命を、
この一帯に魔物の気配がなかった理由……。
そうか。
さっき殺したあの魔物。
死ねば大量の魔物が凄まじい勢いで集まってくる。
もたらすのは――大移動による破壊、混乱。
魔群帯に巣食うモノたちですら避けたいレベルの”大騒動”。
だから魔物たちは”事故”を避け、ここから離れていた。
あの魔物の棲息地から。
つまり……。
何匹かいて同じことが過去にあったとも考えられる、か。
仮説だが、ありえなくもない。
「…………」
防げたか?
いや――難しかっただろう。
実のところ【パラライズ】は悪手となりえた。
あの魔物が”死にたがり”だったからだ。
これは【パラライズ】の特性に問題がある。
力任せにもがくと、ダメージを受けて死に至る。
もし死を望む魔物がもがけば暴れて死ぬかもしれない。
出現時、俺の頭によぎったのはそれだった。
あの瞬間、俺は魔物の死を避ける必要性を感じた。
最適なのは【スリープ】だった。
が、射程の短い【スリープ】は残念ながら届かなかった。
「――――」
脳内でほんの一瞬だけ花開いた考察を終える。
今はこの局面をどう乗り切るかが先決。
鳥たちが騒がしく木々から飛び立っていく。
さながら、凶報を告げるがごとく。
聴覚に意識を集中させる。
到達までにはまだ距離がある……。
その一方、俺は数の予測をやめた。
無意味だ。
馬鹿げた数が接近してきている。
これがわかれば、もういい。
その時、
ふゅぅぅぅぅ、と。
深くイヴが息を吐いた。
「皆、聞いてくれ」
イヴが俺たちと対峙する。
まるで、自分だけ向こう岸にいるかのように。
「我が囮となって魔物たちを引きつける。そなたたちは、その間に魔女のところへ行け」
「!」
リズがハッとなる。
「意地でもそなたたちを逃がす隙を作ってみせる」
イヴは来た道の方角へ首を巡らせた。
「我は逆方向へ逃げ、魔物たちをやり過ごしたのちに合流する。トーカ、地図は覚えているな? ここまで来れば、地図なしでも目的地の見当はつけられるはずだ」
「おねえちゃ――」
「リズ」
イヴのそれは、子どもに言い聞かせるような調子だった。
「この事態は我が招いたもの……ならば、我が事態の対処の先鋒として打って出るのは必定」
……責任を取る、と言いたいわけか。
イヴは優しくリズの肩に手を置いてから、俺に視線をとめた。
「この姿を見てわかる通り我は豹人族。どさくさの中……案外、途中から魔物として認識されて逃げ切れるかもしれん。知っての通り察知能力は高い。こういった地形での移動も、それなりに得意としている」
セラスが、たまらずといった感じで胸に手を当てる。
「でしたら、私も森林地帯には慣れていますっ」
「そなたはいくらなんでも目立ちすぎる……ふふ、色々な意味でな」
「お、ねえ……ちゃ、ん……」
リズの肩が震えていた。
「おそらく時間の余裕はそう多くはないだろう。リズ……我が戻るまで、しっかりトーカとセラスの言うことを――」
「わかった」
俺は言った。
「おまえがそこまで言うのなら……イヴ、連中を引きつける役目はおまえに任せる。ただし、一つだけ言っておく。これだけは絶対に守れ――必ず、生きて戻れ」
イヴは目を細めると、朗らかに、覚悟と共に微笑んだ。
「ああ、約束し――」
「とでも、言うと思ったのか?」
「トー、カ……?」
「小知恵がついたのかずいぶん口が回るようになったな。けど、おまえじゃ生存確率が低すぎる」
「だが、我は……ッ」
音の大きさで距離を測りながら、俺は続ける。
「まずおまえが責任を感じる必要はない。おまえが斬った魔物だが、おそらく普段は気配を遮断していて、超至近距離まで来た時点で一気にその遮断を解除する……みたいな性質を持ってたんだろう。急に現れた魔物に驚いた相手が、慌てて自分を殺すのを狙う――そんな、魔物だった気がする」
「だ、だとしても……ッ」
「あなたのいた位置に立っていたのがもし私でも、同じ行動を取っていたはずです」
俺の伝えたかった意図。
セラスがそれを先んじて伝えてくれた。
なかなかいい援護射撃だ。
俺は、続けざまに言った。
「そしてイヴ・スピードは魔女と会う際に不可欠な存在だ。いいか? 魔女は”おまえたちの一族”にその地図を託した。地図を託した者が訪れた方がとっかかりの交渉はしやすい。それは自明だ。だから、ここでおまえを失う確率を高めるわけにはいかない」
話しながら、俺は荷物から蠅王のマスクを取り出した。
次に、胸元のポケットから禁術製の拡声石を摘まみ取る。
まだ固まり切っていない。
が、ひとまず固形状にはなっている。
マスクの変声石の近くにそれを嵌め込む。
ちなみに、蠅王のマスクは時間を見つけてチクチク改造していた。
拡声石。
声を増幅させる魔法の石。
禁術アイテムの中では作り方が簡単だった。
なにせ移動しながら手元で作成できたのだから。
ただ、素材は『禁術大全』の記載とは違う人面種由来の素材。
効果の関係上、思うような効果が得られるかまでは実験していない。
機能してくれるといいが。
マスクを手に、言う。
「今の状況、最もこの中で生存確率が高いのは俺だ。いや、正しくは俺、ピギ丸、スレイ……」
そう、
「この組み合わせが全員生存の最適解だ。そして、現状――」
胸の前で、俺は右手を誇示する。
「人面種に対して確実な致死ダメージを与えられるのは、この俺の状態異常スキルだけだ」
「ぐっ……」
イヴは、反論しなかった。
理解したのだろう。
合理的に考えれば、俺が連中を引きつけるのが最善だと。
責任を感じているのはわかる。
が、誰も責めてなどいない。
「責任感は大事だが、責任の所在自体はこの戦団をあずかる俺が決める。だから――俺が気にするなと言ったら、気にするな。それが命令だ」
イヴが俯く。
「…………すまぬ」
フン、と軽く鼻を鳴らす。
「おまえのその生真面目なところは、嫌いじゃないけどな」
「トーカ様」
リズが短く、俺に呼びかけた。
「ありがとうございます」
「礼にはまだ早い。それは、全員無事に目的地へ辿り着いてからだ」
「――はいっ」
力強い返事だった。
「トーカ殿……」
セラスは複雑そうな表情をしていた。
心配なのだろう。
が、セラスはわかっている。
これ以上、押し問答をしている猶予のないことを。
これ以上、互いを気遣う会話などできないことを。
いくつかの感情を押し殺した様子で、セラスは膝を突いた。
白く小さなその額は汗ばんでいる。
ひと言だけ、彼女は紡いだ。
「ご武運を」
つくづく騎士のイメージに忠実なハイエルフだ。
「あとを任せる」
「はっ」
俺はセラスに”最悪の事態”に陥った場合の行動を伝えた。
最悪の事態。
それはもちろん、俺が戻らなかった場合のことだ。
あらゆる事態は想定しておかねばならない。
セラスが立ち上がる。
「縁起でもないことを言わないでください、と返したいところですが……今は”承知しました”とだけ返しておきます」
「フン、有能な副長で助かるよ。おまえは、イヴとリズを連れてあの岩山の横穴に身を隠せ。どこの話をしてるかはわかるな?」
崖の壁にぶち当たった時に見つけたあの穴。
穴の狭さを考えても、身を隠すにはもってこいだ。
距離もここから遠くない。
「あの穴へ移動するタイミングはおまえに任せる。そのうち魔物が大規模な群れで移動し始める瞬間が来る。それをイヴと二人で見極めろ。その時が、動く機だ」
「わかりました」
「よし」
俺はセラスたちを一時的に繁みに隠れさせた。
イヴだけではない。
皆、何か言いたそうだった。
が、皆状況をわかっている。
時間がないとわかっている。
再び、俺は意識を深く集中させる。
近い。
――そろそろ、か。
ここまで引きつければいいだろう。
「届かせないと、意味がねぇからな」
俺はスレイに魔素を送る。
突起状のピギ丸が、ニョキッと顔を出した。
「――行くぞ」
「ピギィ!」
▽
第三形態の黒馬と化したスレイに乗って、移動を開始する。
「この辺で、いいか」
蠅王のマスクを取り出し、拡声石へ魔素を送り込む。
これで声を拡大できる。
マスクを、ピギ丸に近づける。
「開戦の狼煙を上げるのは、おまえだ」
「ピ」
「やれ」
力むみたいに、ピギ丸が膨らむ。
そして、
「ピッ、ギィィィィイイイイイイイイィィイイイイィィィィイイイイイイイイイ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛イ゛――――――――――――ッ!!!」
数秒が、経って。
よし。
「動いた」
魔物の気配。
地を震動させる大量の移動音。
方向転換して、こちらへ向かっている。
「クカカ、馬鹿どもが……耳のいい連中で助かるぜ。馬鹿正直に、引き寄せられていやがる……」
ここまでは、目論み通り。
蠅王のマスクを被る。
マスクを被ると視界は狭くなる。
が、これからハイスピードで駆け続けることになるだろう。
だから、このマスクは枝から目を保護するために必要と判断した。
それに枝避けに意識を割かない分、他へ意識のリソースを回せる。
俺は再びスレイを走らせた。
スレイは身体の一部を変化させて俺の足を上手く固定してくれていた。
第三形態ならではの能力のようだが……。
これなら騎乗の心得のない俺でも乗馬の問題をクリアできそうだ。
魔物どもは――よし、追ってきている。
しかし先頭集団がいやに速い。
「これは……」
少なくとも先頭の連中にはいずれ追いつかれる、か。
一つ、深呼吸。
実を言うと、気持ちにそこまでの余裕はなかった。
正直なところ生き残れるかどうかの確信はない。
集まった人面種の強さ次第ではあっさり詰む。
いかんせん敵のサンプルが少なすぎる。
相手のスペックは不明。
数も尋常ではない。
が、さっきのあの時点でセラスたちを不安がらせるのはまずかった。
少しでも不安を覗かせたなら、皆、俺が一人で行くのを止めにきたはず。
命令を下す人間は不動でなければならない。
弱さを見せてはならない。
絶対の確信が持てなくとも。
それが、責務。
最強を信じさせ続けるのも、責務の一つと言えるだろう。
生きて戻る意志はある。
が――五体満足でセラスたちの元へ帰れるかどうかまでは、わからない。
この戦いで何を失うのかまでは、俺もわからない。
「悪い、二人とも」
迫る夥しい魔性を背後に感じながら、俺は声をかけた。
「ピ?」
「ブルル……?」
「俺に命を、あずけてくれるか」
赤色。
ピギ丸が示したのは、拒否の色。
スレイは首を振った。
ん?
俺は気づく。
ああ、そうか。
こいつらは、もう――
「悪い、言い直す」
俺は言い直した。
「俺とあいつらのために、命をあずけてくれるか」
返ってきたのは、
「ピギーッ!」
出会った頃は気の弱かったスライムの肯定の緑と、
「ブルルルルゥ!」
闘志の込められた黒き魔獣の気炎。
――ミシッ――
ピギ丸も、
スレイも、
万全ではない。
消耗、している。
それでもやると、言ってくれている。
仲間のために。
――ミシッ――
根を張る感覚が、首から、顔面へ迫ってくる。
残酷なほどに”無数”と言わざるをえない背後の大魔群。
ゾクリ、と。
鋭い魔性に、背筋があてられる。
ふと、金棲魔群帯そのものと対峙しているような、そんな強い錯覚に襲われた。
――ミシィッ――
鼓動が速度を増し、冷たい汗が、首筋を伝っていく。
「ステータス、オープン」
MP残量を、表示……
黒馬の九本の馬脚が、泥を巻き上げながら、激しく、大地を蹴る。
「さあ――」
スレイの速度を上げ、背後を振り返る。
「全面戦争といこうか」




