよく働いてくれています。もはや元の邪悪な性質は微塵もうかがえませんが……その者が恨みを買っていた頃の神族も幾人かいるため、まれに意地悪というか……小間使いのような扱いをされているようです。さすがにかわいそうですので、わたくしも時々叱ってはいるのですが……長年の恨みというのは、恐ろしいものですね」
”最も避けたいと思う処罰”
……確かに、な。
ある意味、それは死よりも恐ろしい。
いや、神族の場合は――消滅か。
しかもである。
今の話では”あること”に触れられていない。
まあ聞くまでもないこととは思うが……。
話題にほぼ出てきていない、もう一人の帰還者。
おそらく――廃人状態から、まだ復帰できていないのだ。
テーゼは再び口を開き、
「少々、いらぬ自分語りが入ってしまいましたが……回廊内における罰の中身がいまだ不明なのは、この廃人化の影響のためです。両名とも、回廊内で過ごした時期の記憶がないのです」
ヴィシスが震える声で、
「テ、テーゼ様……浄化回廊だけは、ど、どうか――」
言葉を途中で断ち切るように、テーゼが言った。
「馬鹿げたことを、してしまいましたね――ヴィシス」
その時、だった。
「ぅうう……ぐ……ぐ、ぅぅ……ぅぅぅ――ぅぅううううう゛う゛……ッ!」
――――ヴィシスの目つきが、変わった。
ヴィシスが顔を上げ、口を開く。
「!」
俺は手を前へ突き出し――
「【パララ「【滅声――――
ヴィシスの体が突如、白と黒の光を発し――
▲
▽
ハッ、と。
意識が戻――、……、
――たって、わけでも……ない、のか?
視界の先。
膝をついていたはずのヴィシスが、立ち上がっていた。
ヴィシスの鼻先には――テーゼの杖の先が、突きつけられている。
なんだか。
時間が数秒くらい、吹き飛んだような感覚。
が、意識を失っていたというわけでもない……感じだが。
とても、奇妙な感覚。
言葉で説明するのが難しい。
この場にいる他の者たちも、わずかにざわめいている。
ずっと固唾をのみ、皆、事の行く末を見守っている様子だったが。
今のはさすがに、変な感じがしたのだろう。
「……何が、起こった?」
俺がそう口にすると、ロキエラが答える。
「あれがテーゼ様の、最も特殊と言える能力だよ」
テーゼは揺らめく光の金眼でヴィシスを捉えたまま、
「そなたの【神級魔法が成功した】という結果を、取り除きました。ゆえに今のそなたには【神級魔法が失敗した】という結果しか、残っていません」
「ぐ……ぬ、ぅ……ぅうううッ」
「そなたも無駄だとわかっていたのでしょうが……追い詰められ、イチかバチかで何か強力な神級魔法を使おうとしたのでしょう――しかし、無駄です。そなたの望む”結果”は、もはやこの場では与えられません。もしなんらかの手段で自死――自ら消滅を選ぼうとしても、もう逃げられません」
ヴィシスの口の拘束具をテーゼが破壊した時。
テーゼ様だから大丈夫、とロキエラは言っていた。
……なるほど。
これが天界序列二位――テーゼ。
拘束具の破壊後、ヴィシスが神級魔法を使わなかったのも。
こうなるのが予測できていたからだろう。
……つーか。
やっぱりあの拘束具で黙らせといて、正解だったか。
ただ……と、気がかりな口ぶりで呟くテーゼ。
「わたくしが力を行使した際、確かな”抵抗”が感じられました。なるほど――わたくしのこの力への対策は、しっかり取っていたようですね。もしそなたがここまで弱っておらず、万全の状態だったらと思うと……彼らにはやはり、感謝せねばなりません」
テーゼはそう言って俺の方を見ると、
「申し訳ありません。必要ないかとも思ったのですが、そなたの状態異常スキルの”成功”も除外させていただきました。どうやら状態異常スキルの効果そのものには干渉できませんが、そなた――トーカ・ミモリ自身の因果の方には、干渉できるようですね」
テーゼの言うように。
発動したと思った【パラライズ】は、発動していない。
発動後の効果については干渉できない。
が、それ以前の発動の可否の方には干渉できるってわけか。
しかし、と微笑みを浮かべるテーゼ。
「この場で真っ先にヴィシスの異変を察知し動いたのは、そなたでしたね。なるほど――ロキエラが買っているのもわかる気がします。二番目に動き出したのはそちらのハイエルフ……セラス、と言いましたか。ロキエラの言うとおり、二人はよき番いのようです」
「…………」
あのな、ロキエラ……。
番いってのは、夫婦を意味する言葉なんだが。
――いやまあ、そこまで的外れってわけでもないのか。
セラスはセラスで、赤くなっていた。
テーゼはヴィシスに顔を向け直し、
「ヴィシス、そなたは知らなかったと思いますが……浄化回廊は、確かな邪悪を対象者としなければ強烈な次元の歪みを引き起こします。ですから悪事を働いたからといって、誰も彼もを無闇に送り込むわけにはいかないのです。しかも……わたくしの考える”邪悪”と、浄化回廊を生み出した何者かの定めた”邪悪”の解釈は必ずしも一致しません。つまり、浄化回廊の条件として定められた”邪悪”でなければならないのです。ですので――そなたから動機や本音を引き出し、浄化回廊に送っても問題のない”邪悪”かどうかを、念のために判定する必要がありました」
個人的な興味なのかと思っていたが。
テーゼが動機を知りたがっていた理由は――
そういうこと、だったのか。
樹が俺に言った台詞じゃないが。
なかなかに……いい性格を、してやがる。
”正直に離せば、内容によっては最悪の事態を避けられるかもしれない”
みたいなことを言ってたが。
実はただの――確認作業だった、というわけか。
ヴィシスが、いよいよ崖っぷちに追い詰められたような――
「こ――」
しかし憎悪をみなぎらせた形相で、テーゼを睨みつける。
「この……クソ、ババアがッ……ば――馬鹿に……しやがって…………ッ」
「ヴィシス」
特に気分を害した様子もなく、テーゼは平坦にその名を口にした。
「わたくしも主神も、そなたの研究者としての才には一目置いていたのです」
「!」
「公平に見れば、執念を燃やす学究の徒としてのそなたの才は、広大な愛を持つロキエラの才を遙かに上回っています。いえ……素質という意味では、おそらく天界の中で最上位にあるだろうと――主神もそうおっしゃっていました。わたくしも主神も、そなたの研究者としての才には期待していたのです……多少の問題には、目をつむっても。ただ神々の夕闇の予兆が想定よりかなり早く観測され、その対策にとても長い時と意識を、わたくしたちは費やさなければなりませんでした……それもあって、そなたの変化に気づけなかった。しかし……それは言い訳ですね。監督不行届と言われても仕方ありません。そなたの才は買っていただけに――、……残念です。色々と」
ヴィシスはその言葉に活路でも見出したのか。
涙を流し、今度は、必死の形相で懇願を始めた。
「――さ、先ほどの心にもない無礼な発言……どうか、どうかお許しを! お許しください! 浄化回廊の刑が怖いあまり、つい、錯乱してしまったのです! テ、テーゼ様……ッ! 完全に――今、改心しました! い、いえ……それでは嘘っぽく響くかもしれませんので――あえて、改心する努力をすると言い換えましょう! その上で……私はこれより、一人の従順な研究者として、主神とあなた様が評価してくださったこの才を、天界にすべて捧げると誓います! ひたすらに、永遠に――純粋なる研究者として、天界に尽くしたく思います!」
「 もう遅い 」
より一層、テーゼの金眼が強い光を放った。
それからテーゼは杖を高く掲げ――――――来たれ、と。
神々しく――そして、厳かに。
その回廊の名を、口にした。
「 【 浄 化 回 廊 】 」
「ぃ――嫌…………嫌ぁぁぁぁあああ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――――――――――――ッ!!!」




