間章.北の魔に動きあり
◇【十河綾香】◇
十河綾香は、宿舎の自室でストレッチをしていた。
ストレッチを終えた綾香は槍を手にし、演武を行う。
最後に、槍を突き出す。
(――うん。思っていたより回復が早い。極弦の負荷は、消えてる)
間に合った。
明日、ついに勇者たちは北へと発つ。
五日前、北の大魔帝軍に大きな動きがあったのだ。
大誓壁に、大魔帝の軍勢が集結しているという。
大魔帝の姿も確認された。
綾香は大魔帝を直接その目で見たことはない。
が、東の戦場に現れた大魔帝を目にした高雄樹が絵に起こしてくれた。
『へへーん、絵の方は姉貴よりあたしの方がうめーんだよなー』
確かに、上手かった。
意外――と言っては、失礼かもしれないが。
生物要塞めいたあの巨大で禍々しいフォルム。
あんなものと、戦わなくてはならないのか。
大魔帝軍は早速その軍勢の一部を東へ移動させているという。
東回りでアライオンを目指していると思われる。
『まるで西のミラの動きと呼応でもするみたいに、とても嫌な時に動きましたねぇ。いえ、というより……こちら側のゴタゴタを知ったからこその、あの動きなのでしょうか』
女神はそう分析していた。
『そしてあの規模……向こうも、今回が決戦のつもりなのかもしれません』
大魔帝――根源なる邪悪は、無数の金眼を産み落とす。
が、産み落とすほどその金眼が勇者に経験値を与えかねない。
戦いが長引くほど、根源なる邪悪も不利になりかねないわけだ。
女神は根源なる邪悪の邪王素でほぼ無力化される。
この世界で生まれた者たちも同じ。
が、異界の勇者だけは邪王素で弱体化できない。
根源なる邪悪にとって、勇者は唯一と言える天敵。
先の戦いではS級勇者を分散させ、魔防の白城へ奇襲をかけてきた。
魔帝器による人面種の呼び寄せ。
さらにそこへ側近級の第一誓、第二誓の連続投入。
今にして思えば……。
勇者を始末したいという意思が、嫌というほど見て取れる。
ただ、先の戦いは他方面へも圧倒的戦力をぶつけてきた。
大魔帝軍が手を抜いた戦場など、一つとしてなかったのだ。
『やはり大魔帝は、これまでの根源なる邪悪と比べて遥かに強力と言わざるをえません』
女神はそう評し、広場へ集めた勇者たちに言った。
『ですが、こちらにも過去最強と言える勇者が揃っています。我が神聖連合はこれより、勇者たちと共に大誓壁を目指し、そこへ集った金眼の魔物及び大魔帝を――殲滅します』
女神は、今回の戦いを”魔帝討伐戦”と銘打った。
討伐軍の総大将はマグナルのソギュード・シグムスが務める。
白狼騎士団の団長である。
主に討伐軍に名を連ねるのは、
アライオン軍、ネーア軍、バクオス軍、白狼騎士団。
ウルザ軍は西のミラの対応で戦力を回せない。
アライオンも少なくない戦力を対ミラ軍へ出している。
ネーア軍やバクオス軍も、先の戦いの影響で数はそう多くない。
ヨナトやマグナルは現在、防衛すら危うい戦力しかない。
到底、参加などできない。
出せても数は相当厳しいだろう。
こうなると、勇者たちの戦力が最重要となってくる。
ちなみに軍総司令官の人選だが、桐原拓斗は異を唱えた。
『まさかヴィシス、失望のその先を……このオレに見せるつもりか。あのソギュードとかいう男がこのオレより……本気で、キリハラだと?』
が、高雄聖がそこで巧みに彼を説得した。
あの桐原拓斗を(渋々ながらも)納得させた聖の話術。
綾香も、舌を巻いた。
やはり彼女はすごい。
(ともあれ……)
槍を強く握り直す綾香。
(ついに、大魔帝軍との決戦が始まる……)
と、綾香の部屋を高雄姉妹が訪ねてきた。
「召集よ」
「あの、少し待っていてもらえる? すぐに着替えるから」
「大丈夫よ、急がなくていいわ」
「委員長、着やせするタイプか……」
「樹、そういうのはいいから」
「ごみんなさい、委員長……」
「い、いいからっ……気にしないで、樹さん。それじゃあ、少しだけ時間をもらいます」
言って、綾香はドアを閉めた。
そのままてきぱき勇者装に着替え、再びドアを開ける。
「お、お待たせしました」
聖が背を預けていた壁から離れる。
「それじゃあ、行きましょうか」
ドアに鍵を掛け、廊下に出る。
聖が言った。
「いよいよ私たちも、決戦の地へ旅立つ日が来たわけね」
「ええ……ついに、この日が来た」
綾香が緊張して言うと、樹がへらへら肩を叩く。
「まー気持ちはわかるけどさ。もっと気楽に行こうぜ、委員長」
「う、うん……ありがとう、樹さん」
「どーいたしまして♪」
樹の明るさは、綾香にはありがたい。
そんな妹とは対照的に、やはり冷静沈着な聖が言う。
「ともあれ、私たちは大魔帝を倒さないことには始まらない。大魔帝を倒して心臓を手に入れる。もしくは……」
聖は睫毛を伏せ、黒水晶の首飾りに手を添えた。
「この首飾りに、大魔帝の宿す邪王素を取り込む」
「あれ? 聖さん、その首飾り……」
「今日、女神から呼び出されてね。託されたのよ」
聖は女神から信頼されているようだ。
実際、最近の女神の聖に対する態度は目に見えて軟化していた。
「……やれるかしら、私たち」
「不安はわかるわ。私だって、すべて上手く運ぶとは思っていないもの」
「ねぇ、聖さん……女神様は、本当に――」
「待って」
一人のメイドがこちらへ向かって廊下を歩いてくる。
畳んだシーツを抱えていた。
他には騎士が二人、メイドとは反対側の廊下の先――
階段付近に、姿を現していた。
ピトッ
聖が綾香の唇に、ひとさし指を添える。
「十河さん、ここでその話は」
「あ、ごめんなさい。つい、うっかり……」
(いけない……しっかりしないと。私はS級勇者である以前に、2−Cの委員ちょ――)
――――――――――― ドッ ―――――――――――
(……あれ? 今、何か――)
圧力の、ようなものが。
威圧感のような、何かが。
全身を、
駆け、
巡って。
「!」
「おい姉貴、あれ……ッ!」
「――ええ」
三人で、メイドに駆け寄る。
メイドは倒れていた。
樹が抱き起こす。
メイドが白目を剥き、痙攣している。
樹が呼びかけるも、とても返事ができる状態にない。
「……あっちも」
振り返った綾香の視線の先。
反対側の廊下にいた二人の騎士。
やはり、同じように倒れている。
「おい姉貴……こいつ、ちょっとやばいんじゃないのかっ!?」
メイドが泡を吹き始めた。
樹が廊下の先を睨む。
「くそ……一体、何が起きたってんだよ!?」
「私たちはなんともないわ、樹」
聖がメイドを見つめながら言った。
動揺はあまり感じられない。
が、まったく動揺していないわけでもなさそうだった。
”さすがにこれは想定外”
そんな風にも、見えた。
「聖さん、これって……まさか――」
綾香は、気づく。
自分たちだけが。
”異界の勇者だけがまったく影響を受けないもの”
それは――
「邪王、素……」
「ええ、おそらくは」
「けど変だわ、聖さん……こんな濃い邪王素なんて……」
「この濃度だと、かなり近くにいるはず」
聖は双眸を細め、自問的に続ける。
「城内……あるいは、城の敷地内に……?」
「聖さん……私には、なんの前触れもなく急に邪王素が満ちた感覚だった。それに……」
「どうした、委員長?」
向こうで倒れている二人の騎士。
綾香はその騎士たちの顔に見覚えがあった。
魔防の白城で戦った時、あそこで共に戦った騎士だった。
「あの戦場で、邪王素の影響で昏倒した人はたくさんいた……でも、あそこまで……」
廊下の向こうで痙攣している騎士を見る。
邪王素の影響は――
あそこまで、ひどかっただろうか?
「十河さんは、側近級で最も強いとされた第一誓や、その次に強い第二誓の放つ邪王素の影響を目にしている」
「……ええ」
「あなたはこの邪王素の影響が、それ以上だというの?」
「邪王素かはわからないけれど……威圧感というか、凄味というか……とにかく――何か、桁が……桁が、違う感じがするの……ッ!」
何か、嫌な予感が。
して。
「私は”繋がった”気がする」
「繋がっ、た……?」
「遠目だったけれど……東の戦場で目にした、あれと」
「おいおい、姉貴……え? それってまさか……」
「確認する必要はあるけれど……確率は高い。今は、そう見ておくべきよ」
三人、互いの顔を窺い合う。
おそらく皆、同じ予測に至っている。
綾香の背を冷たいものが駆け抜けた。
ドッ、と。
汗が、噴き出てくる。
どのようにしてそれが成ったのかは見当もつかない。
なぜ今なのかも、わからない。
意図など、何も読めない。
なぜ?
どうして?
疑問しか――出てこない。
ただ、自分たちの持つ範囲の情報から導き出すのなら。
答えは、一つしかないのではないか。
「――――――――――――――――大魔帝」
直接、
乗り込んできた。




